第六章 ワイズ・チルドレン(7)
「由良、大丈夫か」
「龍」顔を上げると、その眼が潤んでいた。僕はそれをハグしてやった。
由良が一際震えたのが分かる。
「龍、私、怖かったよおおおっ!」と言って、おいおい泣き始めた。
種村と矢川が近付いてきた。篠田はまだ気絶から回復していないようだった。でかい乳を仰向けにして首を曲げ、パイプ椅子にもたれかかっている。
「お兄ちゃんなら当然勝てると思ってたよ」
「種村は試合が決まった時点でそう思っていた」あまり表情は変えないながら、むすくれているようである。
篠田のところに近づき、何度か揺すってやる。
「ん、んあへええっ」篠田は眼を開いた。涎が垂れている。「あれっ、わたくし? 龍くん、それに由良さん。種村さんに矢川さんまで一体どうしましたのっ?」
「駄肉、アンタは負けたのよ」と由良が叫んだ。
「んへっ、ほ、ほーかねっ? 全く記憶にございませんのっ」
「気楽なもんね。百目鬼に完膚無きまでに叩きのめされたのよっ」
流石の篠田も、ちょっとばかりしょげてしまったようである。力なく肩を落とした。
「ま、いいじゃないか勝ったんだし」
「龍くんが勝ちましたのっ?」突然両手の指をがっしり合わせて、眼を輝かせ始めた。
「と、私がね」由良は自慢そうに付け加える。
「んほほほほっ、結局美食部も、幻文部の足下には及びませんわねえっ! あっ、もちろん、三才は一番の親友ですけれどっ!」平常運行に戻ったな。
丸谷らと最後に顔を合わせた。
「季菜も充分強かったよ」川村は微笑んで言う。
「種村身体鍛える」と顔を伏せた。
「これで、君たち幻想文学部の名前も校内に轟くことだろうね。だってそうだ、わたしたちの美食部に勝利したんだから。十一子もやっぱり見る眼があったということだ」
「んもおっ、三才ったら、相変わらず口が上手いですわっ! 今度からは美食部と幻文部は仲良く共闘していきたいものですわっ」と、お互いベタ褒めし合っている。
この二人が対戦したらどうなるんだろう。ちょっと見てみたくもあった。
「先輩、是非今度こそちゃんと勝負したいものですね」と百目鬼。
「次こそは負けませんわ! 新しい幻想を編み出して、元恭君を撃破するのですわっ!」
あくまでもポジティブなようでよかったよ。
ダメージは受けたが、由良も元気そうだ。
「あはっ、これからは、美食部は幻文部に頭を下げて歩きなさいねっ」と反感を呼びそうなことを言って煽り立てている。幸いそれに乗ってくる者はいなかったが。
一番落ち込んでいるのは種村のようである。表情の変化は乏しかったが、川村を避けて体育館の隅に行き、うんこ座りしたまま、どよーんとした暗い幕が垂れ込めていた。柴田宵じゃないんだから。
丸谷達と別れ、人も疎らになった体育館を出ようと思ったその時だ。
くい、と後ろ側から腕を引かれた。
「種村恥じ入る」
「勝負は時の運だろ、それに人は失敗して強くなるもんじゃないか」ありがちな慰め方である。
「種村は二回も負けた。同じシチュエーションで」
「だから、鍛ればいいじゃないか」
「どうやって鍛えればいいか」
「そ、そりゃ、ジムとかで?」
「そんなものがあるのか」
「あ、あるだろう、駅前とかには」
「澁澤、探してくれるか?」顔を擡げる。暗い幕が消えた。
「う、うん、探すよ、探がしゃいいんだろ。何とか」
やれやれ。また手間が掛かりそうだぞ、これは。
皆で校舎の方に戻った。四人並んで、和気藹々と進んだ。時々は笑い声も漏れた。少し前だったら考えられない状況だ。
「そうですわっ!」と篠田がピンと小指を立てる。
「何よ、キモいんだけど」と由良。
「龍くんの家でお茶会をしますのっ」
「「「「お茶会?」」」」」四人全員が叫ぶ。
「そうですわっ、わたくし、お父様お母様から超高級のお紅茶を送って頂きましたの。それを皆さんにお裾分けしてさしあげようと思いますのっ!」
「で、その紅茶の種類は?」意地悪な顔になって由良が聞き返す。結構そういう細かいところには拘るのだ。
「ええっ、なっ、なんでしたかしらっ!」
「ダージリン? アッサム? アールグレイ?」
「それですわっ、ダージリンアッサムアールグレイに間違いないですわっ」
「何いってんのよ、それ皆一つ一つ別々の品種よっ! ぷぷぷっ。考えて見ればそのお嬢様言葉も随分と怪しいわねっ」
「んなっ、なんですって! 幾ら由良さんと言っても言って良いことと悪いことがありますわよっ!」顔を真っ赤にして叫ぶ。
「いーだ。私は紅茶にはうるさいのよ。何時も飲んでるわ。ウィスキーを紅茶に一滴垂らすの」
「なんだって!」僕はビックリした。未成年飲酒である。
「寝る前に飲むだけよ。そしたらすんなり眠れるわ。オールド・パーってやつをね」
全くませた生徒が多い高校だな。
種村と矢川は時折会話に加わる程度だったが、時々矢川が種村の肩に手を置いてやっているのが分かった。
先日まで敵対していたのに。女の友情は分からないな。
と、何か視線を感じた。後ろを振り返る。 三島由綺だった。今は制服姿だ。
僕の視線を感じ取って、柱の陰に隠れた。
焦っていたようだが、僕にはその動きがえらくゆっくりに思えた。恐らく試合の時の感覚がまだ残っていたのだろう。
その表情には何か物憂いような、悲しげなものがあった。
今まで見たことがない種類のもので、本当にあの生徒会長と同一人物なのか最初は疑わしかった。
しかし、柱の陰から金髪が覗いていたので、その人だということはすぐにわかった。三島にしては随分と杜撰だ。彼女ならばその動きを気取られずに、相手を観察することなど容易だっただろう。
なぜそれをしないのか。
「龍、どうしたの」由良が心配げに顔を向けてくる。また、ぼうっとしているように思われたのだろうか。
「いや、なんでもないんだ」三島のことを伝えるのは今は止めておこう。
やっと部室に辿り付いた。今日もまた本を読んで過ごすか。
四月も下旬を迎えて、ようやく気温も安定し始めた。窓は開かれたままになって、カーテンを自然にそよがせている。
『シルトの岸辺』はようやく五百ページに達していた。残すところはあと少し。
その夜、僕は珍しくパソコンに向かっていた。ネット電話を起動する。話したい相手がいるからだ。
出口だった。風呂上がりなのか、カメラ越しでも襟口から湯気が立って見えた。
パジャマを着ている。足を組んでこちらを見詰めていた。
それにしても本当に長い見事な黒髪だな。時折手を動かしてそれを掻き上げながら、出口は気怠そうに呟いた。
「それで、何が言いたいの?」
「ごめん、ほんとごめん。前の僕は変だった」
「はぁ?」とちょっと顔を顰める。余り機嫌はよくないらしい。
「前言ってたろ、三島と僕が知り合いだって、それを出口は覚えていた」
「ミシマって誰?」
あれ、おかしいな。
「生徒会長のさ」
「名前は聞いてるけど、ミシマなんて人直接知らないんだけど」
「ほら、言ってただろ、小学校に入る前に僕が仲良くしていた娘がいるって」
「あー、それ」納得したようだ。「そいつはミシマじゃなくてヒラオカ、うち、ミシマなんて名前一言も言ってねえぞ」
愕然とした。出口がヒラオカだといった名前を、何故か僕がミシマに取り違えたのだ。
というより、あの夢の娘はどこかで見覚えがある。
誰だ?
いや。
考えるまでもないじゃないか。
あれは三島由綺その人だった。だから僕はヒラオカとミシマを取り違えたのだった。それにしても信じられない夢の光景だ。
妹の事故の話も、どうかしている。だが出口の言っている事は恐らく正しい。
何かが、あったのだ。
何かが。
「あの、眠いんですけど」出口は大きく欠伸をした。
「ごめん、もう寝ていいよ。変なことばっか言ってすまん」
「龍はホントにモテるんだよね」一言ポツンと。
「えっ、何か言った?」
「なんも。おやすみー」
電話は切断された。




