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シブサワくん家で午後五時にお茶を  作者: 浦出卓郎
第一章 See no evil, hear no evil, speak no evil.
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第一章 See no evil, hear no evil, speak no evil.(2)

 翌朝、二のDの教室に於いて、一時限目の途中から僕はそわそわとした気分になっていた。何故なら、学級委員長の矢川澄香が隣の席になったからだ。 

 少し群青掛かったストレートヘアの、清楚をそのまま描出したかのような娘である。瞳の色はうっすらと紫色を帯びていて、鼻筋はよく通っている。ブラウスの衿元に到るまでぴっちりと合わせられていた。校則では香水は禁じられているはずだが、側にいるだけでいい香りがする。

 これ以上に語りうる言葉があろうか。美しいものに説明は要らない。

 一年の時は別のクラスだったので、ただ見ているだけだった。ところが今年度から同じクラスになり、なんと隣の席になろうとは。

これは知り合いになる機会を得たという意味では天佑といえたが、反面会話スキルの揃わぬ僕にとっては煉獄となった。

 とても細心な手付きで、シャーペンを握り、黒板の文字を大学ノートの罫線の間に書き付けていく。とてもじゃないが、そんな芸当はできない。僕は大体罫線三本分を使って広々と書いている。

 「澁澤くんー」

 相変わらず僕はぼうっとしていた。

 「澁澤くん」

 少し大きな声になったので思わず、そちらを見た。日本史担当の柴田宵がこちらを恨むような目で見詰めている。

 黒板の前に立った痩身は、まるで柳の下の幽霊のようだった。長い黒髪だが、こちらは矢川と違って大きくウエーブしている。驚く程の貧乳だが、それを気にしている様子はない。

 普通の教師ならば怒鳴り付けてくるところを、柴田先生は病弱な女性らしく、こちらを陰気な調子で、じっとりと睨め付けてくる。

 この凝視が耐えがたいと全クラスでは評判になっている。どよーんとした暗い幕が、背中側に垂れているようにも見えるのだった。

 「そこ読んでくれます?」

 「ど、どこですか」

 つくづく呆れかえった様子で柴田先生は、絶望した溜息を吐き、

 「二百五頁」と言った。

 「へいとはんもとはんしゅまつうらきよしはこうしよばなしをあらわしたが」

 「へいとじゃなくて平戸、まつうらじゃなくて松浦まつら、『甲子夜話』は、かっしやわと読むのが通例ですねー」 

 読み上げの時点で悉く全否定された。しかもそれをいかにも儚げに言われるので、心理的ダメージは大きい。

 これだから日本史の授業は嫌いなのだ。

 「それじゃ、矢川さん」

 と指名が隣りに移ったかと思うと、すらすらと小川の流れのように後の言葉が読み上げられる。最早内容を理解する必要は無く、其の澄んだ音にただ耳を傾けていれば良いのだった。

 「はいよく出来ましたー」

 柴田先生は笑顔を浮かべるでもなく、それぐらいできて当然というかのように心ない声でいう。

 しかし、これはこれで人気のある先生なのだ。生徒が携帯を弄っていてもゲームをしていても、さして咎めることはない。

 そう言う連中はいないものとして扱われ、どんどん低い声で授業は進んでいく。指名されたものがその皺寄せを受けるのだった。そして僕は呼ばれることが多かった。

 鐘が鳴った。針の筵の一時間の終わりだ。

 直ぐ様教室を飛び出して行く連中がいる。

 後はそれぞれ仲間同士気の合う相手の机へと集まっていく。ぼっちたちは孤立していった。

 矢川澄香の席の周りには特に人気が多い。

 女子たちは僕へとお尻が当たるのも構わず、「矢川さん、矢川さん」と連呼している。 

 矢川はとても聞き上手だ。相手の話を聞いて、それに一番都合にあった答え方をしてくれる。反面、自分から話をする事は余りしないようだった。それは余りに優等生的なもので、奇抜な発想は何も感じられなかったが、女子達にとってはそれでいいのだ。

 この年頃は自分のことが一番大事だからな。 

 と、いかにも老人ぶった口調で頭の中独りごちた。

 もちろん僕が話し掛けられる筈もないし。

 これでは読書をする訳にもいくまい。ド=クインシーの『阿片常用者の告白』はいつまで経っても読み終えられないで、中学時代から使っている鞄の底で眠っている。

 教室を出てお約束のトイレにでも行こうとしたら、携帯が震えた。指で画面を辿ると、由良のアカウントからだ。

 ゆらみく 12:01「今すぐ、部室」

 とある。筆無精なので、いつも単語だけを送りつけてきやがるのだ。

 文字盤を開いて、直ぐ行くとメッセージを送ると、その通り足を早めて歩き始めた。

 柘榴国高校は大まかに言えばコの字をしている。両側に突き出た東棟と西棟が向かい合っているかたちだ。二のDなどの教室は西棟に密集しており、我等が部室は東棟の側にあった。これが三階では逆になっていた。

どこぞの高校にも偏在しそうな部室に僕らは割り当てられたのだった。

 徒労感を覚えながらも辿り付くと、扉の前には由良と背丈の高い女性と、なんと先日眼が合った中学生かと思った女の子がいた。

 「お」僕の姿を見た由良がこちらに手を上げて声を掛けてきた。

 「休み時間短いんだぞ、トイレもいけないだろが」僕は若干イライラし始めていた。

 「龍、顧問の先生が付いたよ」由良はそれを無視して一方的に捲し立てる。全て世は事もなし。いつも通りだ。

 「澁澤君、久しぶりね」背の高い女の人は矢張り乳もでかい。それも前見たときより増しているみたいだった。

 花田清美先生である。一年の一、二学期の国語の担任だったが、三学期からは産休をとって休みだったのだ。肩の上に落ちる程の髪に黒縁の眼鏡を掛けて、おっとりとした雰囲気を纏っていた。生徒間の人気も高い。既に二児の母である。

 まさか、こんなところで再会するとは思っても見なかった。

 再会とまでいうと大袈裟だが。廊下で何度か擦れ違って会釈する程度だった。

 「ずっと帰宅部だったあなたたちが、やっと部活をする気になったのね。これは良いことだわ」

 「私が自分から頼んでね」由良がまたドヤ顔で言った。「そんでこっちは」

 「種村季菜」とその女の子は始めて言葉を発した。また会ったことに少しも驚いている様子が見えない。さも当然のようだ。

 ほんとうにちんまりとしていて、百七十五センチの身長を持つ僕の腰より少し丈がある程度だった。

 「この女の子が?」僕は驚いて言った。

 「種村は十六」と女の子は冷めた口調で返した。

 「マジ」暫し呆気にとられた。

 「マジ」女の子は飽くまで落ち着いた感じで鸚鵡返しだ。本が脇に挟み込まれている。

 「同じ組の二のE。教室で寂しそうにしてたんで私が誘ったの」由良が説明する。

 「種村いつも暇だった」とあっけらかんと言う。

 「友達は出来るだけ多い方がいいでしょ」と花田先生はどこか飄々と他人事のように言い放った。

 よく見ると隣りにもう一つ部室がある。ドアは硬く閉ざされていた。

 「ここは誰かが使ってるんですか?」僕は質問した。

 「ああ、それは手芸部の支部室よ」花田先生は言った。

 「二つも部屋が持ててるんですか、いいっすね」何がいいのか分からない気もしたが、矢張り部屋が多いと得な気分になるものだ。

 「手芸部は実績があるからね」花田先生は意味深に微笑んだ。

 あいつらはと言うと、部屋の中に入り込んで子供のようにぐるぐると徘徊し始めていた。

 そんなに楽しめるもんがある場所なのかよ。

 果たして、こんな面子で大丈夫だろうか。


 

 再び鐘が鳴ったので、急いで別れを告げ、男子便所に駆け込んだ。

 あいつら、遅刻しても大丈夫なんか。

 と、先客が居ることに気付いた。

 同じ学校の制服を着ている。

 それは当たり前だ。だがその生徒は左手首から先がなく、空っぽの袖をぶらぶら垂らしていた。

 「なんだ松山か」と僕は声を掛けた。

 「よう」松山は便器に向かったまま、右手を上げて挨拶した。

 それでバランスをとりながら小便できるものだと感心した。

 松山新次郎は同級生であり、僕の唯一気の置けない友人だった。何故、片手を無くしたのかは誰も知らない。

 こちらも隣の便器に付くと、

 「最近厄介事に巻き込まれてね」と話す。

 「ああ、さっきなんか向こうで騒がしくやってたな」

 「なんだ、見てたのか」

 「楽しそうだったじゃん」

 「いやいや、あれはあれでしんどいんだ」

 「そういえば、手芸部の奴ら、最近盛り上がってるな。ちょっとワーホリ染みてるって話だぜ」

 突然話の風向きが変わった。こいつも由良と同じように自分の関心に合う話しかしない傾向があるのだ。だからこそ僕とは気が合うと言えた。

 「そうか? 連中とは話したことないし、何も知らないけど」

 「かなりカリスマのある女が部長らしいぞ。腕が立つ部員も」

 「どうしてお前がそんなこと知ってんだよ」

 「お前とは違って、彼女、いるからな」

 松山は鼻で笑った。

 女の噂は怖いな。僕は悔しさよりもまずそれを感じた。

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