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シブサワくん家で午後五時にお茶を  作者: 浦出卓郎
第五章 アクアリウムの春昼

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第五章 アクアリウムの春昼(2)

 由良は転校生だった。小学二年生の時のことだ。なので、厳密に定義すれば幼馴染ではないのかもしれない。

 この頃の記憶は随分と曖昧なもので、思い出せることが少ないが、この時の事は特に印象強く残ってる。

 最初の自己紹介の時だ。先生に言われても、由良は黒板を前にして登壇することが出来なかった。今から見ればちっこかったのだろうが、この時感じた印象は変わらない。

 ただ、今と違うのは極度な人見知りなことだった。いや、今も実はそうなのかも知れなかったが。

 「ゆ、ゆらみくです、よ、よ、よろしく」ぺこりと頭を下げるその姿は、皆から失笑を買った。当時からアホ毛は出ていたように思う。

 途端に顔を赤くした由良はとぼとぼと歩いて席に着いた。この時たまたま隣りだったのが僕だった。

 「どうしたの?」

 確かそれが最初に掛けた言葉だったように思う。だが、幼い由良はしばらく答えてくれなかった。

 そっぽを向いているみたいだった。

 放課後になっていきなり、

 「あー、さっきのうるさい!」と後ろからぞんざいに言葉を投げかけてきたのだった。

 いきなりうるさいとはなんだ喧嘩売ってんのかと思ったがどうもそうではないらしい。

 すぐさま手をぱっと出してきたからだ。

 「よろしく、ぼくはしぶさわたつおみ」と握り返してやった。

 それからだった。

 随分色々な事があったが、このファーストコンタクトが一番印象深かったな。

 でも、それも今日で終わりなのか。

 それだけは嫌だ。

 ただ手を握っているしか出来ない自分がもどかしい。

 救急車が病院に着き、由良は集中治療室に運ばれていく。

 ランプが点いた。

 扉が閉まり、僕は廊下で待っていることしかできなかった。

 本でも読もう。僕はリュックに入れて持ってきた『シルトの岸辺』を取りだした。

 だが頁を繰る手は重く、とてもじゃないが読めない。文章も難解を極めている。

 「ゆら、ゆら」僕は何度も呟いた。恋人じゃあるまいし。 

 でも、失いたくないものってあるだろ。僕にとって由良は失いたくないものだった。

 僕は由良の母親の電話番号を入力して、何度も電話したが繋がらなかった。

 どうしたっていうんだ。

 二時間は経っただろうか。主任の医者が出て来て、軽く説明した。

 一命は取り留めたらしい。傷も思ったより深いものではなかったようで、それでも全治一週間ほどは掛かるとのこと。何針かは縫ったようだった。それまで由良は江ノ島で入院生活を送らねばならない。

 ほっと胸を撫で下ろした。不安感が消えて、すっきりした。そして、初めて空腹感を覚えた。朝以来、何も食べてないのだ。

 結局、由良の母親は来なかった。

 治療室から運び出される由良は麻酔を掛けられて眠ったままだった。病室に送られるまで見届けた。

 帰らないと、とその時初めて思った。

病院を出てから暫く歩いたところにあるラーメン屋に入った。

 普通の塩ラーメンを食い、汁まで残さず飲んだ。とても美味かった。


 

 それから一週間、僕は学校が終わると、直ぐに由良の元に通うことになった。 

 篠田と種村には幻文部の活動を続けて置くように言った。部長が休みなので、本来なら副部長の種村が仕切るべきなのだが、相変わらずのマイペースである。

 何度も言ってる気がするが、ただ本を読むだけなのだが。

 矢川は篠田がちゃんと自宅まで送り届けたらしい。些かの抵抗もせず、素直に付いてきたようだ。

 「矢川さんのお父上ったら、変によそよそしくて他人事のようでしたわねっ。とても忙しいようなんですけどっ。わたくしと話し終わると、すぐに出て行かれましたわっ」

 どうも矢川の家庭にも不安定なものがあるらしい。問題がなさそうなのは農家の出身だという篠田ぐらいだろうか。ただ余りにも遠方過ぎる。

 種村には鍵を預け、ベルを鳴らしたら出てくれるように言った。

 ぎゅっと鍵束を握り締めて胸に当てている。なぜか緊張しているらしい。それほどのことかよ。

 松山も全くの元気で、昼休みにはフラフラと校内を徘徊しているようだった。まさに神出鬼没である。

 ともあれ窓辺から赤光の射し込む電車に長く揺られながら、僕は『シルトの岸辺』と長い付き合いをすることとなった。百頁も越すと何とか読めるようになってくるもんだ。大体読書は最初のところで入り込めるかが重要で、そこを切り抜けるとすらすらと読めるようになる。難解な本であればあるほどそうだ。そのため最初の辺りは何度も読み返す事が多くなるものである。

 病院のある駅につくと、本を畳んで改札をくぐる。

 と、やや暗く沈んだ髭の中年男性が先を歩いていることに気付いた。

 すぐに分かった。由良の父親だ。

 由良賢哲。某大の哲学科教授である。由良がたまに会いに行くという父親のことだ。 

 僕もなんどか顔を合わせたことがあるので声を掛けた。

 「由良のおじさん!」

 「ああ、澁澤君か」陰を含んだ声で答える。正直余り話していて楽しいという人物ではない。

 「やはり見舞いに来られたんですか?」

 「そうだ。美玖が来て欲しいのと言うのでね」

 どこか決まり悪げだ。一人で来たかったのに邪魔が入ったという感じだろうか。愛想のない対応である。

 夕日の映る境川の流れを右手に見ながら、二人で歩いて行った。 

 病院に入り、受付で面会を取り付けた。待合席に座った。

 「お久しぶりですね」

 「ああ、そうだな。一年振りぐらいだろうか」

 話は途切れた。

 それ以外にネタが何もない。娘の事を聞くとすぐに地雷を踏みそうな予感もするしな。由良が小学生の時は賢哲さんはまだ離婚していなかったから、会う事も多かったはずなのだが……。

 呼び出しの声が聞こえた。僕の名義で予約したのだった。

 無言のまま由良の病室に向かう。

 僕が最初に入った。

 「龍!」ベッドで寝ていた由良が明るい声を上げた。

 だがその後に自分の父親が入ってきたのを見て、どぎまぎして、やや暗い感じの表情になった。

 「父さん……」

 「美玖、怪我はないか?」

 「うん。大丈夫……、一週間で退院できるんだって」その声は沈んでいる。

 「母さんは忙しくて来れないらしいな」

 「うん、今仕事が物凄くたいへんだって……」

 やはり親娘の会話もすぐ終わってしまった。二人きりでならまだ進むのだろうが、僕を前にすると余計気まずくなるのか。

 「僕、お邪魔かな」ちょっと差し出がましいと思ったが訊いてみた。由良に対してのつもりだったのだが、

 「いや、私も用があるので、長くはいる気はないよ」と賢哲さんが答える。

 由良はちょっとショックを受けたのか顔を伏せていた。罪悪感を覚えた。

 「それでは」と丁寧に言って、賢哲さんは部屋を出ていった。

 「由良」

 僕は声を掛けたが、由良は微動だにしなかった。毛布の上で拳を握っていた。

 「……でも、いいの」暫く経って口にした言葉はそれだった。

 「どうしたんだ?」

 「龍が悪いんじゃない。私が父さんと壁を自分から作っているからなの」

 「……」黙り込んでしまう。

 「私は父さんから様々な本を子供の時から読まされてきたの。それで普通の子とはズレを感じるようになってしまった。誰も仲良くしてくれなくて、最初に声を掛けてくれたのが龍だった。でも父さんのコトはとても尊敬してる、いいえ、してた。でも、母さんは父さんと別れた。母さんのコトも尊敬していた。二人とも普通の人と違うコト知ってて、神様のような人達だって思ってた。でも、二人は別れたの。私の目の前で凄まじい喧嘩をして。普通の人のように罵り合ってた。なんだ、これじゃ普通の人と変わりないじゃんって。知識を幾ら身に付けても、やるのは醜い争いばかり。今はネットをやるようになって、知識のある人同士が何度も罵り合いを繰り返しているのを知ってるから、なんだそんなコトって思えるようになったけど。でも、それ以来父さんと母さんと私には溝が出来た。二人とも上手く話せなくなっちゃったの。それ以来私が本当に話せるのは龍だけ」

 「自分で声を掛けて幻文部とか作ったじゃないか、松山を殴り飛ばせたし、毎日篠田とも喧嘩しているぞ」

 「それは、心からじゃないわ。いつも、どこか警戒しているの」

 「僕には警戒しないって言うのか」

 「うん、しない。四方犬と同じくらい」

 犬並みかよ。

 「そういえば、ペットショップに預けたままだったんじゃないのか?」

 「うん、期限とかあるんだ。延長お願い出来る?」 

 「まったく。分かったよ」と肩をすくめる。

 「龍、それでね」

 と言った途端、由良は上半身を突っ伏した。 

 「うっ、うっ、うっ、うえええーーん、うええええええ、うええええええええええんっ、ひっく、うええええええんっ」

 激しく泣き始めた。

 アホ毛がそれとともに揺れている。

 最後までいて見届けて欲しい、と言う事だろう。僕は瞬時に察した。

 なので、泣き止むまで背中をずっとさすってやった。

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