第四章 『惨虐性』と『偽計』(5)
その日はとても晴れた。校門の上で朝日が眩く輝いている。
「で、俺が」松山新次郎が言った。「一緒に来るってことになった訳か」
「そうなんだ。一人だとどうも心配になって。それに五人来るはずだから割り切れないだろ。一人足して、三人三人で班を作った方が楽だ」
「言って置くが俺は部活は入らない主義なんでね」
「分かってるよ。今日参加して貰うだけでいいんだ」
「でもお前、いいのか?」と松山はやにさがる。「これがNTRエロゲだったら、俺が由良あたりを真っ先に眼に付けて……ぐへへうぐえっ」
由良の見事な腹パンが松山に決まり、校庭を一、二間ほど吹っ飛ばされた。片腕がない者にも情け容赦のない暴力である。
「松山っ、何フザケタコト抜かしてんのよ」
由良は野暮ったい紺のカーディガンにジーンズを穿き、マフラーをまだ巻いていた。少しでも寒いのは嫌いな性分なのだろう。
まあ、由良が松山に暴力を振るうのは一年の時からのことである。松山は多少軽口が過ぎる傾向があるのだ。
「そういえば、四方犬は?」
「ペットショップに預かって貰った」由良はちょっと心配そうに言った。
「んほほほほほっ、口よりもすぐに手が出る由良さんですわねっ!」
そういう篠田はピンクの襞飾りの付いたブラウスと短いスカートを着てきていた。太腿がぴっちり見える。春にしては薄着だが、由良とは反対に寒さには鈍感なのだろう。やはりこれだけのバストだ、特注なのだろうと思われた。今日は休みなので唇にルージュを差し、香水も付けてきている。
「あっ、タネ可愛い!」由良が珍しく黄色い声を上げた。
「タネさん、キュートですわっ(ハァト)」
校門脇の電信柱におずおずと隠れる種村はネコミミフードの黒パーカーだったのだ。恥ずかしそうに何度も身を竦ませていた。
何を隠そう、しまむらで僕が買ったものである。顔から火が出たが下着もちゃんとレジまで運んだ。種村はあれ以来一度も実家に帰っていない。
「澁澤の服装センス、壊滅的にない」珍しく咎めるような口調になって言った。
「それで、花田先生からメールが来たんだが、僕と篠田と松山(こいつは途中参入だが)は逗子の自然史博物館に行くこと、由良と種村と矢川は江ノ島の水族館へ向かいなさいと言うことだった」
「えーっなんで!」
また由良がぷーっと餅を膨らませる。
「よっしゃー。郡上おどりするわなもし」と篠田。そう言った後で驚いて口を押さえた。「つい、お里の言葉が出てしまいましたわ」 「変よ、絶対に変。なんで駄肉風情がっ! それに花田先生はこんなにスケジュールぴっちり組んでくるくせに、本人は行かない訳? なにかありそうだわ。矢川が博物館に行こうとか言ってたことも妙に伏線っぽいじゃない。おかしなことを企んでいる可能性ありありよ。一番おかしな事を企んでいるのは駄肉だけど」
篠田はムッとしたが、すぐ朗らかな顔になった。
「どちらにしても私は選ばれたのですわっ!」
「そういえば矢川はどうしたの?」といきなり話頭を転じる。篠田は置いてけぼりになった。いかにも由良らしいな。
と、学校の入り口から何者かの影がこちらに近付いてくる。
矢川だった。髪は短く切ったままで手入れされておらずぼさぼさであり、制服を着換えていなかった。
どうしたというのだろうか。眼はやや落ち窪み、その下には隈が出来ていた。足どりは酷くふらふらとして覚束なかった。
「矢川、どうしたんだ」思わず叫んでそちらに駆け寄った。
「澁澤くん……」矢川は寄りかかってくると、弱々しい視線で僕を見据えた。
「龍、そんなやつ置いていってよ」
「そういう訳にはいかないよ」
「そうですわ。由良さん、余りにも大人げなさ過ぎでしてよ」
「うるさいー!」
ぶすくれる由良を尻目に、僕らは予定通り出発することになった。
ううむ。非常に落ち着かない。
先ず学校前のバス停まで歩いて行く。取り敢えず大船駅に到着するまで耐え凌がなくては。
幸い車内には老人と若い姉ちゃんが二人だけだった。しかも後者はお互いの話に熱中している。
「へー、これがバスというものなのか」と僕は大袈裟に驚いて見せた。
それほど乗る機会が少ないのである。
なんせ家には徒歩に帰れるもんで。しかも元来インドア派だから、滅多に外出もしない。
ここ最近がちょっと異常なのだ。学校から駅までは徒歩でも行けるが、ちょっと歩くので、生徒はバスを使っている者も多い。
「こんなに短いと本も読めないだろ」と僕は利用者の種村に聞いた。
「薄い本なら一冊ぐらい読める」驚きの答えが返ってきた。
「薄い本ですと」隣りにいた松山が笑った。少し下品にである。
「その薄い本じゃない」種村がほんの僅かに頬を赤らめたように思った。ちょっと松山から身を引き離す。
「あー引かれたなー」僕は笑った。「これから一緒に行くのに」
「一緒にイくですと。いや止めておこう。種村さん、ネコミミパーカーだしヲタかと思ってさ。でも薄い本分かるだけヲタか……でもごめん」松山は軽口を詫びた。だが、その後に爆弾発言をしたのである。
「でも、種村さんは澁澤と付き合ってるんじゃねえのか?」
なにが『でも』だよ。
一瞬周りの雰囲気が凍った。由良と篠田が松山ではなく、僕を睨み付けてきた。矢川も力なく首をこちらに向けてきた。
「そ、そんなことない。誤解だよ!」僕は叫んだ。
「じろーっ」だが二人は更に睨んでくる。
「怪しい。なんてったって龍はタネと同居してるんだから」と由良。
「ほお、同棲ですか」と松山が煽り立てる。
「そもそも、タネさんが実家で問題がある云々というのは、全て龍くんの口から出たことですわ。それ以外にエビデンスがないですわっ!」篠田は乳を揺らして居住まいを正し、真剣な眼になって言ってくる。
「お前ら、毎日家に来てるだろうが!」
「二人だけの時間なんかいつだって作れますわっ」
「そうよっ! 二時間ありさえすればいいのよ……」由良の頬が真っ赤だった。
「なんだよ。僕を疑うって言うのか」冷や汗が背筋を伝う。
「おい種村、何か言ってくれ!」
ところが種村は無表情に戻って読書をしていた。昨年出たペルッツ『聖ペテロの雪』である。実は僕がお使いとして書店で買ってきたものだ。一冊しか置いてなかった。
進退窮まった。針の筵パートスリーか。もう数えるのもめんどい。
その途端バスが大船駅に着いた。降りますボタンを押していたのは矢川だった。
「着いたよ」力なく微笑みながら言った。 降りた途端に二班に分かれる事にした。
だが由良と篠田は揃ってナーバスな表情になっていた。
「なんか行きたくなくなりましたわ」
「同感」珍しく二人の意見が合ったようである。
「だからそんなんじゃないって!」言えば言うほど信じてもらえないっぽい。
「まあ、行けば気分は変わるだろ」松山は脳天気に言う。
自然史博物館は逗子駅付近にある。ルートは簡単だ。JR横須賀線久里浜行きに乗ればいいのだ。一本で行ける。
水族館行き組は多少手間が掛かり、東海道本線熱海行きから藤沢駅で小田急江ノ島線に乗り変えなければならない。終点が片瀬江ノ島駅で水族館の最寄り駅だ。
種村と由良と矢川が並ぶ。由良は種村を横目で胡乱そうにじーっと眺め、矢川は童女のように微笑んでいた。それを見て僕はなぜか胸騒ぎがした。
南改札口までは一緒なので、僕らは歩き出した。
十分ちょいは到着まで掛かるだろう。余り人のいない車両の中で隅の方に座った僕。その隣りに篠田。向かいには松山。
「で、篠田さ?」
「なんですの?」
「三島が言ってたんだが」と、その瞬間にすぐさま篠田が緊張したように見えた。
「『五箇条』って知ってるだろ」
松山と篠田は身を固くしている。そのまま両名とも頷いた。
最近知ったのはシブサワばかりなりとでも言ったところか。
「『幻想を共有すべからず』ってのがよく分からないんだ。例として恋愛禁止とかなんとか。何となくは分かるよ。僕も恋愛って訳じゃないけど、それらしいのを感じたことがあるような、ないような。でもなんで松山のように普通の男女交際と三島の言う恋愛は違うんだ。そこの意味が分からないんだよ。『ファウスト第二部』がどうたらこうたら言ってたな。ともかくそこに描かれているような恋愛だとダメらしい。訳が分からないよ」
「それは簡単ですわっ」指を立てて篠田が言った。「妄想が突き抜けて、それによって相手とかえって結ばれてしまうような恋愛が御法度、ということだと思われますわっ」
「それって具体的にいえば?」
「メフィストーフェレスのそそのかしによって若返ったファウストはスケコマシになり、ある女の子を誘惑して孕ませ死に追いやってしまいますの」
「酷い話だ」
「ここまでが第一部ですわ。第二部がどうかと言いますと、色々ややこしいので大雑把に飛ばしてしまいますわっ。ファウストはメフィストの軛を逃れて、昇天しますの。その女の子は亡くなった後、天上界でファウストを迎えに待っており、全てを受け容れるのですわ。二人は結ばれて大団円ですわっ」
「『時よ止まれ、お前は一番美しい』というあれか。中二病の基礎フレーズになっているけどな」
「んおっほん。もちろん騙した男を全て受け容れるような女は『都合のいい女』にしか過ぎません。でも、これは普通の恋愛の次元ではですわっ。幻想を共有する恋愛というのはそういう男側の女側のつまらない妄想を超えた神々しいものなのですわっ」
うーん、感心した。お馬鹿キャラだと思っていた篠田も口を開けば的確に要点を押さえたことを言うではないか。
「ああ、だからなるほど三島は『ファウスト第二部』がNGだと言った訳か。まあそれでも随分抽象的な話だな。取りようによっちゃなんでもそうなってしまうし。適応範囲もよく分からない。例えば幻想の共有とやらに伊木先輩が該当するのかと思うし」
はっと口を噤んだが、篠田も松山もその事は知っていたらしい。
「伊木の話ぐらい誰でも知ってるぞ」松山は笑った。
「とにかくゆきさ……三島さんは暴君なんですわっ! あの切り口上の巧みさにはほとほと感じ入りますけれどっ! それだけ超越的な幻想の共有が起こってしまうと、自分の力ではそれを管理できなくなると言うのが大きいのでしょう。それにしても、龍くんも、鈍すぎますわっ。これぐらいちょっと分かる人は直ぐに分かることですわっ、これは男女間の問題にも関わる事なんですわっ!」
「ええっ?」驚くことしきりである。
「んほっ、ほんのちょっと、んほほほほほっ! 龍くんに勇気がありさえすれば、そ、そうっ! ここ、この場所ででもそれが成就されるのですわっ! わたくしの手を握って下さればそれでよろしいのですわぅ!」太腿をくっつけてくる。今日は制服じゃないので、ピンクの薄いスカートとの布が伸ばされてでかいパンティが透けて見えた。驚くばかりの花柄である。
顔を見ると瞳孔が開き、身体は震えていた。凄い威圧感がある。
だが幸い、電車は逗子駅に到着したのだった。




