第四章 『惨虐性』と『偽計』(4)
翌朝六時、柴田宵は神妙にホテルの管理人に何度も平身低頭していた。どよーんとした空気が周囲に広がっていく。
「これ弁償代ですので……」と言われる額をそのまま差し出した。
十万以上は払っただろう。足下を見られているような気もした。
相手はかなり怒っているらしく、
「今度こういうことがあったら、警察を呼びますので!」と厳しく言い渡された。
柴田先生はただただ恐縮していた。
ホテルの人はまだ怒りながら、奥の方へと去って行く。
「いきますよー」とだけ僕らに声を掛けると、他に一切の発言をせず車に乗り込んだ。僕らもしょんぼりとその後を追う。
三時間ほどしか寝れなかったので、あくびが頻りと出る。
例の一件があったので、僕は篠田と由良と種村の部屋で寝ることになったのだ。眠ったままの種村をエキストラベッドに運び、僕が由良と篠田の間に挟まれた。
二人はすぐさまイビキを掻き出したが、僕はなかなか眠れなかった。
両側から女体が圧迫してくるのである。
目が冴えて仕方がなかった。僕は妹のことを考え始めた。
最近逢えていない。朝は由良と篠田が真っ先に来るし、帰ってきたら、一日交代でこの二人が入り浸る。しかも鍵を掛けたのにも拘わらず種村を監視し続け、一夜を明かす事がほとんどとなっていた。
ミサは筺の中に隠れたままだ。僅かの隙を突いて逢うしか方法がないような状態になったのである。これは僕にとっては苦痛だった。
運転中、柴田先生は少しの雑談もせず、まるで一人乗りの時のように振る舞っていた。流石に恨まれたのかとも思えた。
今後暫く会話はしない方が良さそうだ。
僕ら四人も行きとは打って変わって黙り込んだままだった。
種村は『スフィンクス・ステーキ』を読み終えたようで、アルフレート・デーブリーン『二人の女と毒殺事件』のページを捲っていた。今度の本はえらくおどろおどろしい表紙だな。
作者の名前もやばいのでちょっと気になって、
「これはどんな内容なんだ?」と訊いた。
「百合」と種村は一言。
八時丁度に学校着。騒がれるので一つ前の通りで下ろして貰った、というか柴田先生が何も言わずに勝手に止めた。授業開始まであと十五分。僕はあくびを連発しまくった。
「龍、いける?」廊下で珍しく由良が訊いてくる。
「まあ、大丈夫だろ」
ホームルームは何とかしのいだが、次の国語の時間が何とも苦行だった。
呉の授業の退屈さは殺人的だ。
うつらうつらと舟を漕ぐ。
「おい澁澤!」
授業の終わり頃だろう。呉の一喝が教室に谺した。
「は、はい」僕は思わず声を上げた。
クラス中が笑い始めた。それではっきりと目が醒めた。
笑っていない生徒がいた。
矢川だ。虚ろな眼をして、両手の拳をスカートの上で結んで、こちらを見詰めている。
その机の上には教科書も筆箱もシャーペンも消しゴムも置かれていない。
何もなかったのだ。
明らかに異様な状態である。にも関わらず呉はそちらには全く眼をやっていなかった。
矢川は委員長を務めているし、真面目な生徒だという先入観があるので、見もしないのだろう。やはり未熟な教師である。
他の連中も僕を笑っているばかりで、矢川のおかしさに気付けていない。ただ以前、矢川を心配して声を掛けた生徒は身を硬直させていた。
「すみません、睡眠不足なんです」
「どうせ、深夜までゲームやり過ぎとかだろ」
そんなんじゃねえっつつーの!
昨夜は大変だったんだ。人の気も知らないで、いい気なもんだ。
授業が終わって呉はすぐに出て行く。やれやれ。
矢川が気になったが、そこから逃避するため、ジュリアン・グラック『シルトの岸辺』を鞄から取りだした。『幻文部』を名乗るのならば幻想文学は読むべきだと思い、最近読み始めたんだが、難しくてなかなかページが進まない。それほど特徴的な文章の小説なのだ。
ある架空の国があって、次第に滅び行こうとしている設定だが、異世界ファンタジーと考えて読むと痛い目を見ること必定である。
数ページ読んで注意力が散漫になった。
「ねえ澁澤くん」
「澁澤くん、なに読んでるの」
声を掛けてきたが無視する。
「澁澤くん、なんで無視するの?」と大声が響いた。
皆が振り返るが、矢川は構わず続ける。「ねえ澁澤くん、私知ってるんだよ。澁澤くんと由良さんと篠田さんと種村さんが柴田先生の車から降りてくるとこを私見たんだよ。なんでなの? どうして私だけ仲間はずれなの。私部員でしょ? それなのに部活動になんで参加させてくれないの? なんで由良さんと篠田さんと種村さんだけなの? それともそれ部活じゃないの? 部活じゃなくてそれ以外の何か良いことなの? だから私を仲間はずれにするの? それってなんなの? 由良さんと篠田さんと種村さんとどういうことをしたの? 答えてよ。今すぐ答えてよ」
僕の手は震えた。『シルトの岸辺』を思わず取り落としそうになる。急いで鞄の中に投げ込んだ。
「矢川さあ……」口を開いても上手く言葉にならない。
チャイムが鳴った。次は日本史の授業だ。
うわあ……。気鬱だ。
柴田宵が入ってくる。
「それでは始めますー」と言って教科書を広げ、いつも通りの陰気な授業を開始した。
時々こちらを怨みがましい目線で睨んでくる。やはり出費が預金通帳にダメージを与えたのだ。
少しげっそりしているようにも見えた。結局、朝食は抜いたのだろうか? そういえば僕らも食べなかった。腹が減って、余計なことを考えてしまう。
矢川は授業開始を完全無視して、そのままの姿勢で僕を見詰めてきていた。その顔に生気はなく、土気色に近くなっている。
「私、眠れなくて五時からずっと澁澤くんが登校しないかなってずっと待っていたんだよ。昨日あんなこと言われてとてもとてもとても気になってた。何で澁澤くんは私の言うことを聞けないの? 何で私だけ無視するの? どうして? どうして?」授業中にも拘わらず喋り続ける。
教室内は騒然となってきた。
柴田宵はちらと一瞥をくれたのみで、直ぐ授業を続ける。厄介事には絡みたくないようだった。
しかも、その中心が僕なのだから、スルー推奨とはまさにこのことだ。
「あ、そうだ。分かった。あはは」と矢川は一人で納得して笑い出した。「あはははは、由良さんも篠田さんも種村さんも私より髪短いじゃん。髪短くしたら、構ってくれるんだね? 髪短くしたら、私を部員にしてくれるんだね?」
そんなこと誰も言っていない。矢川は笑い続けていた。
「それじゃ」といって机の中から鋏を取りだした。途端に何故か三島の事が思い浮かんだ。
矢川は己の長い髪を手挟み、綺麗に切り落とした。はらはらと群青の髪が指の間を流れ落ちて、床に広がる。
僕はそちらを眺めざるを得なかった。完全に光の消えた眼で、ショートヘアになった矢川は何も言わずに僕を見詰めている。
他の生徒は皆戦慄していた。やがて、囁き交わす声が聞こえてくる。
「矢川、もう止めてくれ! 顔も見たくないんだよっ!」
僕は本音を叫んでいた。今の矢川は恐ろしかった。
「こら、そこうるさいー」と柴田宵が一言。シャーデンフロイデで調子を取り戻したらしく、にやりと口の端に笑みを浮かべている。やはり、この学校の先生である。
授業が終わるまで、矢川はそのままだった。
三時限目が体育で、こんなに感謝したことは我が生涯中で今まで一度たりとてない。
そりゃあ、気分転換を兼ねて存分に動きましたとも。相変わらずとちったけど。
だが四時限目は数学だ。教室で受ける授業だった。文系生徒にとっては例によって苦行の時間である。矢川は机の上に頭を乗せたままで、息もしていないのかと思われるほど、身を硬直させていた。
何が彼女をこうさせたのだろう。僕は色々考えて見たがさっぱり分からない。
幻文部の部活に参加したいのなら普通にきて本を読めばいいじゃないか。実質それだけの部活なんだし。
ところが矢川はそうじゃない。正直矢川にとったら由良も篠田も種村も、――おそらくは邪魔なのだ。
多田満津の言葉がどうしても引っかかっていた。
そこで昼休みに本人に訊いてみることにした。多田のアカウントは記憶していたので、そこにメッセージを送る。
シブサワ 12:03「訊きたいことがあるんだが、ちょっと時間とれる?」
すぐ返信が来た。
満 12:05「いいよ。場所は図書室で」
図書室に移動する。
実はほとんど行かない場所の一つである。本は自宅に未読本が唸るほどあるので、蔵書数の少ないここにはあまり気になる本がないのだった。
天井は高く、面積は広かった。古びた木の机が三脚もたっぷりと間をとって読書用に置いてあった。
本棚へと目を移すと、やはりラノベが多く貸し出されている。草野針『罵れ! ベルンハルトさん』が人気でほとんど所蔵がなく、途中の五巻が残っているばかりだった。謎多き覆面作家である。
噂によれば十代だという話も聞くが……。
「よっ、澁澤!」後ろから肩を凄い勢いで叩かれた。多田だった。元気いっぱいのようだったが、
「話って言うのは澄香のことだろ?」と声のトーンを低くした。
「うん、そうだ」
「さんざん聞かされたよ。澁澤のことが好きだってさ」
えっ、今何を言った?
「澄香は自分の言う通りにならない存在の方に惹かれる傾向があるみたいだね。中学の部活ではいうことを聞く男は下僕のように扱ってたよ。澁澤はそうじゃない。飽くまでマイペースだ。だから澄香はどうにも気になって仕方ないらしい」
「矢川は一体どういう人なんだ」
「子供だね。大人になれない。見る限りそれは澁澤も一緒っぽいけど。だから気になっているんだろう。諦めろって言ったらえらく罵られたよ」
返す言葉がない。とても大人ですとは胸を張って言えないものがある。
「ともあれ、今は暫く置いておいた方がいいよ。澄香も一時的には拘る性分だけど、その時期を過ぎたら落ち着くこと多いし。変にお節介になっちゃったかもね。それじゃ、チャイムも鳴ったし」
鐘の音が聞こえた。
挨拶をして振り返ろうとした時、
「……ボソッ(あたしも『幻文部』に入れて、なんて言えなくなっちゃったな)」何か多田が呟いた。
「どうした?」
「いや、なんでもない。じゃあね」と言って先に出ていった。
体育会系の多田が、図書館に呼び出すというのも変な話だな、と帰りの道すがら考えた。
一応、話してしまったので少しは楽になったよ。
戻ると矢川は早退していた。席はもぬけの殻となっている。
残りの授業はあっという間に過ぎ去っていった。何度かうとうととし、その度に教師に叩き起こされを繰り返した。
どうしたことだろう、凄く柔らかなもののあいだに覆われている。たゆたっている。
目が醒めた時、まず感じたのは温もりだった。
顔の両側を押し包むように当たっているものがある。
「ん、んへへへ、んほっ、んほおおおっ、ほおおおおおお!」
変な声が聞こえる……っ!
僕は顔を上げた。
篠田だった。かあっと目の下から頬にかけてを真っ赤にさせていた。瞳は潤んで溶けて流れ出しそうである。上腕の関節を曲げて、小指はピンと立てたままだった。
なんと、僕はそのおっぱいの間にかがみ込んで寝ていたようだ。
「ほえっ!」びっくりして飛び上がった。「ここは、どこだ?」
「いつもの部室ですわ」篠田は快活に教えてくれる。「本を読んでいたら、龍君がいきなり倒れ込んできて……(ハァト)」
見ると横で由良が会議机の上で腕を組んですやすやと微睡んでいる。その横には開けっ放しのドクペのペットボトルが置いてあった。起きていたら真っ先に殴り掛かってくるだろう。
種村は読書をせず、じいっとこちらを見詰めてきていた。
「寝てる間に、何か僕、変なことやらなかっただろうな?」
「残念ですけど、なかったですわっ。龍くんが奥手すぎるんですわっ。でも、わたくしったら我慢出来なくなって変な声を上げてしまいましたの。起こしてしまって申し訳ないですわっ」
「澁澤は草食系」種村にしては妙に焦りの色が見える口調で介入してきた。
「まあ、何もなかったならよかった」
「よくないですわっ!」と篠田は叫んだ。
なんでだよ。
「わたくし、龍くんの血が欲しいんですの」
身体が元に戻って以来、篠田は貧血を頻繁に起こすようになっていた。そう言う時は僕が指を傷付けて血を飲ませてやるのだ。
少し痛いが、微量でも貧血は治ったので、吸血鬼に吸い尽くされて干涸らびるというようなことはなかった。
「で、それがなんか関係あるのか?」
「でもわたくし、龍くんが傷付いてまで血を流すところは見たくないんですの。だから血と同じ成分を持つ、もっとドロドロした、白く濁った液体であればモアベターですのっ!」その鼻息は荒く、若干目が血走っているように見えた。
剣呑すぎる流れになってきたな。
種村が急遽起ち上がり、何も言わず僕の前に立って、手をぱっと広げた。首を左右に振っている。
「あ~らっ、タネさん。あなたも欲しいですか。断じて差上げませんわよっ! 龍くんのドロドロした白く濁った液体はわたくしのものですわっ!」
篠田もまた種村をいつの間にか仇名で読んでいる。まあ徐々に馴染んできたということだろう。種村の頭を遥かに見下ろして、余裕の表情を浮かべている。
「種村、澁澤を絶対守る」
種村はくいっと首を持ち上げて、篠田を睨んでいた。これだけ真剣な表情を見たのは夜の校庭以来だ。
二人の眼の間でバチバチと火花が散り始めた。
と、音が聞こえる。組んだ腕の上に頭を乗せていた由良がガタガタと震えだしたのだ。その様は墓地から蘇る不死者さながらであった。
目覚めた途端、聞こえて来た篠田の問題発言からの怒りに耐えかねているといった様子である。
首を持ち上げて、昨日の今日の修羅の形相で、篠田を捕捉した。
「この駄肉がっ! まさにアンタはその名に恥じないくだらない肉ね。いや、駄肉を通り越した『痴肉』よ!」
「んほほほほほほほっ! 今更起きてきてどの口でほざきなさるおつもりですの」篠田は口元に手を当てて笑った。
由良がそこに飛びついた。
取っ組み合いの始まりである。狭い部室内をゴロゴロと転げ回ってお互いの顔をつかみ合い、髪を引き毟り合いの大騒ぎだった。
僕は携帯の時計を見た。既に十九時を回っている。明日は土曜日だ。その次は日曜日か。
朝九時だったな。
果たして矢川は来るのだろうか。
色々と不安になってくる。




