第一章 See no evil, hear no evil, speak no evil.(1)
「さるにても」と由良美玖がいきなり言った。「三つの猿って何だと思う?」
僕は条件反射的に、
「見ざる、言わざる、聞かざるだろ」と返した。
「そ、の、よ、う、な、お察しなつまらないコトを言わないでくれる?」
声のトーンが落ちてくる途中で風に舞う一葉のようにやおら降下していった。ご機嫌斜めなようだ。
人間は常に面白いことを言える訳ではない。大凡はつまらない事を繰り返し喋り続けるものだろう。事実電子端末でのメッセージのやりとりは、こんばんわからはじまって、なんだこのやろうつまんねえなと思いながらも、続けてしまうものだ。
春の放課後を邪魔する者は誰もいない。部屋の外を歩いて行く影も十八時過ぎでは殊更に稀だ。誰かに告白しようなんていう下衆な企みも、始業式ならば兎も角、数日も経てば大抵腰砕けに終わるものだからだ。
いつもなら十九時ぐらいまで必死に練習している運動部も十六時前後と早めに帰り、校庭はがらんとして誰もいない。カーテンを風にそよがせている開いた窓からは向こう側の棟が綺麗に見通せるのだ。
「種村退屈した」光の当たり具合によれば茶色に見えなくもない髪が、前額に掛かるのを払って、種村季菜は声を出した。「人殺しでも起こらないか」
全く表情を変えずにである。
冗談だと思い単純にスルーして、読書を再開する。
『葬儀を終えて』は終わりに近かった。睡眠薬をしこたま飲まされたコーラ・ランスケネが最後に覚えたのはなんだったろう。斧に顔面をぐちゃぐちゃに破壊される時でさえも痛覚は機能していたのだろうか。
由良は話のよりを戻したそうにしていた。頬を少し膨らませて、唇を尖らせていた。これがいつも怒った時の彼女の癖だ。アホ毛がぴんと立っている。かといって、うっちゃておく訳にもいくまい。
程良い頃合いを見澄まして言ってやるのだ。
「由良様、教えて下さいまし」
由良は腕を組んで、ほれ見たことかと少し顎を持ち上げる。得意げな笑みがその口尻に浮かんでいた。
「南方熊楠によれば……」
僕こと澁澤龍臣と由良美玖は幼馴染みだった。始業式の後の帰り道、普通の学生ならば告白でもされるのかと案じるだろう雰囲気の中で、部活を始めようと声を掛けられたのだ。
その時のことから話そう。
まだ肌寒い、桜の散り敷く四月の並木道の間を歩きながら、マフラーをした由良が巣の中にいる小鳥の雛のように首を傾げ、
「ねえ、やらない?」と訊いた。
「何を?」こちらは上の空だった。
「部活」
「……うん」
そのまま返事をしてしまった。全くこれほど災厄染みたことはない。由良の瞳が瞬く間に燦めき始めた。こういう野心を秘めた目付きをよく由良はした。
生まれてこの方インドア派を自称してきたのは僕も由良も同じである。放校後はすぐにでも家に帰ってゲームなり読書なりに耽りたいと考えるのが常だった。
それがどう勝手が違ったものか、『部活動』なるものを生まれて初めてやらされる事になった次第である。少なくとも一年生はそれでやり通したのだが、同志と思っていた由良が急に転向したのだ。由良は理由とか何も教えてくれずに、一人でさっさと歩いて行ってしまう。
翌日になって。
数年は放置されていたであろう、その部室に置かれた椅子や机の上には蜘蛛の巣が掛かり、埃が積もっていた。一緒になってマスクをして、それを払った。
「掃除に精が出ますな」
部屋の隅の方にはかくれんぼが出来そうなぐらい大きなロッカーが三つ並んでいた。由良はその前に置かれた段ボール箱の間に顔を突っ込んで、はたきを振り回している。スカート越しにお尻のラインがくっきりと浮き上がって見えた。
「怠けてないで、真剣にやって」
後ろからでも、埃の敷き詰められた会議机の上に、適当に濡れ雑巾を掛けているこちらの様子が覗えるようだ。
まだ手先が僅かに寒い。
やっと綺麗に吹き終わると、今度は由良を手伝おうと思って、そちらに近付いた途端、いきなり向こうが倒れ込んできた。
何か見付けたのか。少し驚いているようにも見えた。
僕もまたよろめいたが、肘を突いたので上半身が浮き、机の角に頭を打ち付ける事はなかった。
「はわわわわわああああああああああああああああああああああああっ!」
由良が何か叫び始めた。どうしたんだろうと腰元を覗き込むと、スカートが捲れて由良のパンツが乗っかっていたのだ。
なんと苺柄であった。
しかも僕の左腕は相手の腰を掴み、右の手首は相手の下腹部を触っている。
僕は思わず赤面した。これは背面座位の構えではないか。驚いて手を離し、今度ばかりは床に両手を付いて平謝りに謝った。
「ごめんなさいごめんなさい」
由良は頬を膨らますと、ぷいとそっぽを向いた。しかしそれで全てを止めてしまう由良ではない。三分後には気を取り直して、また片付け始めた。罪悪感から僕も必死に作業した。
二時間を丸々使って、すっかり綺麗にした。パイプ椅子を広げて坐り、校内の自販機で買ったペットボトルのドクペを飲んだ。
うん、随分とマイルドな味になっている。
「……ったって、何をするんだよ、部活」思わず呟いた。
由良もまた僕の買ってきたドクペを飲んでいる。美味しそうに長い睫毛を動かしていた。突然コトンとそれを机に置いたかと思うと、
「読書を」と一言。
呆れた。それじゃ、帰宅部と何も変わらない。
「部の名前は何にする?」
「幻想だけじゃ寂しいので、『幻想文学部』、略して幻文部で、決まりでしょ」微笑みを浮かべながら、由良はこっちを見る。
『幻想』――ファンタスマゴリアとでも言おうか。
ここ、鎌倉市の柘榴国高校では、この二文字にしてフォーティーンワードが尤も重要視される言葉だった。
理事長三島梓の娘で生徒会長三島由綺は、僕ら生徒は、『重症者の兇器』をそれぞれが持ち、幻想を奏でることが出来るのだと式事のある毎に何度も力説していた。
実際にはどうかって? そんなこと何もわからない。少なくとも僕は知らずに済ましてきたのだった。ややこしい事はあえて聞かないようにするのは幸いに得意だ。本当にぼおっとしていることも多いのだったが……。
幻想に基づくどのような非道・無道な行いでさえも、三島由綺の眼に適えば許されると囁かれている。少なくとも三島家がそれだけの権限を持っていることは間違いないのだ。
美麗な顔と取り分けての巨乳を持つ三島梓の顔は、毎日の新聞でもよく見かけられた。一介の理事長でありながら、巨万の富を持つ富豪であり、政界では法務大臣を務める、この国の支配者層の一人と言っても過言ではないだろう。もちろん、負けず劣らずの巨乳を持つ三島由綺のこともよく知っていた。ただ、話せば長くなるからここでは端折ろう。
しかし、そんな、危険な賭けをすることもない。君子危うきに近寄らず。普通に三年通えば最低高卒の学歴は得られるのだ。『幻想』とやらが果たしてどんなものか、詳しく知ろうとも思わなかった。
それがいきなり『幻想文学部』とは。
僕はいつの間にか巻き込まれていた訳だった。しかも大学の学部みたいな命名で紛らわしいし。最近文学部は消えつつあるが。
そしてその巻き込んだ張本人はと言えば、今目の前でドヤ顔をしているのだ。
「どんな活動をするんだそれは」
「それはね……」軽く黙り込むと、すぐに、
「早速部員を集めよう!」と指をこちらに突き出した。
「誰が集めるんだよ」やれやれと言う風に僕は呟いた。いつものことだが、結局はぐらかされたのだ。
「私がなんとかする!」
それでは続きはまた明日という事になった。
廊下に出て暫く行くと、一人の女の子が三階へ上がる階段に腰掛けて本を読んでいた。中学生ぐらいだろうか。よく見るショートカットではあるが、前髪が長い。
こんな小さい子が何故高校にいるのだろう。
一応、うちの制服を着ているようではあるが……。
途端に顔が上がって、こちらをきょろりと見てきた。
退散するに限る。