第二章 きんしんぞうお(2)
部室の前では種村季菜が立ちんぼで待っていた。その小さい両手はブックカバーに当てられていた。
「クラスでも階段でも座れるところはあるだろ」
「ここが一番近い。だから種村ここにいる」とこの調子だ。
「何読んでるの?」読書好きとしては至極当然の質問をする。
種村は表情を変えずに、
「ヴォルフガング・ヒルデスハイマー。『詐欺師の楽園』」と答える。
また聞いた事もない作家の名前だ。随分古い、薄い本のようだ。
「名前から推す限りオーストリアの人みたいだな」
「この人はドイツ」と訂正される。他の作家でその反対に訂正された覚えがあるのだ。
「昨日も似たような感じの本読んでたな」
「ゲオルク・ハイム。『モナ・リーザ泥棒』。この人もドイツ」
「ドイツとかオーストリアとかややこしいよな」
「そうだね」
どうも会話が続かない。僕と長く話を続けられるのは由良ぐらいらしい。
鍵を開けて部屋の中に入った。やること言ったら読書だけである。由良もいないし何か空虚な感じを覚えた。
と、携帯が鳴る。由良のアカウントからメッセージが来ていた。
ゆらみく 16:30「私は用事があります。是非とも今すぐ体育館に来て下さい」
いつもは単語だけなのに、なんか妙だぞ。ちょっと胸騒ぎを覚えた。
すぐ行かないといけない。
「種村、ちょっと用事あり。暫し留守にす」
種村はこくりと首を動かしただけだった。
廊下を走り、階段を駆け下る。
放課後だし人も疎らだ。体育館はコの字型の校舎の車道を挟んだ向こう側に存在している。移動するのがちょっと手間だ。だが体育の時間はいつもそこに行かなければならないので、面倒臭くてならなかった。
と、バレーボール部の多田満津と行き違った。小麦色の肌でショートカットの金髪娘だ。赤白のストライプの入ったランニングウェアを来ていた。
気さくな性格だと思うが、僕はビッチでヤンキーと見なしており、余り声を掛けたくない人種ではあったが、これで矢川の中学からの親友だというのだからなんとも不思議だ。一年の時は同じクラスだった。
「澁澤じゃん、何か久しぶりだねえ」
「お、おう」と僕は口籠もる。
「今日はなんか体育館が使えなくてね。どうも、美食部あたりが貸し切りにしてくれと訴え出たらしい。丸谷とか篠田とか気に食わん連中だよ。文化系の癖にあたしらの庭に入ってくんな! そう言いたくなるよ」勝手に話し掛けてくる。こちらは完全に聞き役に徹していられるので寧ろ楽だった。
しかし、体育館を美食部が貸し切りとは。そして由良がそこにいるのだ。何か嫌な予感がしてきた。
それだけで用は終わりかと思いきや、多田はなお話したいようだった。
「ところで澄香がお前のげんぶんぶ? だっけ、入りたがってるようだよ。ここだけの話、あいつとは親友だから、敢えて言うけど、ちょっと気を付けた方がいいよ」
「えっ?」僕は驚いた。
――あの矢川に気を付けた方が良いって? 耳を疑った。しかも部活に入りたがっているって。勘違いじゃないのか。そんな話は一度も聞いてないぞ。
「ほら、あいつ典型的なサークラさんだから」
「サークラ?」
「サークル・クラッシャーの略。中学の時なんか一年ごとに男ばかりの文化部を渡り歩いて、それが全部潰れちゃってるんだ。これで本人に悪気はないんだな。高校に入って一年目こそテニス部で女子ばっかりだったんだけど、それでは物足りないようで、すぐに止めちゃった。あいつは元々文化系女子だからね。あたしも実はそちらも興味あるけど……」
そこから以下は聞き役を辞めて上の空になっていた。長い話が一息吐くと、
「でもあれは、男ばっかりの集団でのことだろ。うちは男一人に女二人なんだから、そんな心配はないよ。仮に、矢川さんがほんとに入りたがってるんだと仮定しての話だが……」と口を挟んだ。
「いや、余計それはやばいよ。女ばかりのところにお前一人だけでしょ。十分な火種になるよ。由良も由良で鼠花火みたいな女でしょ」多田は直ぐ様言ってくる。ちょっとお節介過ぎにも感じた。
「もういい。流石にちょっと不快だ」僕は強制的に話を打ち切った。
「じゃあ」
といって走り出す。多田が済まなそうな顔をしているのが分かった。根はいいやつなのだろうが、口が過ぎる。
不安感は更に増してくる。
やっと体育館の扉の前に着いたとき、心臓の動悸が聞こえてきて、これは相当だなと思った。
開けると、そこには篠田十一子が腕を組んで立っていた。
相変わらずの巨乳で、スカートからは張りのある太腿が突き出ている。
その横では由良が猿ぐつわを噛まされ、簀巻きにされて、床に転がされていた。
「ううううううううううう」言葉にならない声を上げている。
その横に立っている痩身で長髪の男は一のBの百目鬼元恭だった。新聞部から美食部に引抜かれ、丸谷や篠田のお付きのような存在として校内では著名である。
「んほほほほほっ。いいざまですわね~!」
「おい篠田、いくら何でもやりすぎだぞ、お前、由良の携帯を取っただろ」僕は叫んだ。
「な、何でそんなことがおわかりになりますの?」篠田は空惚ける。冷や汗がその額に浮かんでいる。
「由良はこう言うときいつも手を抜くからだ。ちゃんと主語述語をハッキリさせる文を送ってくるなんて、別人の所業に決まってる!」
「し、知らないですわー、わたくしがそんなお下品なことするわけないじゃないですかっ、ねっ、百目鬼さん!」
「それはともかく」百目鬼が間髪入れず言った。「副部長は澁澤先輩、貴方と決闘したいようですが」
決闘? 何故に? 僕と?
「そうですわっ。由良さんったら、『私になにかあったら、絶対に龍が来てくれるー』とか口走っていたものですから、試しに引っ捕らえてみたところ、確かに澁澤くんがお見えになられたので、その辺りは間違いないということになったのですが、ここでわたくしに澁澤くんが完膚無きまでに叩きのめされると、由良さんはもうどうしていいか分からないでしょう、それが楽しいんですのっ」グダグダな挑発である。
由良の顔が真っ赤になっている。簀巻き状態のまま芋虫のように蠕動していた。アホ毛も上下していた。
「はー、要するに僕とお前が闘えと、そんで勝てと」
「勝つんじゃないですわ、あなたはわたくしに負けるのですわ!」と指を突き出した。
こういうとこ、本当に由良と似てるよなあ。
「澁澤先輩、副部長は貴方と幻想対決を挑まれているのですよ」流石元新聞部らしく百目鬼は簡潔にして要を得た答え方をする。
――幻想、三島由綺の言った言葉が蘇った。
由良と同じように、篠田もまた幻想を使えるのだろう。要するに伊木先輩と同じように『仕掛けて』きたのだ。
篠田は何故か剣道部の使う竹刀を片手に握った。俺にも同じ物が渡される。
「う、受けて立とうじゃないか」
幼馴染みが捕らえられているのだ。
是非もなし、とはこういう状況を言うのだろう。篠田がどれだけの力を使えるのか知らないが、また、僕自身力を使えるのか知らないが、受けて立とうじゃないか。
百目鬼は簀巻きにした由良を紐で引っ張って、だだっ広い体育館の隅の方に寄せていった。悲痛な声が漏れるも、言葉になる事は無かった。
「一本勝負、正々堂々とやりましょう」と篠田はいうものの、お前等のやり方はもう十分に汚いのだが……。
「幻想展開っ!」
でたああっ、あのちょっと恥ずかしいセリフが……。
途端に、ただでさえでかい篠田の身体が大きく脹れ上がったように見えた。
目の錯覚かと思ったが、そうではないらしい。それとともに、締めきられた体育館の中は更に湿気が増したように思われた。
篠田の身体はさらにさらに大きくなり、それ共にその肌の色相は薄くなって、カメレオンのように周囲の風景に溶け込んでいた。
とうとう完全に透明になって、篠田の姿は目の前から見えなくなる。竹刀と制服も消えてなくなった。
それとともに体育館全体に濃い霧が立ちこめ、視界を瞬く間に不明瞭にした。
どこに行ったんだ?
そう思った刹那である。
バシッ。右腕に痛みが走った。
バシッ。バシッ。バシッ。身体が四方八方から叩かれる。
こんなのってありかよ。見えない敵の攻撃に、なすがままに晒されている。
「んほほほほっ、わたくしの幻想は<<気化>>ですわっ。全身の水分を増幅させて、空気中に溶け込ませることにより、この空間全てをわたくしの身体にすることができますの。澁澤くんはこの体育館に居続ける限り、攻撃から逃れられないばかりか、身動きすらとれなくなるのですわっ。わたくしったら修練を重ねて、服や手に持つものまで気化させることができるようになったんですの~。勿論固形化させることも即座に出来ますわっ。どの位置からでも竹刀で澁澤くんを叩きのめす事も可能ですし、窒息させる事も可能なのですわっ」
どこかから説明口調な声が響いてくる。
そう言われれば、両肩と両足がえらくヘヴィーだ。全身が体重により圧迫されているようで、少しも身動きがとれないのだ。プロレス技を掛けられてでもいるかのようだった。
「楽勝ですわね~、ここまで弱い相手とは思っても見ませんでしたわっ」
「つまるところ、お前って体力バカ?」と余裕を見せるために軽口を振るった。
やはり相手の沸点は低かったようだ。
歯ぎしりのような音が聞こえると、身体に叩き付けられる竹刀? は回数を増した。諦めてその場に倒れ込んでしまった方がマシかと思われるぐらいだった。
と、その時である。
犬の鳴き声がどこかから聞こえた。
「くううん、くううんん!」なんだろう、これこそ幻聴だろうか。
床に放置されていた由良の鞄が開かれていた。由良は教科書を学校に置いたままにしているので、持ってくる物は少ないはずだ。
その中から一匹の犬がむくりと顔を出したのだ。毛を四角形に刈り込まれた、由良の飼い犬である。おそらくは雑種だろう。僕は「ブロック犬」とか「四方犬」とか呼んでいた。
「ワンッ、ワンッ!」
殊勝にも四方犬は首を二三度捻ると簀巻きにされた飼い主の元に走り出した。篠田は直ぐ様それを防ぎ止められるはずだったが、僕を痛めつけることにご執心のようである。
何かやろうとしているのだ。篠田が気付くのを阻止しなければならない。
「どうした肉襦袢、その程度でござるかな」僕は出来る限り篠田の注意をこちらに向けなけさせた。
「んぬうううううっ、言わせておけばぁ!」やはり体型のことが一番気に障るらしい。単純だなあ。
しかし、こちらは壮絶な攻撃を受け続けることになった。渾身の力を込めて竹刀を何度も叩き込んでくる。少しの容赦もなく、殺しに掛かってきているかのようだった。
四方犬は由良の元に来ると、その口に詰め込まれていたタオルに噛み付いた。
百目鬼は直立してこちらを見ており、それには関心を払っていないらしい。合理性の塊のような奴だなと思った。
しばらくそれを繰り返した後に、四方犬は無事タオルを引き出すことに成功した。その途端、由良の叫びが体育館に響いた。
「龍、何をもたもたしてるの! 幻想を展開してっ!」
そうだ、あれをやらないと。
だがどんな能力を使えるのだろう。分からないのに使えるのだろうか。
「げげげの幻想っ、ててての展開!」
「ちゃんと言わなきゃダメっ!」
恥ずかしい。僕は躊躇ったが、竹刀は躊躇なく僕の身体を叩く。
「ふぁんたすまごりあっ! でぃぷろいめんとお!」
悶えそうだ。だが、それでも何も起こらなかった。
「無駄無駄無駄無駄無駄っ! 由良さんも何をこんな能なしに拘っているんだか、ですわ!」興奮したのか僅かに訛っていた。篠田の機嫌は直ってきたらしい。
「龍、念じてっ! イメージをするの、イメージしなきゃ……龍の幻想は……えっ!」絶句していた。何か怖いな。
「やはり能なし、能なしですわ!」執拗に篠田は嘲ってくる。
「サラマンドラ」静かに由良が唇を動かした。「龍、炎を念じて、心の中で強く炎を」
炎だと。
そう言われると、確かに身体の内側で沸き上がるものを感じる。プラシーボかもしれんが、それでも凄い自身だった。
篠田は絶句していた。
炎使いと篠田の能力は相性最悪だ。
そんなことは馬鹿でも分かる。霧は水蒸気の粒だ。炎で焼き払えば、たちまちのうちにそれこそ『霧消』する。
だがもう術はなかった。篠田自身が体育館を封鎖し、逃げ道を閉ざしていたのだから。
『幻想には合理を排すべし』とのことだが、確かに理屈で解釈してしまえば幻想なんてあっけないものだ。
「サラマンドラよ、燃えよ!」思わず大声で叫んだ。
するとたちまち僕の足下に円弧が描かれた。よく見ると、小さい炎が床から吹き上がっていたのだった。
瞬く間にそれは大きくなり、業火となって体育館中に広がった。燎原の炎となったが、四方犬と由良(簀巻き)の居るところと僕の周りだけは上手く避けられている。二人と一匹の影が長く伸び、その上で炎の舌が躍っていた。
「ぎゃあああああああ」篠田の悲痛な声が聞こえた。
何とかして凝集し、逃げだそうとするが、そうは問屋が卸さない。こちらも持っていた竹刀を振るって人型の輪郭が現れ始めた箇所を叩いた。足を出せばその部分だけ炎が二つに分かれ、通ることが出来るようになるのだった。
百目鬼はというと、こちらも幻想を展開したらしく、空中に浮き上がっていた。だが随分ノロノロとして、動き辛いようだった。
「俺は<<風>>を使いますからね。無風状態では流石に分が悪い。退散させて頂くとしましょう」と事務的に言う。
「お前、副部長を置いて逃げるのかよ」僕は怒鳴った。
「澁澤先輩、この柘榴国高校では、幻想を展開したことの責任は本人自らが負わなければならないのですよ。篠田副部長といえども、例外ではありません」
そうして、体育館の扉を開け放ち、外から入り込んでくる春風の中を滑って、どこかへ消えて行った。扉から入ってくる風によって、霧は外へ流れ出し、更にその量を少なくしていった。
風に煽られて、炎はその勢いをなくした。見る間に消えて行き、無残な焼け跡のみが残った。




