第2話 初めて死んだ日
その日俺は、大学の友人に誘われて長野県に有るキャンプ場まで向かっていた。
友人の名は出淵君と言い、周りからはデブチと呼ばれている気の毒な奴だ。
俺も友達は少ない方だったが、こいつは更に少ない。
彼はアダ名の通り、太っていて鈍臭く、そんでもってオタクだった。
俺とは別な意味で、あまり幸せな青春時代を過ごしてはいないだろう。
そんな出淵君と、共通の趣味がきっかけで仲良くなったわけだが、その彼が半ば無理やり所属していたのが「サバイバル同好会」という如何にも胡散臭いサークルだった。
そのサークルで、夏休みのイベントに空きができたからと、泣きつかれる形で誘われたのだが、実際は雑用係だ。
それでも女の子は多いし、正直ひょっとして何かイイコト起こるかもと期待していたのは否定しない。
当日は彼が借りてきたワゴン車で、女子含めて数名が乗りあわせ。
そこまでは良かったのだが、同乗してきた奴に、そのサークルの部長が居やがった。
こいつは大学でもそこそこ有名なDQNだ。
こりゃ出淵君が逆らえるわけがない。
きっと今回メンツが足りなくなったのはコイツのせいで間違いないだろう。
「おい! デブチ!! テメもっとビール積んどけってあれほど言っただろう、使えねー」
部長は最後列のど真ん中に陣取って、やれ運転がトロいだの休憩しろだのツマミ買ってこいだの言いたい放題だ。
出淵君は一人でもう三時間は運転している。
「すまない、俺が免許持っていないばっかりに……あのヤロー代わってくれりゃ良いのに」
「いいよ、不破くん。僕こそ悪かったね、まさか部長が乗ってくるなんて知らなかったんだ」
きっと他の部員は知っていたに違いない。
しかし言っても始まらないし、俺も立場上この部長には逆らえない……ケンカしても一方的に負けるだろうし。
同乗者は全部で7人。
運転席に居るのは出淵君で、助手席は俺。
後は女の子が四人も居るのに、後ろで部長が独占していやがる。
車内がキャバクラみたいだ。
「おい! デブチ!! まだ着かねーのか!? 何時間かかんだよ、バカ!!」
何言ってやがる、場所決めたのテメエじゃねえのか?
それに出淵君は初心者マーク、慣れない山道をスイスイ走るなんて無理だろ。
脂汗流しながら必死でハンドルにしがみつく彼が気の毒でならない、ホントにごめんよ、俺が免許も取れない貧乏人なばっかりに。
それからしばらく山道を走っていたのだが、間もなく目的地というところでまさかのガス欠。
案の定、罵詈雑言を浴びせられる出淵君。
部長が怖くてメーター見てる余裕なんか無かったのだろう。
他の車が通るのを待って、助けを求めようとしていたのだが……運悪く、1時間待っても人っ子一人通らなかった。
しびれを切らした部長は出淵君や俺に当たり散らす。
「おい、そこのゲスト君。お前悪いけど助け呼んでくるかガソリン買ってこいや」
部長の一言は絶対なんだろうが、俺は基本部外者だ。
ここでブチ切れて逆らってみるのも良いかもしれん、なんせ相手は結構酔っている。
そんな雰囲気を感じ取ったのかだろう、影で拝み手をする出淵君に気が付いた……。
ここは彼に免じて、俺は大人しく一人山道を徒歩で下りる事にした。
運悪く、携帯の電波も届かない場所だったので、JAFも呼べない。
最初は軽く考えて、電波さえ届く場所に行けばなんとかなると思っていた。
しばらく歩くうちに、県道の脇に下りの獣道があるのに気が付いた。
ここでふと、この道を下りれば近道なんじゃ? と、素人に有りがちなミスを犯すことになる。
はっきり言って、山を舐めていた。
後悔してもし足りないほどだ。
木が生い茂る獣道は、想像以上に暗く険しい。
真っ昼間ならともかく、夕暮れの山は日が落ちるのがめちゃくちゃ早い。
あっという間に懐中電灯が欲しくなるほど暗くなり、足元もおぼつかなくなった。
戻ろうと何度も思ったが、既に相当下まで下っていて、今更戻るには体力が持つ自信がない。
それに坂をひたすら下るうちに膝が笑って云うことを聞かない。
喉が渇くし腹も減った、こんな場所で熊にでも出くわしたら呆気なく晩飯にされること請け合いだ。
俺の中で、不安は次第に恐怖に変わっていった。
何時間山道を彷徨っただろう、携帯の電波は相変わらず圏外のまま。
本格的に遭難したと自覚し、泣きそうだったが水分を失わないように必死で堪えた。
更に追い打ちをかけるように、霧まで出てきた。
この場でじっと助けを待とうとも思ったが、ひょっとしてもう少し下れば麓に着くのでは、という期待感が俺の足をひたすら前に進ませていた。
だが、そんな事は無かった。
ついに俺の足も止まった。
いくらなんでも既に二時間は山を降り続けているのだ。
道は山の稜線を中心に、蛇のようにうねうねとカーブが続いていたはず。
俺はその中心を真っ直ぐショートカットしているはずだ……った。
しかし、未だ一本の道にも遭遇しないなんておかしいだろう。
喉の渇きも限界に達し「冗談だろ?」と思いつつも、半ば死を覚悟した時だ。
少し離れた先に、何者かが居るのに気が付いた。
真っ暗で良くわからないが、二本足で歩いている?
人だ! 助かった!!
俺は最後の力を振り絞り、大声で助けを求めた。
先方も俺に気付いてくれたようで、こちらに登って来るのがわかる。
まさに天の助け、心の底から安堵した。
しかし、そこで何か妙な事に気が付いた。
俺の叫びに応えてくれた割に、相手の声が聴こえない?
普通、こんな時は「そこに誰か居るのか?」とか「大丈夫か?」とか言ってくれるものでは無いだろうか?
そいつは無言で俺に向かって急な山を登って来る。
そして足が異常に早い。
プロの登山家がどれほどのスピードで登るのかは知らないが、そいつの速さは尋常ではない気がした。
近づく程に、更に加速している気もする。
それに気のせいか、もの凄く大柄……いや、巨大な気がする。
なんかヤバイんじゃないか?
俺の本能が、全力で逃げろと叫んだその時、そいつの姿がはっきりと分かった。
真っ黒で巨大な体格。
二本足、それは間違いない。
しかしそれは、期待していた人間とは違う……熊……いや、熊ですら無い。
見たこと無いというか、見覚えは有るというか?
中学の頃だったか、冒険モノのRPGをやっていた時に結構出くわすモンスターが居た。
ゴリラのような体格に牛の頭を持った怪物だ。
現れた奴は、それに近かった!
その顔は、熊と牛を合わせたような、どちらかと言うと牛よりな頭。
体型はゴリラの胴体と熊の腕と足、真っ黒で針のような体毛が全身をびっしりと覆っていて、ワキガのおっさん数十人に取り囲まれたみたいに激しく獣臭い。
右手にはお約束の棍棒のような物を握りしめ、俺を見る目は人間のそれに近い。
口からはヨダレを垂らしながら、時々舌を出している。
まるで俺を美味しい獲物と思っているようだ……いや、どうみてもそう思っているに違いなかった。
身長は軽く俺の倍は有りそうだ、勝てる気なんか微塵もしない。
さっきの足の速さからすると、逃げることも不可能だろう。
夢であってほしいと心から思ったが、鼻につく獣臭が現実を突きつける。
目の前の怪物はどう見ても夢や幻覚じゃ無かった。
「こ、こ、こんばんは……とと、友達になりませんか?」
勝ち目のない俺は、懐柔策を試みた。
無駄だとはわかっていたけれど、それしか思いつかないのだ。
「グモオオオオー!!!!!」
すさまじい雄叫びは、俺の心を砕くのに十分だ。
必死の申し出は、いきなり却下された。
これは女の子に告白して振られた時よりずっと堪える、なにせ死の宣告なのだ。
必死で逃げようとして後ろを向いた瞬間、後頭部に強烈な一撃が加えられた。
さっきの棍棒で、ぶん殴られたらしい。
次に肩に激しい痛み!? そいつに右肩を思いっきり捕まれて、爪が肉に食い込んでいたのだ。
悲鳴を上げる暇などない。
そのまま持ち上げられて、軽々と振り回され、近くの木に叩きつけられた。
速攻で俺の命を奪う気らしい。
仰向けに倒れ、全身に力が入らなくなった。
体中の骨が、あちこち砕けたようだ。
このまま死んで、こいつの晩飯になるのだろうか……いや、ひょっとしたら息のあるまま食われるのかもしれない。
覚悟を決めるべきところだろうが、納得が行かない。
行くわけがない!
熊に襲われたなら納得しよう。
ここが海で、サメに襲われたのなら諦めよう。
動物園から逃げ出したライオンやワニに運悪く襲われるのだって吝かじゃない。
しかし相手はなんだ? 生物的に正しい生き物じゃないだろう?
こんな奴に食われて死ぬなんて、受け入れられるはず無いじゃないか!
「ち……くしょう……冗談じゃないぞ……」
なんとか這いずって逃げよう……としたのだが、もう既に小指の先一本動かすことが出来ない。
巨大な化け物は、ゆっくりと俺の顔を覗き込んでいる。
なんだか笑っているように見えるのが腹立たしいが、そんな事はどうでもいい!
慈悲の心が有るのなら、せめて一思いに……。
次の瞬間、俺の全身に大量の液体が降り注いだ。
生臭く、生暖かい。
バケツにして何杯分かわからないが、それが奴の血だということだけは理解できた。
「グオオオオー!!…………」
断末魔の悲鳴を上げたのは、化け物の方だった。
――――――――
「確認、捕獲対象を殲滅。
種別、ミノタウロス。性別、雄。推定年齢10から12歳。
推定重量、325・324……312kg。
可食部重量245kg。
これより運搬します」
すぐ近くで誰かの話し声がする……女の声だ。
それにやっぱりこの化け物はミノタウロスだ、今言ってたから間違いないだろう……って、重い!
どうやら俺はミノタウロスの下敷きになってるらしい。
いや、その前に俺はまだ生きてるのか?
既に全身の感覚が無くなってるんだが?
それに出来れば助けてもらえないだろうか?
いきなり身体が軽く楽になった、覆い被さっていたミノタウロスの死体が持ち上げられたようだ。
もう霞んでいてよく見えないが、目の前には巨大なミノタウロスの死体を軽々と右肩に担いだ人影だ。
さっき300キロぐらいとか言ってなかったか?
それに……食うの? それ。
「……あ……が、たずけ……ガハッ!」
助けを求めようと、なんとか声を絞り出そうとしたが、限界だ。
気付いてはもらえたと思うが、それ以上はこの誰かに期待しなきゃならない。
ここで俺の意識は限界を迎えた。
「追伸。マスター、ミノタウロスの犠牲者と思われる人物を発見。
心停止。
死亡後、数分のようです。
村の者では有りません、遭難者のようです。
推定重量60kg、可食部38kg、食用としては推奨いたしません。
……同時運搬不可、優先度を提示してください。
……了解、遭難者の運搬を優先します」
気が付くと……いや、身体が覚醒しているわけじゃない。
俺は何か浴槽みたいなところに浸されているようだ。
生暖かい、水だろうか……身体が浮いている……いや沈んでる?
取り敢えず目は開かないし、ここがどこだかもわからない。
ひょっとして死後の世界ってやつじゃあ無いのだろうか?
「マスター、この男性の処置はいかが致しましょう。
既に心停止から3時間過ぎています、通常の方法では蘇生不可能です」
声がする……聞き覚えの有る声だ。
そうだ、ミノタウロスをぶっ倒した奴の声じゃないのか?
それに何? 俺の心臓止まってるって……マジ? 俺死んでるの!?
「ウンディーネ、ごらん……この坊やの着物……どう思うね?」
「そうですね、この国内では見かけないデザインです。
素材や縫製など、大変高い技術が伺えます。
王侯貴族の関係者である可能性が有ると思われます」
「ふふ、そう思うのも無理ないか。
おい坊や、聞こえたら……返事は無理か」
どうやら坊やとは俺のことらしい。
堅苦しい言葉はさっき、多分助けてくれた女だろう。
もう一人もやはり女の声なのだが、少し年配な感じの声だ。
それより俺に話しかけているようだが、困ったな……聞こえてはいるのだが、どう返事したものか……。
「おお、魂はまだ無事のようだね。
聞こえてるならいい、答えるのは心で考えれば私には聞こえるからね」
ええ!? まじっすか? マジで聞こえてるの? てか、俺一体どうなっちゃってるんですか? 教えてください!!
「ああ、良いとも。
……と言っても、聞いたらショックで魂が離れかねないけど良いのかい?
そうなったらあんた間違いなく終わりだからね、これは間違いなく現実なんだから」
ん~……なんか怖くなってきた。
そりゃそうと、やっぱりアレは現実に起こった事か。
でも未だに信じられない。
牛の頭の怪物なんて、あり得ないだろう普通。
「そりゃあんた、ここがあんたから見て『異世界』だからさ。
ありゃミノタウロスって言って、あっちじゃ神話や物語にしか出てこない動物さ」
あ……俺の考えはこのばぁ……ご婦人に聞こえるんだった。
しかし何だって? 異世界ってどういうこと?
「……ほう、意外と肝が座ってるね、若いのに大したもんだ。
今の話だけで昇天するかと思ったのに。
目が覚めたら色々話してあげても良いが、どうする? 助けて欲しいかい?」
おなしゃっす!!
「それにゃあ先ず条件がある。
それを全て呑んだら、あんたの身体を元通りにしてやっても良い、どうだい?」
お金無いっすけど、それ以外なら何でもします! 約束します!!
「そうかい、良いだろう。
先ず、あんたの状況を説明してやるから頑張って聞きな、この事実に耐えられないような神経なら助かったって無駄さ」
どういう意味だか理解できないが、今起きていることが夢だろうと現実だろうとこの「ご婦人」に従うしかなさそうだ。
どんな状況だろうと受け止めなければならないって事で良いのかな?
いよっし、ばっちこーい!
「あんたの右腕は肩口から抜けて皮一枚で繋がっている。
これはミノタウロスの爪でえぐられたんだね、痛かったろうに……。
で、背中から右肩に向かって引き裂かれて心臓が露出してる。
よく生きてたもんだ、即死してりゃ楽だったろう。
頭蓋骨は後頭部が大きく陥没して、脳ミソが飛び出して右目も飛び出してる。
腰骨も砕けて背骨もねじ曲がって、両足が反対向いてるよ。
内蔵は……ほぼ全損――」
いや! ダメじゃん!?
何それ全然無理っしょ、治りっこ無いし!
聞かなきゃ良かった知らずに死ねばよかった! それで生きてくって、俺軟体動物にでもなるの!?
「あっははは、なんだ意外と平気なんだね。
こりゃ期待して良さそうだ、大丈夫、綺麗に元通りにしてあげるよ。
それより条件の話だ、なあに、難しい話じゃないさ。
あんたに私の後継者になってもらいたい」
後継者? 何ですそれ……って? 本当に俺の体を元に戻せるんですか?
「戻せるとも。
もちろん簡単なことじゃないけどね、でも私の後継者になってくれるんならやってあげよう、どうだい?」
う~ん……何か引っかかる。
俺には見えないけど、仮に……実際俺の状態が貴女の言うとおりだとして、そこまでして俺を助けるメリットが貴女に有るんですか?
「ああそうさ、なぜなら私の後を継ぐには私と同じ生まれ故郷の人間じゃないと無理なのさ。
あんたは『日本』から来た、そうだろう?」
はい、そうです。
って? ここ日本じゃないの? どこの国?
いや、さっきから言ってる異世界って本当?
「まあそういうことさ。
で、どうするね? 嫌なら無理にとは言わないし、不憫だからこのまま裏庭に埋めてあげよう」
いやいやいや、それは勘弁してください。
つまりその……貴女の弟子になれば良いのですか?
それに貴女は俺と同じ日本人ですか?
「そう、私は元々日本人だよ。
名を宇都宮モトコ、今はこの村で医者をやっている。
あんたにはそれを継いで欲しいのさ、悪い話じゃ無いだろう?」
確かにそうかもしれません。
で、質問ですけど、どうやって俺のこと治すんですか?
それにそんな天才外科医の跡継ぎなんて……俺大学は文系で……。
「心配しなくていいよ。
ウンディーネ『魔極水』の用意だ。
残っている分全部使うよ、この坊やは血がほとんど残ってないからね」
まきょくすい? 聞いたこと無いけど薬みたいなもの?
てか、既に契約成立なの?
まあ、断る理由も自由も無いみたいだし、生き返れるならなんでも良いです。
こうして俺は、二日後に目覚めた。
そして師匠となるモトコさんと、俺をミノタウロスから助けてくれたウンディーネと初めて対面したのだった。