彼との遭逢
私は、一人歩いていた。
特に向かうべき場所はない。
帰るべき場所もない。
私は────。
私が里を出てから、一体幾日が過ぎだだろうか。
道などない森の中で、一体幾日を過ごしただろうか。
この緑ばかりの風景にもいい加減飽きを感じつつあるが、歩けど歩けど一向に出られる気配はなかった。
五日ほど前にこの森に入ってからなにも食べていない。
この森には、実のなる樹木も、囀る小鳥も、駆ける獣でさえもが存在しないからだ。
森という食料の宝庫であるにも関わらず、ここに迷い込んでから一匹たりとも生き物という生き物を見かけない。
それどころか木の実さえも見当たらず、奇妙なことに風さえ吹かない。
回らない頭をひねって考えてみるが、結局答えは出なかった。
現時点ではっきり言えることは、抜け出さない限り待っているのは『死』ということだけだ。
空腹という感覚はない。
ただ、それは腹が減っていないのではなく、限界に近いことを語る。
ただ単に神経が麻痺し、精神的に空腹というダメージを与えないための防御反応かは定かではない。
足元に生える青々とした草を食べようと試みたが、全て毒草ということを私は知っていた。
…こんなところで出てきた里での教えが役に立ってほしくはなかったが。
もう歩いている感覚もない。
眩暈がしてきた。
景色が捩れるように歪んでいく。
私はこのまま野たれ死ぬのだろうか。
立っているのか、座っているのか。
それすらも怪しくなってきている。
私には相応しい最期なのかもしれない。
─────化け物として相応しい。
その時だった。
私はそれを見つけた。
木々の間に張り巡らされているそれは、森の奥へと続いている。
草をかき分け、触れないように注意しながらその先を辿っていくと、やがて終着点らしき平けた場所に着く。
そしてその中心には樹齢何百年ともつかない巨大な樹が、この森に似合わず生命を讃えるようにそびえ立っていた。
周りの樹々の三倍はある幹に、太く立派な枝が伸び、その先には青々とした葉が茂っている。
これほど力の宿った樹木を見たことはなかった。
思わず、息を飲む。
しばらく気圧されて突っ立っていると、葉に隠れてよく見えないが、幹の中腹あたりに何かがいる。
生き物という確証は全くなかった。
しかし、それが人だと直感で感じた。
昔から、こういう勘だけは変に鋭いところがあったことを、頭の隅で思い出す。
それと同時に里を出た理由も揃って思い出し、大げさに頭を振って無理やり頭を現実へと戻切り替えた。
ゆっくりと大木に近づいてみる。
足元は芝類で覆われており、所々に小さな池が点在している。
見る限りとても澄んでいて、飲み水として活用できそうだ。
しかし、人らしき陰から目が離せない。
一歩、また一歩を進んでいくと、徐々に陰の姿がはっきりしてくる。
そして、目の前を遮っていた枝をくぐり見上げると、その人物は姿を現した…いや、こちらが姿を確認できた。
枝に登り、幹に体を預けるような姿勢で、一人の青年が眠っていた。
顔立ちは端正なものだった。
黒く短い髪が、日の光を受けて艶やかに見える。
年若く、成人して間もない…もしかしたらそれよりももっと若いかもしれない程に、若い青年だ。
この辺りでは見かけないような少し形状に特徴のある着物を羽織り、静かに寝息を立てている。
その彼に好奇心から近づこうとした瞬間、私の足は膝からその場に崩れ落ちた。
どうやら本当に、体力の限界らしい。
ゆっくりと意識が落ちる中で、誰かの足、恐らく青年が近づいてくるのがわかった。
そして、私の頬に彼の手が触れる。
触れられたその場所から、彼の体温が伝わる。
…人とは、こんなにも心地いいものだったのだろうか。
私も、もっと人と触れたかった。
そう思いつつ、意識を絡め取る闇に私は身体を預けた。
**********
…風の音が聴こえる。
木々のざわめきが聴こえる。
ゆっくりと瞼を開く。
木立ちの中に、青い空が垣間見え。
その中を、白い雲がゆっくりと漂っていた。
生きている。
そう、実感した。
「…起きたか」
突然何者かの声がした。
身体を起こそうと力を入れるが、全く動かない。
仕方がないので目だけで探すと、自分の頭上ーつまり樹の枝の上に彼はいた。
意識が途切れる前に寝ていた彼であった。
彼は樹の枝から飛び降りる。
「!」
「気分はどうだ」
冷静に話しかけてくるその目は、何の感情も宿っているようには見えない。
かといって、死んだ目という訳でもなく。
深く、じっと、真っ直ぐに。
そして静かに私を見つめている。
無を湛える目を、私はこの時初めて見た。
「どうなんだ」
彼の催促で問われている事を思い出し、声を出そうと口を開けるが、喉がくっついたように声が出せない。
「声が出ないか。
水は飲めそうか?」
できるだけ大きくかぶりを振る。
「よし。
ちょっと待て。今飲ませてやる」
彼は、あんまり綺麗じゃないが、と言いつつ、首に巻いていた黒い帯のようなものを破りとる。
一体何をするのだろうか。
すると、なぜか小さな竜巻が起き、布に雨が降ってきた。
…いや、正確には違う。
雨が降ったのではない。
竜巻が水を巻き上げ、運んできたのだ。
一体どうやって…?
私が竜巻を凝視していると、彼は少女を見てこう言った。
「怖がってもいいが下手に動くなよ。
体力が消耗するだけだ」
…それは勿論。
不気味ではあるが助かっておいて自分から危険な目にあうものか。
声にも出せず、体も動かせない今はただ思うしかできないが、心の中でそう答えた。
すると、
「わかっているならいい。
それより先に飲め。水だ」
水、と言って見せられたのは、あの黒い布だった。
「いきなり飲むと危険だからな。
含ませてあるから、ここから飲め」
そういうと、彼は僅かに私の頭を持ち上げ、口に布を当てる。
すする力も残っていないと踏んでか、水が滴る程度に含ませてあった。
布から滲み出る水を飲む。
…美味しい。
本当に、何日ぶりの水だろうか。
水のありがたみと沁み渡る感覚を胸に刻みつつ、私は静かに水を啜った。
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