ユキと銀の虹
冬の童話祭2015に合わせ、書き上げました。
寒い冬に、僅かでも暖かさを感じていただけたら幸いです。
*
それは今より、ずっと昔のその昔。
人々が、山や海と近しかった頃のお話。
とある山の奥。緑深い、森の中。
そこに三人の暮らす小さな古い屋があった。
祖父母の銀とトキ、そして孫娘。孫娘の名は、ユキと言う。
彼らが住まう屋の周囲には、ほかに人は無く。
山を下ること、しばらくして小さな集落とそこから更に川向うへ下りて行ったところに賑やかな港町。
祖父の銀が樹木を伐採し、ささやかながら二人を養う日々の糧を得ていた。
それは、楽とは言えない暮らし。
それでもユキにとって、祖父母と暮らす日々は何より大切なものであった。
しかし、祖母にあたるトキにとっては違う。
トキは孫娘にあたるユキを冷たくあしらい、時にその存在を無視した。
銀がこれを諌めるも、聞く耳を持たなかった。
彼女にとって、ユキは愛すべき存在ではなかったのだ。
五年前、家の前に置かれていた小さな子供。
誰の子かもわからない娘。
銀はその子供を拾い上げ、ユキと名付けて育てた。
二人の間には子がなかった。
銀は子供を育てることに喜びを感じていたが、トキには嬉しいことでは無かった。
寧ろ、日々大人びていくユキを見ているにつれ、憎しみに近い気持ちさえ芽生えていた。
ユキは知っている。
拾われて暫くして、トキから血のつながりがないことを聞かされていた。
それでもユキにとっては、二人が親。
優しくしてくれない祖母のところへ行き、進んで家事を手伝った。
時に叩かれ、怒鳴られながらも家事をこなした。
どれだけ悲しくとも、憎むことができなかった。
ユキ自身にもとんと分からぬことであったが、身の丈以上を望む心が昔からまるで無いのだ。
ユキは山奥のその屋で、娘らしく成長していった。
およそ齢を十四、五と数えられるようになった頃。
それは夏を過ぎて、しばらく経った時のこと。
突然、銀が倒れて床に伏してしまった。
それ以来。
暮らし向きは酷くなっていく一方になった。
以前に増してトキのユキに対する扱いは酷いものになった。
銀も以前のように、表だって庇うことも出来ない。
ユキは一人、山を登ったところにある泉の前で泣くようになった。
家に帰れば、つらい思いをする。
それでも、泉の傍では自然と気持ちが落ち着くのだ。
そうやって心を落ち着けて、つらい日々を過ごした。
数日後、祖父の銀が亡くなった。
亡くなる直前まで、しきりとユキを心配していた。
そんな心優しい祖父が、亡くなった。
風当たりは、当然のようにさらに厳しいものとなる。
日々の糧を得るために、ユキは細い体で懸命に働いた。
竹細工から、機織り物まで出来ることは全てやって生活を辛うじて支えていく。
それでもトキは、変わらずに冷たいままだ。
眠る暇もないほどの日々で、ユキはどんどん痩せていく。
織物を買い付けに来てくれた下ノ村のおじさんが、心配をして声をかけるほどだった。
それでもユキは、祖母と共に暮らす日々を望んだ。
優しい祖父が亡くなった後。
僅かな愛情も、笑顔も一欠けらも見せてくれない祖母との辛い日々のなかで。
それでもユキは、守りたかった。
ずっと暮らしてきた屋と家族を守りたかったのだ。
しかし、過酷な日々は望まない形で終わりを迎える。
トキが、死んだ。
銀が亡くなって、まだ半月ほどのことだった。
それはあまりに急な出来事。
元々心の臓が弱かったトキ。
井戸の前で倒れているところをユキが見つけ、医師を呼びに下ノ村へ走った。
しかし、もう、手遅れであった。
最後の最後まで、トキはユキに冷たいままの祖母だった。
それでもユキは、祖母を抱え上げて家に戻り。
お坊さんを呼んで、ささやかな葬送をした。
その時に今まで辛うじて残っていた蓄えが尽きたが、ユキは裏山の祖父の傍らへ祖母を埋めてもらった。
下ノ村の男たちは、以前からこの娘を憐れに思っていた。
墓の前、ただ手を合わせて静かに涙を流したユキ。
彼らには、掛ける言葉もなかった。
それから一月。
ユキは山を下り、下ノ村に小さな屋を間借りして暮らし始めた。
生計は一人で暮らすとはいえ、けして楽なものではない。
ただ、どうにか眠る間は得られるようになった。
半月前。
ユキ一人の力ではどうにもならず、途方に暮れていた時。
下ノ村のおじさんが、援助を申し出てくれた。
名を梅蔵という。
その手助けもあり、どうにか成り立つ日々だった。
とても言い表せないほどの恩を、ユキは積み重ねる日々の中に感じていた。
梅蔵は以前からユキの織物を港町へ卸してくれている。
さて、その件の機織り物。
次第にその出来栄えに、口伝えで仕入れ店が栄えてゆくようになった。
仕入れ店の名は、桜屋と言った。
その桜屋の主人がある時、梅蔵を呼んで言うことには。
「おまえさんの仕入れてくる織物が、今や桜屋の目玉品になった。いったい、これほどの織をどこから仕入れているんだね?」
梅蔵はその問いかけに、にこやかに答えた。
「村の娘で、名をユキといいます。十四の娘が、毎日これを懸命に織って作るのです」
「十四の娘がこれを……ううむ、大したものだ」
それを聞いた店の主人は、次にこう切り出した。
「その娘に、店で暮らす気はないかを聞いてみてほしい」
梅蔵がユキに伝えるまでには、数日かかった。
いつしか、まるでユキのことを実の娘のように思っていた。
見守っていきたいと、そう思うようになっていたのだ。
その間も桜屋の主人から、幾度か催促がかかる。
とうとう口を噤んでいられなくなった。
梅蔵が切り出した話に、ユキは暫く何も言葉にならなかった。
本当は、ユキはここで暮らしてゆきたかった。
けれども。
これから先、ずっと間借りし続けることで梅蔵にとっても負担になることもあろう。そんな思いも、確かにあった。
ひとたび、港町へ下りてしまえば。
そうそう山奥の屋へ戻ることも出来なくなる。
放っておけば、いずれは朽ちてしまうだろう。
それを思えば、たまらなく辛く思う。
一人、あの山奥で暮らすこと。
それが、叶わない望みだと知っていた。
結局ユキは、心を決めて下ノ村を下りた。
川を渡り、港町にある桜屋の門を叩いたのだった。
桜屋でユキは部屋を与えられ、住み込みで機織りをし、暮らし始めた。
ユキの織る品は、大変に評判を呼んだ。
織る端から瞬く間に売れてゆく為、桜屋の主人はこれを大層喜んだ。
ユキが桜屋で暮らし始めて、半年ほどが過ぎた頃。
ユキは以前よりも十分なものを食べさせてもらえるようになり、忙しくはあったが日々のやりがいも得て、心身ともに美しく成長していた。
それもあって、回される仕事が以前よりも増えている。
時に、店先で直接注文を受けることもあった。
そんな、ある日のこと。
店に一人の若い男がやってきた。
今まで見たことがないような、鮮やかな色の着物。
それをさらりと着こなした男は、しばらく店の中を見渡したかと思うと。
出来上がったばかりの布地を抱えて、店の裏から出てきたユキを呼び止めて言う。
「それは君が織ったものか?」
思わず笑顔になり、布地を抱えたまま頷いたユキ。
それを見た男は、こう言った。
「君に、主人の着物の仕立を頼みたい」
それから男は、店の主人を呼んで色々と話し込んでから店を出ていった。
後に、桜屋の主人がユキを呼んで言う事には。
「七日ほどお前を屋敷へ招きたいそうだ。そこで直接採寸をして、着物を作ってほしいという依頼だ」
ユキはこれに戸惑いながら、着物を作るところまでは自分には出来ないと伝える。
しかし桜屋の主人は、これに一つ頷いて付け足した。
「先方は、それも承知しているようだ」
おそらく屋敷の主人とやらが、気に入りさえすれば布地を幾つか所望することもあるだろうと。
そんなことを呟きながら、安心して行ってきなさいと笑顔を見せる。
あまりに突拍子のない話ながらも、桜屋の主人が既に受けたならば行くほかない。
ユキは細々としたものを纏める。
そして翌日、ささやかな荷物を手に店を出た。
事前に地図を受け取っていた。
桜屋を出て、海沿いに細い道を進んでゆくと桟橋が見えてくる。
そこに、店で会った若い男が立っていた。
「君を待っていた。ここから先は、私が屋敷まで案内しよう」
男の背を追って、潮風の中を小走りで向かう。
入り組んだ路地を抜けて、建物の角を幾度も曲がった。
とても地図を辿っていては、辿り着けないだろうとユキは思う。
そして持っていたはずの地図を見ようとして、いつの間にか失くしてしまっていることに気づいた。
いつ、手を離れたのだろう。
ユキがそれに頭を悩ませている間にも、随分と進んでいたらしい。
見覚えのない場所。
風が、絶えず吹き抜けて。
ユキの長い髪を、ふわりふわりと舞い上げていく。
海と山の香りが交互に入り混じる、不思議な通りに入って二つ目の角。
周囲から見ても、とても立派な屋敷の門。
思わず気後れするユキの様子など気にする素振りもなく、案内の男は屋敷の門を潜ってどんどん先へと進んでゆく。
戸惑いは消えないものの、それを追ってユキも屋敷の門を潜った。
「もうじき、主人も戻って来る。それまでここで待っていてもらえるか?」
絢爛、としか言い表しようのない至る所に装飾の施されたお屋敷。
その屋敷の中央を、南から北へ真っ直ぐに続く大きな板張りの廊と左右には無数に障子戸。
いったいどれくらい、部屋数があるものか。
ユキは絶えず、周囲を見渡しながらそこまで案内されてきたのだが。
正直なところ、全くもって考えが追い付かない。
自分がいま屋敷のどのあたりにいるのかさえ、見当もつかない有様で。
待つほかに、いったい今の自分に何ができるだろう。
呆然とした面持ちのまま、見上げて頷く。
それを見た若い男も、ややあってその心境に思い至ったのだろう。
「それほど、気を張らずとも良い。君はこの屋敷に正式に招かれた客人でもあるのだから。例え、その仕事ぶりが主人の気に召すことがなかったとしても罰など与えぬ。……まぁ。君が本来の仕事ぶりを発揮すればそれは杞憂だろう」
安心させようと掛けられた言葉らしかったが、実際のところユキが『正式な客人』と称されたあたりから更に縮こまってしまうあたり、逆効果だったのかもしれない。
とはいえ、更に若い男が言葉をつづける前には。
文字通り、状況はさらにユキを混乱させることになるのだから。
往々にして、現実とは儘ならないものだ。
「――桜!! 桜はおるか?! 今日、客人が来ることをどうして出かける前に伝えておかんのじゃ?!」
雄叫びと称せそうな、大音声とともに開け放たれた障子の向こう。
仁王立ちした人物に、ユキは思わず呆気にとられてしまった。
「いつまでも幼名で名を呼ぶのは止めてほしいと、再三にわたってお願いしているでしょう。補足がてら……主。客人の前ですから、まずはその声量を落として頂きたい」
「おぉ、それはいかんの。控えめに、だったな?」
「……ええ、まあ。……ただ、既に取り繕ったところで遅いだろうとは思いますが」
半ば呆然とした面持ちをしていたユキ。
次第に状況が飲み込めてきた。
どうやら、依頼主というのが目の前に現れ、今もまだ仁王立ちを崩さぬ年端もゆかぬような可愛らしい少女であるということ。
そして、自分がいまだに挨拶を出来ずに固まったまま見上げていたという非礼にも。
慌てて居住まいを正し、姿勢を崩さぬよう心を叱咤しつつ、一礼した。
「お初にお目にかかります。ユキと申します。この屋敷の主様とお見受けいたしました。期待に添える織をお渡しできるよう、誠心誠意勤めさせていただきます」
よろしくお願いいたします、と最後に添えてもう一礼したところで。
パタパタとすぐ傍に駆け寄って来る足音と共に、肩に触れた手。
促されるように、顔を挙げればこの上なく嬉しそうな笑顔があった。
「ユキ、人の子よ。そなたをこの屋敷にいる全員が歓迎しておる。……ふふ。不思議そうな顔をしておるな。無理もない」
「……主。どうしてあなたという方は、どうして、いつもいつも……」
「許せ、桜。初めから隠し立てするのは、性に合わんのじゃ」
『人の子』と呼びかけられた時点で、ユキは違和感を覚えていた。
続く二人の会話に、更にそれを深めていく。
それでも、こちらから口を挟むのを躊躇ってしまう。
無理もない。
そしてそんなユキの心境を、承知していると言わんばかりに肩に触れた手で、ポンポンと叩きながら。
屋敷の主は、さらりと言った。
「わたしはね、人ではないイキモノなのだよ。俗にいう、人外ということになろうか……桜、より具体的に言うならば『何』が適切かの?」
「主……。いえ、もういいです。あなたという方に期待した私が悪い」
「ひどい言い草だの」
「事実ですから」
ぽんぽんと会話を交わす、主と侍従。
そんな彼らを、果たしてどんな顔をして見上げていいのかすら分からない。
何はともあれ。
どうやらユキは、知らぬ間にとんでもない屋敷へ足を踏み入れていたようだ。
騒がしくも、暖かい。
そんな屋敷における生活の始まりとなった。
「巷では、白蛇屋敷などと呼ばれているようだよ。ふふ。言い得てして妙ではないか。見た目だけなら、龍も大蛇も似たような部類だからの」
「……極論ですよ、主。それにユキがどう相槌を打ったものか悩んでいるではないですか。もっと周りの反応というものを気にして頂きたい」
「おお……すまなんだ、ユキ。よいよい、気にせず作業しておくれ」
ユキは屋敷で、二日目の朝を迎えていた。
混乱を隠せずに、ただ事実を飲み込もうと必死であった前日に比べれば。
採寸用の定規を片手に、固まるくらいで済んでいるのだ。
人の中では割合と、柔軟な思考の持ち主だと。
屋敷の他の人外たちからも、そうお墨付きを頂いている。
曰く。
この白蛇屋敷には、様々なモノたちがいる。
ユキを除けば、皆が皆『人外』のイキモノだと。
屋敷の主はそう説明した。
もちろん、戸惑いはあった。
ユキが幼い頃、銀に語ってもらった話の中でも。
『人外』と呼ばれるものは一様に、人に害を及ぼすものだった。
常であれば、忌避もしただろう。
けれども、こうして招かれて。
そうして、間近で見合ってみれば。
不思議と、穏やかな気持ちで耳を傾けることができている。
当人は知らないことであるが。
ユキは聡い娘だと、下ノ村の男衆は度々零していた。
事実、幼い頃から周囲に目を配って生きる術を身に着けていたユキ。
相手が自分に対し、害する意思を持つか否か。
場合によっては一目でそれを判断することが出来る。
ユキは一日目で、二人を含め屋敷の人外たちと顔を合わせた。
言葉を交わし、その日の夜には判断している。
屋敷にいる人外たちが、自分を迎えてくれた意思。
そこに、自分を害する気持ちは感じられない。
それがユキの下した結論だ。
翌朝。
ユキは、当初の予定通りに仕事を引き受けることを告げる。
それが先刻のことだ。
二日目の朝を迎えて、再び面会に行った先で屋敷の主とその傍らに控える若い男はホッとした様子で肩を撫で下ろしていた。
「我々は、俗にいう『龍』の末裔といえば良いのか……何しろ、明確な分類が画一されておらんのでな。曖昧で申し訳ない」
側頭を掻きながら、困った様子を隠す気もないらしい。
屋敷に留まってもらえて非常に有り難いぞ、と。
て、て、てと歩み寄ってきて嬉しそうに破顔するものだから。
思わずユキも、嬉しくて微笑んだ。
「そうそう、笑っておくれ。そなたが笑ってくれると我らもうれしい」
屋敷に来て、ようやくユキが気負いなく見せた笑み。
それを見て、屋敷の主は、より一層顔を綻ばせていた。
屋敷に来て、三日目。
ユキは頭を悩ませていた。
屋敷の主を一目見た時から『とある色彩』が浮かんで仕方がない。
その色彩とは、紅や緑、黄色などの基本色とは異なるもので。
たとえるなら、曖昧で限りなく景色に近かった。
それは、花の色。
朝露をまとう、秋の庭の蛍草のように淡く。
透き通るような、青の花びら。
単色では、とても表現できない。
そう考えたユキは早速、染め色の探索に取り掛かった。
普段は山間を歩き回り、季節ごとに適した染織をしている。
今回は、広大な屋敷の庭と裏山を中心に歩き回った。
最終的に、足が棒のようになるくらいまで歩きつくしたユキ。
その手には、屋敷の面々が思わず目を瞠るほど。
沢山の生葉を抱えて戻った。
試行錯誤の末、絹糸を夏の澄んだ空のように美しい藍色に染め上げた後は。
それを機で織る。
合間に銀糸を入れつつ、一枚の布地を織り上げるまでには数日を要した。
「見事なものですねぇ……」
「見事なものだのぉ……」
そうして、一枚の織が出来上がった。
ユキがそれを持って屋敷の主のもとへ行くと。
居合わせていた桜共々、ユキの織った布地に感嘆の溜息をこぼしている。
「大切にするの、ユキ」
屋敷の主は布地に頬を寄せて、微笑んだ。
そう言って喜んでもらえることが、ユキにとっては何より嬉しい。
改めて桜からの要望もあり、色違いの布地を織ることになった。
穏やかで、遣り甲斐に満ちた日々。
山を出て、今に至るまで。
それが決して、無駄ではなかったのだと。
いつしか、自然な気持ちで思えるようになった。
優しい日々。
おおらかな人外たちとの、得難い日々はあっという間に過ぎ去っていく。
気が付けば、屋敷を訪ねて十日目を迎えた。
朝日に、四枚目の布地を透かせて寂しげに笑うユキ。
吐いた息が、白く染まる。
冬が近づいているのだ。
染織用の素材も、手に入りにくくなる。
この屋敷で、おそらくこれが最後に渡せる織。
広げた色彩は、まるで紫雲のたなびく雪山のよう。
丁寧に畳んだ織を、左手に。
ささやかな自分の荷物を纏めて、右手に持って屋敷の主のもとへと向かった。
「残念じゃ。本当はずっとここにいて欲しい。……のぉ、桜」
「全くです。ですが……ユキにはユキの生活があるのですよ、主様。我々にそれを奪う権利はありません」
最後の織を渡し、暇を告げたユキ。
屋敷の主と桜の二人は、ユキとの別れを惜しんでいた。
ユキの織る、濃淡の美しい織。
それは人ならぬ人外さえも魅了する、希少なものだ。
けれども二人がユキを引き留めるのは、ただそれだけではない。
それだけでは、もう無い。
共に過ごす日々は、それより遥かに大切なものを織り上げていた。
縦糸と横糸が折り重なるようにして。
本来、交差するはずのない。
人間の娘と人外たちが、心を通い合わせた。
ユキもまた、気持ちは同じ。
両目から零れ落ちそうになる滴を必死にこらえていた。
そんなユキに、屋敷の主が泣き笑いのようにして告げた一つの願い。
翌年の夏、再び白蛇屋敷へ招待したいという。
それはユキにとっても、大切な約束になった。
ユキはその言葉を胸に、十日間を過ごした白蛇屋敷を後にした。
晴れた空を見上げながら、桜屋へ戻るユキ。
桟橋までは桜に付き添ってもらい、そこからは一人で道を辿っていた。
その合間に、少なからず感じていた違和感。
それは桜屋の暖簾を前にした時に、見過ごせない事実となってユキを襲う。
手に持っていた包みが、足元へ散らばる。
桜屋の暖簾を潜り、現れた男。
それは顔見知りだった。
ただし、ユキが知る男とは様子が違う。
男は、驚愕の面持ちでこう叫んだ。
「おい、お前さん……まさか十年前に行方知れずになったユキじゃないか?!」
ユキは全くその姿を、変えていない。
それもその筈、ユキからすれば桜屋を出たのは十日前のことである。
しかし、ユキの考えが及ばぬこの世の理は。
向こうでは、十日。
されど此方では、十年。
時の流れは、もはや取り戻せないほど過ぎ去ってしまった後だった。
ユキが白蛇屋敷で過ごしていた頃。
店を出たきり、戻らぬユキの安否を店の者たちは憂慮し続けていたという。
そうこうしている内に一年が過ぎ、二年が過ぎ。
ようやく、ユキが戻った今日。
既に、十年もの歳月が流れたのだと。
同じ使用人仲間であり、現在は桜屋の番頭を勤めているという男はそう語った。
呆然としたままのユキも、次第に状況に考えが及ぶようになる。
そして気付いた。
男が、無事に戻って良かったと言いながらも。
その目には明らかな、畏怖が籠っている。
無理もない。
理由は明らかに、ユキの容姿が十年前と変わらぬ点にあった。
人の口に、戸は立てられぬ。
ユキと共に働いていた人々は、それでもユキを庇った。
ただ、面識のない者たちが畏怖や疑念を抱かずにいられたかと言えば。
それは無理な話だ。
桜屋へ戻って、二日目の朝。
町の役人たちがやって来て、ユキの所在を問うた。
店の奥で知らせを受けたユキは、事態を察して店先へ出た。
「素性の知れぬ不審な娘がいると、報せがあった。事情を聴かなければならぬ。評定所まで同行を」
ユキは、黙ってそれに従った。
もう、ここへは戻れぬことを知っていた。
ユキは最後に店を振り返り、一礼する。
桜屋の主人はすでに他界しており。
ユキを表立って庇う者は、もう桜屋にはいなかった。
ユキは役人たちから、子細を話すように求められた。
だがしかし、ユキは決して語らない。
元より、語ったところで理解が得られる希望もない。
けれどもそれ以上に、白蛇屋敷の人外たちを万一にも危険にさらすような真似を犯せるはずもない。
ユキは、彼らが好きだ。
初めて迎え入れられた日から、ずっと感謝の思いは絶えない。
彼らは一貫して、ユキを丁重にもてなしてくれた。
数えきれないくらいの気遣いを受けたばかりか。
彼らは決して、偽らなかった。
ユキを、信頼してくれた。
だから、誠意には誠意を持ち続けたい。
ユキの意思は変わらず、それは沈黙という形で示された。
冷たい土の壁を、指先でなぞる。
ぽろぽろと零れ落ちる砂粒は、いつしか湿り気を帯びていく。
声に出さず、ユキは静かに泣いていた。
恨みはない。
それはもちろん、何れに対しても。
誰かを恨めたなら、むしろその方が楽だったかもしれない。
今はただ、寂しい。
ユキは、孤独に押潰れそうだった。
祖父の銀を喪い、続けて祖母のトキを亡くしたあの時以上に。
十年分の喪失感が押し寄せているかのよう。
止まらない涙が、ユキの頬を濡らした。
どれくらい過ぎたものか、ユキには分からなかった。
ぱたぱた、と。
ユキが入れられた地下の牢へ足早に近づいてくる音があった。
かちゃり、と。
牢の錠が上がる音がして、ゆるゆると視線を上げたユキ。
そんなユキを覗き込むように、面識のない男が立っていた。
ただ、何故だろうか。
ユキはその男の面差しに、親しみに似た気持ちを覚えた。
それは、男が言った言葉でユキ自身が納得することになる。
「……ユキ、君なんだね? 覚えていないだろうけれど、僕は君を知っている。梅蔵は僕の父だよ」
「……梅蔵さんの、息子さん?」
「そうだよ。本当なら、もっとゆっくり話したかった。でも、僕の力では出来ることに限りがある。……ユキ、聞いて。ここから出るには、今しかない。評定所のお偉方が、都の貴族へ君を献上する話を始めている」
梅蔵の息子、辰巳の助力によってユキは牢を出た。
辰巳は自らの危険も顧みず、脱出の手はずを整えてくれていた。
宵闇に紛れて山間へと逃げ込み、人目につかぬ道を案内してくれた少年へ礼を言う。
「ありがとう。君も、早く安全なところへ戻って」
「……でもお姉さん、行くところが無いんじゃないの?」
不安そうに見上げてくる少年に、ユキは一瞬言葉を詰まらせた。
そう、行くところはもう失くしてしまった。
それでも、もう誰も巻き込むまい。
息をすうっと吸い込んだ後。
ユキは静かに言った。
「私は山の家に戻るよ。その後のことは、朝を待って考える」
だからもう、大丈夫と。
ユキの言葉を、少年が心から信じたとは思わない。
それでも、背を向けて駆けていった少年を見送って。
ユキは、ほっとして息を零す。
手足の感覚と、僅かな記憶を頼りにユキは山を登った。
夜の山は、獣の領分だ。
周囲に耳をそばだてながら、ユキはひたすらに山を登る。
怖いのは、本当。
指先が震えるのは、寒さだけが理由ではなく。
それでももう、二度と山を下ることは無い。
だから、登る。
振り返ることなく、ユキは真っ直ぐに屋を目指した。
下ノ村を迂回するように登った為、空がうっすら開け始めた頃になってしまった。
古い屋は、十年の年月で荒れ果てていた。
祖父母と共に暮らしていた頃の名残は、もう見出すことさえ難しい。
ユキは屋の周りをゆっくりと歩いた後に、明けた空を見上げる。
まるで、透き通るような空。
ユキは、最後に行く場所をもう決めていた。
屋から東へ、登った先に青々と水面をたたえる泉が一つ。
いつも辛い時には、この泉の傍で泣いた。
居場所を失くしてしまったユキに最後に残されていた場所。
それは、荒れ果てた屋とこの泉だけだった。
山を登って来る間に、ユキはその手に一枚の生葉を摘んでいた。
少なくともそれは、染織用に使われるものではない。
ユキには、わからない。
どこから、何を間違えてしまったのか。
それとも、何がということではなく。
ただ、因果がここへ導いたのか。
分からずに、泉の際で見上げた空はどこまでも美しく。
薄紫の空から、いつしか、ひらひらと舞い落ちてくる。
白い花弁のような、雪。
真っ白な雪の一片が、ユキの肌に触れて溶けていく。
その冷たさに、束の間目を閉じて。
そして大切な人たちを、浮かべた。
祖父母の、銀とトキ。
桜屋の主人。
今は亡き、人達。
下ノ村の梅蔵には、大きな恩がある。
一目、会っておきたかった。
その息子の辰巳と、名もなき少年。
本当はきちんと、お礼を言いたかった。
本当はまだ、生きていたい。
けれども居場所を失った今は、もう。
他に選べる道もない。
手の上に、鮮やかな緑。
もう片方の手で、泉の水を掬い上げた。
「……約束を、守れないこと。どうか」
どうか、赦して下さい。風花さま。
ユキはそう、呟いた後。
毒の葉を口に含み、泉の水で流し込んだ。
遠くから、声が響く。
いつしか、意識を手放していたらしいユキがゆるゆると瞼を開くと。
そこには、今まで見たことがない姿のイキモノがいた。
鱗は、水に濡れてぬらぬらと輝いていて。
透き通る青の双眼から、ユキの頬へ滴り落ちているのは涙だろうか。
それは見上げるほど大きく、見事な白銀の龍だ。
そしてその龍の傍らに立つ、若い男。
それは桜だった。
ユキはその瞬間に、この龍こそが屋敷の主であることを知った。
紛れもない、本来の姿。
ゆっくりと伸ばした手のひらが、龍の鱗へ触れたと同時。
身震いしたかと思えば、鱗は掻き消えてゆき。
そこに立っていたのは、よく見知った方の姿だ。
「ユキ、そなたは馬鹿じゃ。大ばか者じゃ。……だが、我らはそれ以上に愚かだった。許しておくれ、ユキ。そなたの生活を奪ってしもうた……」
美しい女童の姿で、地に伏そうとした屋敷の主。
慌てて起き上がるも、毒の葉の影響からか。
ふらついた体で、それを見ていることしかできない。
「私も同罪です。向こうとこちらでは時が大きく異なることを、失念していたのですから。結果として、ここまで君を追いつめてしまった」
主の傍らで、そう言って膝をつくのは桜だ。
暫く何も言葉にならなかったユキだったが。
こうして、再び会えたことを思えば。
なぜだろう。
とても心の奥が、暖かく。
もうとっくに、枯れ果てたと思っていたのに。
頬を伝い落ちる暖かさに、ユキは自分がまだ生きていることを知る。
まだ自分は、生きていていいのだと。
言葉にしてもらったわけではないのに、それを知った。
二つ分の暖かさに、寄り添い合うようにしてユキは泣いた。
屋敷の主もまだ泣いていたため、二つ分の泣き声が山間を渡って響いたことだろう。
暫くして、泣き止んだユキに屋敷の主が手を差し伸べる。
その手に掴まって、立ち上がったユキ。
今更ながら、どうして死なずに済んだのか疑問に思って首を傾げた。
まるでそれを、待っていたように。
おもむろに胸を張った、屋敷の主。
それを苦笑いで見下ろす桜が、代わりにこう言った。
「主が、体内の毒素を浄化したのです。ユキが泉の傍で主の名を口にしたので、それを頼りに水系を辿りました。ユキがあの時呼ばなければ、私たちもきっと間に合わなかった。……本当に、間に合ってよかった」
それを聞いて、ユキは性懲りもなく再び泣きそうにもなった。
つまり、彼らはユキのことを探してくれていたのだ。
早々に望みを絶ち、死を願った自分の浅はかさに。
ユキは、今更ながら気付いた。
あのまま死んでいたら、きっと自分は気付けないままだっただろう。
謝ろうと思った。
けれども、口について出てきた言葉は。
どうやら二人の表情を見た時に、入れ替わってしまったらしい。
「ありがとう。……私を、助けてくれてありがとうございます」
分からずにいたことが、今はほんの少しずつでも分かりかけてきた。
自分が手放そうとして、辛うじて繋ぎ止めたもの。
二人が来てくれたから、ユキはそれに気付けた。
「主様……風花さま。一生懸命働きます。だから、私を白蛇屋敷で雇ってはいただけないでしょうか?」
ユキはもう、迷わない。
それは大切なものに気付けたからだ。
「無論だ。ユキ、これから共に生きよう。……ふふ、本当はわたしからいうつもりであったのに。ユキは何やら逞しくなったの」
「そうですね」
「よし。こんな素晴らしき日に、暗い水脈を通って帰るのは野暮だの」
「ええ、主。ようやく空気を読めるようになって、従者としても鼻が高いですよ」
「ふふ、そうかそうか。どうやらわたしも知らぬ間に成長したようだの」
何やら、普段に比べて穏やかなやり取りをしている主と侍従であった。
それは、深い山間の森から飛び立って。
雪の舞う青い空を、ぐんぐん上へと伸び上って弧を描いた。
下ノ村の子供たちが、目を丸くして空を見上げている。
男衆に支えられ、村の長老である梅蔵が何事かと出て来たところ。
子供たちの歓声の先に、それを見た。
青い空に、銀色の虹がかかっている。
七色の彩ではなくとも、それは煌びやかに空を彩っていた。
なぜだろうか。
梅蔵はそれを見た時に、心の底から暖かなものが溢れてくるのを感じた。
周囲の男衆が、あれは本当に虹なのかと口々に言い合っている合間も。
その美しい銀の虹が消えるまで、梅蔵はただひたすらに空を見上げ続けていた。