闇に紛れた襲撃
そして、異変はセシル君を迎え入れた日の夜に起きました。
客人という名目で、実際には保護ですが、セシル君をおうちに泊める事になったのです。まあ客室を貸す訳ですよ。あ、セシル君はルビィになつかれてたじたじでした、戸惑うセシル君は可愛かったと記しておきますね。
そして、私を含めて寝静まった頃に、私にはっきりと分かる形で異変が訪れたのです。
眠りの浅い時に体を触られたり揺さぶられたりすると、私は起きてしまいます。特に、父様が不安であまり寝る気にならなかった今夜は。
「……ん、……」
背中にあった筈の、ベッドのふかふか感が消え去って、代わりに固い二つの何かが私の背に当てられる。誰かが掌を背中に触れさせているような、そんな感覚がして、私はぼんやりと重たい瞼を開けました。
室内はサイドチェストにあるランプの僅かな光だけ、それでもベッドの周囲にある暗闇を晴らすのには充分な光源です。付けっぱなしで寝ていたのですが、寝起きの私には、少し眩しい。
ごしごしと手の甲で瞼を擦って背中の感覚の正体を確かめようとして、……首筋に当てられた金属に気付きます。前にも当てられた事があり、これから当てられる事はないと信じていた、それ。
「騒ぐな。騒いだら殺すよ」
そしてある意味予想通りというか、テンプレートのような台詞が耳に届きました。
流石に何が起こったのかは、一瞬で理解しました。寝る前に父様の事ばかり考えていたからかもしれません。
多分、私人質にされる流れだこれ。
セシル君に聞いた所、反乱軍は不利な状況らしいです。幾ら扇動しているのが魔導院のトップとはいえ、反乱に加わる人間は多くはない。当たり前ですが、現状に不満がない人はそんな企みには乗らないからです。
私から見れば陛下は賢王と呼ばれてもおかしくはないくらいに、政策はまともだし改革にも余念はない。城仕えの人間の待遇も良い。平民の事を考えて政策を打ち出しています。
他国に対する問題でも友好的な態度を崩さないし、あまり表だって敵対する国もない。実に平和な国なのです。
そんな陛下に反感を抱くのは、特権階級である貴族の中でも差別意識の強い人か、戦争を起こし資源を独り占めしたり利益を出したい人です。勝てば全てを得られますし、経済は回りますからね。その分自国も消費はしますが。
正直、戦争したいなら一人でやってろって感じですが。
此処で騒ぐのは得策ではないので唇を閉ざす私に、私を誘拐しに来た男性は表情を変えずに私の手首を縛ります。まあナイフが首にあったら抵抗に困るし。頸動脈切られるとちょっと私も治せないので。
……ふと男性を見上げると、何処かで見た事のある顔。……ぞ、と一気に粟立つ背筋。
バンダナのようなもので口許は隠していますが、前に見て、そして二度と見たくないと思った顔。隠れている筈の唇が、ニタリと粘着質な笑みを浮かべたように、見えました。
「久し振りだねえ、リズベット嬢」
「……あなたも反乱に加担していたのですね」
私がかつて打ち負かしたエメンタール伯爵子息は、私の言葉に目元を緩めました。答えはしないものの、それは肯定にしか受け取れない表情です。
確かに、彼には反乱軍に加わるだけの理由はある。私との決闘の後、彼の家は没落しかけていますから。
決闘という理由もありますが、そもそもエメンタール伯爵自体が金遣いも荒かったのです。
そこに決闘で跡取りが幼女に負けた、更には誘拐事件の組織との癒着があったなどスキャンダル勃発で、まあ没落の道を辿り始めた訳です。半分以上自業自得と言えますが、それをこの人に言っても仕方ない。逆上するでしょう。
「どうやって私の部屋まで忍び込んだのですか。警備が居た筈」
「外に仲間が居るし、警備も手薄だったからねえ」
父様も反乱を抑えに行ったし、腕利きの巡回兵さんも連れていったのでしょう。あの人達は魔術も出来ますし、剣も出来るとても優秀な人達なので。
でもそれが、仇になってしまった。
「……悪いけど、人質になって貰うよ。抵抗しなければ命までは取らないさ、まあ……他の物は貰うけども」
ぞくり、と物凄い悪寒。やだ、気持ち悪い。何をされるか想像がつくから、余計に気持ち悪い。
私は人質だけど、別に綺麗で無事なままでいさせる必要はない。五体満足でなくても、極論は良い訳です。でもこの人が貰うのは、手足とかそんな物じゃない。
触られている場所が気持ち悪くて震える私に、伯爵子息は口許のバンダナを下ろして、私の首筋に舌を這わせます。べとついた液体が、熱のこもり過ぎた吐息が、肌に擦り付ける舌が、とても、気持ち悪い。
生理的に駄目。嫌いとか生半可なものじゃなくて、最も嫌悪する不快感が、肌をなぞる。片手にナイフがなかったら思い切り魔術で凍らせてやるのに、抵抗したら危ないから何も出来ない。
やだ、気持ち悪い。助けて、父様、ジル。
「……はは、やっぱり魔術さえなければただの女の子だねえ」
根に持っているのか、それともただ私に執着しているのか。恐らくそのどちらもでしょう。
体を小刻みに揺らす私に満足そうな笑みを浮かべた伯爵子息は、私を俵担ぎにして、開け放たれた窓に脚をかける。
部屋は二階、風の魔術で緩和すれば飛び降りても問題はない高さでしょう。来る時も此処から侵入したみたいですね、外で二人程暗闇に紛れて立っていますから。
今はナイフが首元にはない、抵抗するなら今しかないでしょう。
「……ああ、抵抗しないでね。君の弟がどうなっても良いのなら」
「な、」
「先に連れているよ、ほら」
闇に紛れた人は、よく見れば燃えるような赤色の髪をした幼子を担いでいました。
……私だけ、じゃなくて、ルビィまで。確かに父様への人質としては、これ以上になく有効でしょう。
「……ルビィには、何もしないで……っ」
「大人しくしてくれたら考えてあげるよ」
ニタニタと優越感と征服欲の混じった笑みで、私の臀部を撫でながら言う伯爵子息。おぞましい男ですが、私は抵抗してはならない。私が逆らったら、ルビィが。
「っリズ様!」
「おっと、面倒臭いのが来たね」
きゅっと固く目を閉じる私の耳に、聞き慣れた声が届きます。切羽詰まったような焦りの隠せない声なのに、聞くだけで何だか涙が出てきそうでした。
縛られ担がれたまま、出来る限り体を捻って振り返ると、息を荒げたジルが出入り口に立って伯爵子息を睨み付けていました。夜着のまま、でもその夜着は端が切れていたり焼け焦げている。ジルも足留めで襲われたのでしょう、息が荒いのもそのせい。
「リズ様を離せ」
「そうはいかないね。おっと、私に魔術を打つなら彼女を盾にするよ。それともこうした方が良いかい?」
片手で担いだまま、ナイフを首筋に突き付ける伯爵子息。ジルの表情は凍り付いていました。瞳だけは、鋭く細められぎらぎらと殺意が輝いています。
「外には弟君も居る。此処で手出ししたらどうなるか分かるね?」
……卑怯だ、と口の中で、呟く。
そんな事を言えば、絶対にジルは手出し出来ない。私を傷付ける事を厭う彼は、私に命の危険があるなら、それを回避しようとする。
ああほら、血が出そうなくらいに唇を噛み締めて、憎悪の宿る瞳で伯爵子息を睨み付けている。どうしようもないという事は分かってますから、ジルは悪くないのに。
「……さて、手出ししたらどうなるか分かったなら、私は行かせて貰うよ。君の大切なお姫様は、私が頂く」
口調こそ気取っていますが、口許は下卑た笑み。
ジルの顔が、無表情になっていました。怒りを通り越した何か、そんな顔。人質が居なければジルはこの人を八つ裂きにしかねません。寝る前に外し忘れた指輪から、黒い感情が伝わって来ました。
自分に手出し出来ないと確信したのか、伯爵子息は口の端を吊り上げて鼻を鳴らす。それから、私を抱えて窓から飛び降りました。
個人的には精度のない風の魔術、でも二階程度なら平気だったらしく、伯爵子息はちょっと体勢を崩しながらも着地して、お仲間さんの所に駆け寄ります。
お仲間さんは、寝ている……いえ、気を失わせたルビィを担いでいました。かっと内側で怒りを孕んだ魔力が滾りますが、必死に抑えます。……今は、まだ駄目。勝機を窺わなくては。
『……ジル、待ってるから。私も、頑張る』
指輪に思いを乗せた私は、闇の中に姿を引き込まれました。




