けじめ
父様には、真っ向から自分の意見を言った。
初めての反抗。初めての対立。
けれど、私に後悔はありません。私の心からの願いを聞いて欲しかったから、たとえ許されなくても知っていて欲しかったから。
結果として頷かれる事はありませんでしたが、拒まれもしませんでした。ただ、自分を越えてみせろと、ジルに激励にも似た挑発を送ったのです。父様も、ジルの強さと熱意は認めているのです。
ジルは、それから更に鍛練に励むようになりました。私と触れ合うのもそこそこに、まずは自らを高めると仕事をしつつの自己研鑽。揺るぎない決意と熱意には、私も驚かされるばかりです。
ジルが頑張るならば、私も努力しないとならないし、私は私でする事がある。今まで逃げ続けてきた全てに、けじめをつけないとならない。私だけが甘え続けるなんて出来ません。
たとえ自分が傷付こうと、相手が傷付くと分かっていても、この答えだけは出さなくてはならないから。
「殿下」
城の一室。
実用性を重視する魔導院よりも遥かにきらびやかな内装が施された、来客用の部屋。絢爛な調度品には興味など一切惹かれず、奥の窓から外を眺めている美丈夫に視線は吸い寄せられていました。
憂いるような表情で城下町を眺める瞳は、少しだけ憧憬を孕んでいて。横顔だけでも分かる麗しさ、けれど、それがとても寂しそうなものに見えてしまって、罪悪感があります。まだ何も言っていないけれど、きっと……見抜かれている、気がするのです。
呼び掛けに殿下は此方に視線を向け、静かに微笑みます。あどけなさのすっかり抜け落ちた、大人の男性の顔。きっと世の中の令嬢は見惚れてしまうでしょう。
「リズ、よく来てくれたな。答えを聞かせに来てくれたのか?」
全てお見通し。書簡でお願いしてあったとはいえ、私が自ら王族の居住区へ来るなどこれしかないと分かりきっているのでしょう。そしてそれは間違ってはいません。
澄んだ青い眼差しに見詰められる事は、少しだけ怖い。全て見透かされそうで。
けれど臆している訳にもいきません、ジルが覚悟をし以てして父様に宣戦布告をしたのです。私もまた、自らの出した結論を彼に伝えなければなりません。
「……殿下、婚約の件ですが」
「リズ、一つ聞いても良いか?」
「え?」
深呼吸をして答えを口にしようとしたところ、遮るように殿下は問い掛けを被せて来ます。きょと、と目を瞠って戸惑う私に、殿下は歩み寄ってくる。
濁りのない碧眼は、少しだけ伏せられて。それでも私を穏やかに見詰めていました。
「責めるつもりは一切ない、それは理解してくれ。……何故、私ではなく従者を選んだのだ。私の何処が、駄目だった」
……ああ、やっぱり、気付いていたのでしょう。私の気持ちは、殿下には向いていない事を。何処か達観したような眼差しが、それでいて縋るような眼差しが、私を捉えています。
こみ上げる罪悪感、それを堪え、私も毅然とした態度で殿下の瞳を真っ直ぐに見つめ返します。逃げてはならない、彼も覚悟を決めているのだから、私から背中を向けてどうするのですか。
「……何処が駄目だとか、そんな烏滸がましいものではありません。私は、ジルでないと嫌なのです。ジルの事が好きだから。……我が儘は承知の上です」
本来ならば、有り得ないのでしょう。王族の求婚を断り、暗殺未遂をした従者を選ぶなど。
貴族としての正しさならば勿論前者を選ぶべきだと分かりますし、私は今すぐにでも非礼を詫び彼の求婚を受け入れるべきなのでしょう。アデルシャンにも迷惑がかかるかもしれないのに、私は我が儘を通そうとしているのです。
「……身分違いだと知ってもか? 貴族とは言え、名誉爵位を得ただけ。それでもか?」
「ええ。……私はジルが従者のままでも、庶民になったとしても、彼を選びます。逆にジルも私が庶民になっても、勘当されても、私を選んでくれます。私がアデルシャンでなくなっても、私はジルが良い」
「……何処が好きなのだ」
「分かりません、全て好きだもの。嫌なところや直して欲しいところもありますけど、そこを引っ括めてジルが好きだから」
でも……この思いだけは、譲れません。
私はジルが好きです。優しい所も、甘い所も、強い所も、執着心が強い所も、過保護な所も、料理ベタな所も。ジルに欠点がない訳ではありません、けれど、私はそれを含めてジルを愛しています。たとえ殿下が何を言おうとも、この気持ちだけは、譲れない。
胸に手を当て奥に宿る気持ちを再確認し微笑む私に殿下は息を飲み、それから眉をほんのり下げて深い吐息。困ったような笑顔は、少しだけ歪んでいて。それが泣きそうに震えていると分かるから、より一層私の罪悪感は募ります。
私が悪いの。責めてくれても良いのに、殿下はただ長い睫毛を伏せて悄然とした面持ち。それでも私を恨んだり怒ったりする気配はない。
「……これで私が駄々をこねたら、リズは我が儘だと言うか?」
「いいえ。……私に制限など出来ません。寧ろ責められるのは私の方なのですから」
責めてと言っても、きっと彼は責めてはくれません。優しくて、賢いから。責めれば私は罪に問われると分かっていて、彼は何も言わないのです。私はそれに甘えているだけ。卑怯者なのは、私。
「……私が最初に出会ったのにな。ずるい」
暫くの無言の後に呟かれた言葉は、王族の立場としてではなく、殿下……ユーリス様としての、本音。
「……ごめんなさい」
「まあ私に魅力がなかったのが悪かったのだな、こればかりはリズを責められまい」
「違う、そんな訳では」
「良い、結果が全てだ。……本気だったんだ、ずっと好きだったんだ」
「……ごめん、なさい」
私が、私が最初からはっきりさせておけば、殿下にこんな顔をさせずに済んだのに。私が傷付く事を恐れて誤魔化し続けてきた、そのツケが今全て襲い掛かっているのです。
私よりも、殿下の方が辛い。それは分かっていても、申し訳なさと自分の優柔不断さに、情けなさに、自然と涙腺が緩んでしまいました。
こんなみっともない姿、見せたくないのに。私が最後まで毅然とした態度を取らなきゃ、殿下も困るでしょうに。本当は責めたくて堪らない筈なのに。
けれど滴る涙は止まりそうになくて、俯くしかありません。ぽたぽたと柔らかな絨毯に染みが出来ていくのを眺めるしか出来ない私。
「……泣かせるつもりはなかったのだがな。私はリズを困らせてばかりだ」
「ちがっ、わたしが」
「……リズ、謝るな。リズの選択だろう」
「……っ」
柔らかく諭されて、これでは本当に私が駄々っ子のようで。
いつしか、逆転した立場。諌める側だった私は、いつしか諌められ見守られる側になっていたのです。それだけ殿下は成長していて、逆に私は幼くなった。聞いてて笑い話にもなりません。
「此処で私が権力でモノにした所で、リズは私のものにはならないだろう?」
「……ごめんなさい」
……それだけは、出来ない。
たとえ私が家と立場を慮って求婚を受け入れたとしても、私の心はきっと永遠に殿下のものにはなりません。王太子妃になったとしても、操を捧げても、心だけはジルのものなのです。もう、それだけ私の気持ちはジルに向いていて、ジルにしか愛を与えられない。
そのような未来が想像出来るからこそ、殿下は無理強いしないのでしょう。殿下は私の心が欲しいのであって、無理に手にしてしまえば余計に離れると気付いている。
殿下は優しい。だから私が悲しむのを厭います。私が泣くと分かっているから、自ら身を引く。
たとえ私の選択でも、それが彼を傷付けた事には違いなくて。
ぽろぽろ零れる涙は、いつの間にか至近距離に来た殿下の指先が掬い取っていました。目を丸くして、それでもひとりでに流れる水に殿下も苦笑。
「気にする事はない。一つ二つ手に入らない物があった方が、傲らずに済む」
私の慰めとも自分への言い聞かせとも取れる言葉に、また目頭が熱くなります。これ以上心配をかけては駄目だと手の甲で涙を拭い、潤んだ視界はそのままに殿下を見上げれば困ったように微笑んだ殿下。
「リズはそれでもまだ気にしそうだな。……そうだな、ならば……リズ、従者を呼べ」
「……え?」
唐突な言葉に目を瞬かせれば、殿下は涙を堪えつつも気丈に微笑み、それから何処かニヒルな笑みを口許に浮かべました。
「理屈で分かっていても、感情は納得出来ぬ。……私の未練を断ち切るくらいには、リズの従者は強いのだろうな?」