まだ子供
殿下が名残惜しげに(というか意地で残ろうとしてたから追い返しました)我が家を去ってから一時間後、ジルさんが帰って来ました。入れ違いの形です。
「ジルさんお帰りなさい、……どうしましたか?」
「えっ?」
玄関に現れた彼を迎えた私は、行き掛けとの表情が明らかに違う事に気付きました。浮かない顔、というか塞ぎ込んだような表現が正しいでしょうか。顔色が悪いです。城まで行く事に対する疲労が出た、という訳ではなさそうです。
年齢に見合わない翳りを帯びた眼差しに、きょとんと首を傾げてみせ。
「何か、嫌な事ありました?」
……息を吐くように、違和感の正体に探りを入れます。
多分、今のジルさんには腹芸は不可能しょうね。私の言葉に、瞳を揺らがせ驚愕を露にしているのですから。
私の言いたい事を理解したらしいジルさんは、直ぐにいつもの穏やかな微笑みに戻ります。それが急場凌ぎに取り繕った物なのだと、簡単に分かりました。あまり顔色もよくありません。
「少し叱られただけですよ、仕事の事で」
理由としては尤もな理由。でもそれだけではない気がします、私の勘ですが。
上手く嘘をつくには、嘘に真実を紛れ込ませる事です。全くの嘘をつく訳ではなく、いかに違和感なく嘘と真を調和させるか、真に隠したい事を覆うか。
……まあこれで深読みが外れてたらこっぱずかしいですが。
他人様の事情に首を突っ込む訳にもいかず、私はそうですか、とだけ返してジルさんと母様の所に向かいました。
唸り声は、その日の晩に起こりました。
幼児の貪欲な睡魔の間に目が覚めてしまい、喉の渇きを覚えたので厨房に向かって水を一飲み。まあ自分で出せなくもないですけど、わざわざ屋敷の中で魔術使う必要ないし。ってそんな事はどうでも良いです。
厨房からの帰り道。たかが家とは言いますけど、両親は腐っても貴族。いや腐ってはないですし輝かしいとは思いますが……まあ結構な距離、自室まである訳ですよ。
月明かりでは心細かったのでちょっとした光魔術を使って明かりを作り上げ、自室へ戻ろうとしたのですが……ふと、何処かから、低い音が聞こえて来ました。
地面を這うような低い音、それが唸り声だと気付いたのは、音源に近付くべく歩みを進めてからです。……や、近付きたくはなかったんですが自室もそっち側だったので。
行く時にはなかった声に、自然と背筋が震えてしまいました。
「……侵入者、な訳ない筈」
外を警護する人が気付くと思うんですけどね、結構有能な人が巡回してるし。それに父様が罠を仕掛けているので引っ掛かって御用になる確率の方が高いと思います。余程の手練れではない限り。
内心びくびくしながら自室に歩いていく私、いざとなれば魔術をぶちまけてやろうと決心していたのですが……低い唸り声が、聞こえなくなりました。
代わりに、今度は啜り泣くような声。や、まさか、幽霊とかそんなの居ないです。いや屍人とかアンデットとかうちには居ないです、居ない筈です。
「……だ、」
「……え?」
半分怯えていた私の耳に届いたのは、漸く聞き馴れて来た声。掠れた声が、僅かに廊下で震えます。
「……ジルさん?」
そう言えば私の部屋の奥の奥くらいに、ジルさんに貸している部屋があった筈。声も奥から聞こえるし、条件は一致する。
ゆっくり、足音を立てないように自室を通り過ぎ、ジルさんのお部屋へ。
ジルさんのお部屋は、無用心な事に鍵をかけていなくて扉が半開きでした。此方としては好都合なのですが、開いてなかったら聞こえてもないだろうと複雑な気分です。
悪いとは思いながらもそーっとドアの間から顔を覗かせると、ジルさんはベッドに横たわっていました。ただ、魘されているのか頻りに寝返りを打っては震えています。
……ああ、そっか。ジルさんは私の師匠のような事をしていますが、まだ、成人の儀も迎えていないし、子供と言っても過言ではないのです(私が言うなとは思いますが)。まだ子供らしくしていても良い年齢ですし、両親と過ごす時間も多くて当たり前。
でもジルさんは、詳しくは分からないですが魔導院で働いているか非常勤の役割で、こんな子供に魔術を教えていて。
私が言えた義理じゃないですが、ジルさんも、子供じゃないくらい賢くて、そして負担がかかってます。何らかの弾みで不満不安が爆発してもおかしくないでしょう。例えばそう、今日魔導院であったらしい何かを切っ掛けに、とか。
正直、私にはそれはどうしようもありません。もしかしたら、いや十中八九私がストレスの原因にもなっているでしょう。私のせい、なのでしょう。
だからって、どうしろというのでしょうか。薄情かもしれませんけど、私には彼を救う手立てがない。目の前で苦しむ人間を見て、手を差し伸べたいとは思うけれども、その方法がないのであれば近付かない方が良いと思います。半端に近付いて投げ出すより、よっぽどマシですよ。
「……いや、だ……、……たく、な……」
嫌な夢を見ているのか、魘されながら震えるジルさん。
……此所で知らん振りするのは、簡単です。何事もなかったように自室に帰れば良いでしょう。
「……た……す、けて」
ああ、もう。
私は唇を噛みながら、扉からこっそり体を滑り込ませます。
彼は、別に病人ではないし救う見込みがない訳でもない。ただ、悪夢に魘されているだけ。そして今意識はない。私がちょこっと何かしようとも、分からないでしょう。
「……ぅ……う」
魘され続けるジルさんに、そっと近寄ります。
今は簡素な衣類に身を包むジルさんは、髪をほどいているらしく長い緑髪がシーツに散らばっています。こんな状況でなければ、年齢に見合わない色気があったのでしょう。
「……多分利く筈」
こういう時、母様の子供であったのと、可愛げもなく書斎にこもりきりだった事に感謝します。治癒術の本見ていて良かった。
悪夢を取り払うなんて治癒術は流石になかったのですが、体調を回復させる事くらいなら出来ます。
病は気から、とも言いますよね、肉体と精神は密接に繋がりを持っています。どちらとも均等にバランスが保たれているなら、何も起こりません。
今回は精神の方から弱っています。それで多分今若干ですが肉体もつられかけています。小さな掌でおでこに触れると、ちょっと熱っぽい。溜まっていた疲れも嫌な方向に手助けしていたのでしょう。
「癒しを」
豊富な魔力を、間違えないように繊細な扱いをしながら術式に通していく。何て事のない、ちょっとだけ体調を整える治癒術。大怪我を直せる程じゃないんです、流石に。
ゆっくりと注ぎ込んだ魔力が術式によって癒しとなる。まあ、そんな大した事ではなく、疲労感を少し取って平熱に下げるくらいなんですけど。
ついでに、効果は期待出来ませんが魔を祓う術もかけておきます。……実はそんな大層なものじゃないです、それっぽく言っただけですごめんなさい。ちょっと魔除けってくらいな迷信信じるくらいの威力です。悪夢を退けてくれるかなと期待程度なんです。
私の出来る範囲で治癒術をかけると、ジルさんの表情が少しだけ和らぎます。何が利いたのかは分かりませんが、少しだけ楽にはなったと思います。
「……大丈夫ですよ、もう」
緩慢な動作でなるべく刺激を与えないように頭を撫で、机の上にあったハンカチを拝借して額をぬぐってあげます。あまり揺らすと起きそうなので、こんな所でしょう。
寝汗で冷えるのも良くないでしょうから、度重なる寝返りで落ちたタオルケットをジルさんにかけて、満足。うん、現段階で出来る対処療法みたいな事はしました。子供の肉体なりに頑張った頑張った。これ以上は彼の精神力に任せましょう。
「おやすみなさい」
流石に幼児の肉体は再び眠りを欲しています。
大欠伸を手で隠しながら、私は来た時と同じように部屋を出ました。……明日、日付的には今日ですが、元気になっていれば良いのですが。