そして全ては動き出した
悩まされたお陰で発生した熱も取り敢えずは下がり、肉体的には休養を取った事で元気になりました。ええ、肉体的には元気一杯です。
精神的には懊悩によって生まれた靄や羞恥の塊がしこりとなって残っているので、すっきりとはしていません。つかえとなって胸の奥に引っ掛かっています。こればかりは私の問題なので、どうしようもないのですが。
「おはようございます、体調はもう宜しいのですか?」
「ええ」
いつもと変わらず穏やかな笑みで尋ねられても、平然とした顔を装う事くらいは出来るようになりました。
顔に熱が再び昇らないように細心の注意を払いつつ平淡な声音で返事をすれば、安堵したかのように更に頬を緩めるジル。
表立って誰のせいだとは言えませんけど、薄々察しているんじゃないでしょうかねこの人は。私より何枚も上手ですから、私の葛藤と羞恥ですら見抜いていそうな気がします。
もし分かっていてこの態度なら、ジルは相当食えない男性というかある意味で質が悪いです。私の心情を慮っての事かもしれませんが。
何にせよ、これは私の勝手な推察であり想像に過ぎないのですけども。
「今日も魔導院に?」
「はい。仕事もありますから」
セシル君には一応父様伝いでお休みの連絡は入れてありますが、少しお仕事に滞りが出来てしまったのではないかなと思っています。
そりゃあセシル君は私が来るまで一人でこなして来てましたから、一人で出来るでしょうけど……最近では私も書類のお仕事も任されますし、魔道具の開発や魔術の開発にも携われるようになってきたのです。
穴を開けてしまったから進行計画が綻びたのは間違いないですし、挽回しないといけないと思うのです。ジルの事は悶々してますけど、セシル君に迷惑かけちゃ駄目ですから。
「それでは参りましょうか」
ジルがエスコートとして手を差し出してくるのは日常なのに、想いに気付いてしまった今は掌を少し重ねにくい。ジルに触れられるのは好きだと言いましたけど、それと羞恥は別問題だと思うのです。
それでも顔に出すのは負けた気分になりますしいい加減慣れないといけないので、見掛け上は躊躇いなく掌を乗せる私。ジルは柔らかく笑んで掌を包む。嬉しそうな顔をしているものだから恥ずかしくて仕方ないのですが、耐えるのです私。
ジルの事はなるべく意識しないようにするものの、やっぱり掌の感触とか微笑ましそうな表情が気になってしまいます。魔導院に向かう最中も終始穏やかな笑みで見守られるから、羞恥がどんどん積もるものの何とか顔に出さずには済みました。
魔導院にさえ到着してしまえば、ジルは研究室配属と言うより父様直下に居るので、父様からお仕事を貰ってます。ジルは研究より実戦向きですし、取り締まりとか父様の手伝いとかその辺りのお仕事をしているみたいですね。そのお仕事をこなした上で暇さえあれば鍛練に励んでいるのだから末恐ろしい。
セシル君にはお仕事に穴を開けてしまった事を謝り、それからいつものようにお仕事開始です。熱を出した理由までは言ってなかったので心配されたものの、平気だと言い張ったら諦めたらしく普段通りのお仕事をくれました。
平然を装っているものの私の態度がちょっと違うのが分かったらしく凄く訝られましたが、私が何も言わないのでセシル君も深くは追及して来ません。
そういう所はセシル君空気読んでくれて助かります。追及されてしまえば何かしら私がボロを出してしまうので。
そんな毎日が、続きました。
表面上では何事もなく平和、ただ私の心の中だけが常にさざ波が立っている状態。あれから何の進展もジルからのアプローチもなく、ただいつものように触れて会話して時間が過ぎていく。私のもやもやとした感覚としこりだけが着実に膨れ上がっていくだけ。
いっその事止めを刺してくれたら、と思った事はあります。
けれど、そうすれば別の悩みが私を襲うし、今までの関係を維持出来なくなる。
きっとこの何もない穏やかな時間は、ジルが私を気遣って与えてくれているのでしょう。ジルも私が感付いている事に、きっと気付いているでしょうから。
靄こそ溜まるものの共に過ごす時間は大切で、心地好い。
この曖昧で私に決断を迫られる事のない緩やかな時間と空間は、崩したくないと思う。けれどいつか終わりを迎えるとも分かっていて、それが怖くて仕方ありませんでした。いつまでも知らない振りを出来る程、私達は子供じゃないから。
それでも崩したくないのは我が儘なのでしょう。この関係に甘んじていたい私の、身勝手な我が儘。
長く続くとは思っていませんが、それでもまだ……と望んでしまうのです。それが直ぐに崩れ去るなんて分かりきった事だったのに。
そして、私のもやもやと誕生日を一月先に控えた頃。
私よりも先に、殿下が誕生日を迎えました。私よりも一ヵ月と少し早い殿下の誕生日。毎年呼ばれていて、今年も例に違わず招待状が送られて来ました。
普段殿下と接する機会は殆どありません。立場を考えれば当然ですし、私と殿下は臣下であり友人である関係と言うだけなので、おいそれと会う事もなりません。王族にひょいひょい会いに行く訳にもいきませんから。
ですので、こういう機会は貴重です。
勿論公式の場なのであまり砕けた口調にはなれませんが、お話出来るだけでも本来は恵まれているのでしょう。殿下もあまり会えなくて寂しがっていますし、私も久し振りに会いたいと思っております。
毎年恒例で出席しますが、今年のエスコートはジルになっていました。一人では危ないと言う事は分かっていますし、今ではジルも出席出来る立場にある。
私を守るにはうってつけの存在なのですが、今の状況を考えれば快く頷ける精神ではありません。嫌じゃないけれど、恥ずかしさとこの葛藤が、邪魔をする。
あまり正装はしないジルですが、似合わない訳がない。着られる事なく着こなしているジルの姿はとても綺麗と言うか格好良くて、不覚にも心臓が痛い。見慣れている筈のジルが、本当に格好良くて、凄く……男の人だと意識してしまう。
ドレスを纏った私を見て蕩けるような笑みで「よく似合っていらっしゃいますよ」と褒められるだけで、顔に羞恥が溢れてしまいます。今までの耐性が吹き飛んでしまったようにあっさりと顔に出てしまって、ジルも更に嬉しそうにするばかり。
薄紅に染まっているであろう頬は、ジルの視線を感じて更に色味を増している事でしょう。
「暑いならば飲み物をお取り致しますが」
「結構です」
わざとだ、と言ったら負けなので、なるべく声が震えないように遠慮しておきます。ジルはにこやかにしていますが、絶対に分かってますよねこの人。
二人きりに気不味さを覚えて、壁の華に撤する事にします。本来は私から殿下の方に行かなければならないのですが、あまりにも年頃のお嬢さん達から熱烈な視線を受けている殿下の元に突撃するのも難しいというか。
遠目に見た限りでも、殿下はとても綺麗に成長していると改めて思います。陛下に似た端整な顔立ちもそうですが、王妃様の可憐な面立ちも何処と無く感じさせます。男らしさの中にも繊細さを感じさせる美貌、とでも言いましょうか。
あれだけ美しければ、そりゃあ皆さんアピールするのも頷けます。
すっかり美丈夫に成長なさった殿下を遠目に眺めていると、殿下はどうやら私に気付いたらしくて周囲の女性をやんわりとあしらって此方に向かってきます。
視線を感じるものの殿下に壁際まで出向かせてしまう訳にも行かず、ジルを伴って歩み寄ります。ちょっぴりジルの顔が強張ったのは、気のせいではない筈。
昔のように無邪気に接する訳にも行かず、対面しては礼。貴族らしく優雅な一礼をすると、殿下も鷹揚に頷きます。
「よく来てくれたな」
「記念すべき日ですからね、生誕おめでとうございます」
「生誕おめでとうございます」
ジルも私の後に一礼。
元より貴族であったジルの所作は完璧なものでしたが、殿下は驚いたように瞳を瞬かせています。
「今日のエスコート役は、彼か?」
「はい」
それを改めて言われると何だか恥ずかしいのですが、それは堪えて微笑みます。ジルも表立って主張はしませんが穏やかに微笑んでいました。少しだけ、目が意味ありげに揺れていますが。
そんな所で対抗心を張られても、と私としては怒れば良いのか困れば良いのか複雑なのですが、殿下はジルの眼差しを敵意と受け取ったらしく複雑そうに眉を寄せてしまいました。
殿下にそんな態度をさせるのは本来宜しくないのですが、殿下は心が広いですしそもそも昔馴染みのようなものなので今更追及はしません。
殿下はというと、少しだけ悔しそうに瞳を伏せます。
「……リズもすっかり女性らしくなったな。羽化の瞬間を見逃したのは、非常に惜しい」
「殿下こそとても凛々しくなられましたよ。貫禄もありますし」
「まだ若輩の身だがな」
そういう殿下は、自分が思っているよりも成長している事を知らないのでしょう。
もう殿下は昔のように私をつれ回したり我が儘言ったり気ままに笑い合ったりしない。私の事を気遣い、立場も考慮して、王族として振る舞うようになった。気分に振り回されず冷静になり、思慮深くなった。
停滞する私と違って、もう彼は私を抜き去り立派に大人になったのです。
昔から見守ってきましたが、こんなにも凛々しくなるなんて。
私は褒められるに値しないのでやんわりと微笑むと、殿下少しだけ目を伏せて……それから、意を決したように私を真っ直ぐに見詰めます。
「……リズ、後で話したい事がある。私と、二人で」
そして零れ出た言葉は、真剣な声音で私の耳に届きます。声量は抑えられていて、直ぐ側に居る私もジルくらいしか聞こえない、その程度の大きさ。
だからこそ、ジルは瞳を細めて真意を問うように殿下を見ていました。
「私と殿下で、ですか? でもジルは」
「悪いが貴殿には、少しの間リズから離れて貰う。心配せずとも、彼女に手出しはしない」
それは紳士がする事ではないからな、とジルの心に突き刺さりそうなお言葉。ジルもちょっぴり自覚はあったのか僅かに顔が引き攣りました。
想いに気付いてしまった今なら言えますが、ジルには前科ありますからね。私がそれを問えば確実に否定は出来ないでしょう。
ジルも堂々と反抗は出来ません。ただ、不安そうに私を見てから、一礼。
「……ユーリス殿下の御心のままに」
私が先にテラスに行き、時間差で殿下が来て。
そして、漸く二人きりの状態になりました。当然ながら日は暮れていて少し風も出て来た、ほんのりとした肌寒さに羽織ったショールを掻き合わせます。
夜の帷が下りた空を眺めて、それからわざわざ二人きりを指定した本人の方に向き直り、首を傾げました。
「どうしたのですか、殿下」
手摺の近くまで寄ってきた殿下に単刀直入に問い掛ければ、穏やかな笑みに出迎えられます。
「二人きりで話したい事があったのだ。誰にも邪魔されないように」
その言葉に、一種の予感が肌をなぞり、びくりと体が震えてしまう。
私とて、決定的に鈍い訳ではありません。鈍い鈍い言われてきましたが、殿下の眼差しの意味が理解出来ない程疎い訳ではありません。
「……殿下」
「リズ。リズは今まで私の事を、言い方は悪いがのらりくらりと躱して来たな。求愛を、本気と受け取らなかった」
責める訳ではない優しい声なのに、私はとても殿下に責め立てられている気がしました。
……そうです、私は殿下から逃げてきた。ジルとは違って、ひたむきな好意を寄せてくれていたと最初から分かっていたのに。
私はそれを受け入れるのが、認めるのが怖くて、殿下の言う通り躱して明確な言葉を言わせないようにして来た。正式に言われてしまえば、此方も正式な答えを出さなくてはならないから。
殿下の優しさに、甘えてきた。
「私ももう十九歳だ、そろそろ妃を決めなくてはならない。私に残されている時間は、あまりない」
……だからこそ、今この瞬間、私と二人きりになる事を選んだのでしょう。
陛下や王妃様の介入がない、今の内に。自身で決められる、この時に。
「リズベット=アデルシャン。どうか、このユーリスの伴侶となってくれまいか」
そして、私だけに向けられた言葉は、明確な意思を以て私に突き刺さります。
きゅ、とドレスが皺になるのも構わず太腿の横の布地を掴めば、殿下は私の心情を見抜いたのかひっそりと苦笑。急かすような眼差しではありませんでした。
「……返事は今直ぐでなくとも良い。そしてこれは正式な婚約の申し出でもない。あくまで、ユーリス個人としての申し出だ。正式に王家からしてしまえば、リズは選択を狭められるからな」
「……殿下は、何で……」
「好きだからな」
息を吐くように告げられた好意に、対照的に私は息を飲んでしまう。
「それ以外に理由はないだろう? 好きなんだ、リズが欲しい」
何で、こんなにも。
決して、長い時間側に居た訳ではありません。
幼い頃の、ほんの少しのきっかけ。あれから私と殿下の仲は始まった。ジルと違って、共に過ごして来た時間が長かった訳ではありません。偶に遊んで、話して、笑って。そんなくらいの接点だったのに。
何でこんなにも、ひたむきな想いを私に寄せるのか、分かりませんでした。
そんな事を思うのが失礼だと分かっていても尚、私には分からなかった。どうしてこんなにも純粋な好意を持ち続けてくれていたのか、私には……分からないのです。
ぐちゃぐちゃと自分では制御の出来ない疑問と羞恥と煩悶に俯くしかない私。
そんな私に、殿下は一歩近付く。
「……よく考えてくれ。私はリズの選択を受け入れる。だが、本気だとも知って欲しい」
気付けば、目の前に居て。
甘く優しく、そして私には苦渋の決断を迫られる、言葉を落とされます。逃げられないし、逃げてはならない。此処まで引き延ばしてきた答えを、自分の内側から見出ださなくてはならない日が来たのです。
静かに殿下は私の掌を下から掬い上げ、そっと持ち上げます。少しだけ腰を折った殿下は、私の手の甲に口付け。
ほのかな感触しか感じなかったものの、今までに殿下にされたものより、ずっと胸を締め付けます。
びくり、と反射的に震えた体に、殿下はただ苦笑。
それからふと視線を外し、顔の向きを会場の方に。
「……盗み聞きは誉められた事ではないと思うが」
「え……?」
殿下のいきなりな言葉に釣られて視線を移せば、会場の方からゆっくりとばつの悪そうなジルが歩み寄って来ていました。
「……エスコート役としては頷きましたが、護衛としてはリズ様も殿下にも危険があってはならないと思い」
「よく口の回る。まあ、良い。……リズ、色好い返事を期待している」
ジルに対しては鼻を鳴らし、それから私には柔らかな微笑を向けます。態度の違いは明らかなのですが、それも仕方ない事なのでしょう。ジルが約束を破った事になるのですから。
誰もが見惚れるような美しくも儚さを感じさせる殿下の笑みに唇を結べば、その笑顔のまま「また返事を聞かせてくれ」と私達二人を置いて会場に戻って行きました。
主役が長い間会場を空ける訳にはいかないのでしょう。それを分かっていても、取り残された私はどうしていいのか分からず、唇の触れた手の甲を撫でます。
……本当に、殿下は……私を、望んでいて。
押し黙る私に、ジルは音を立てずに側まで歩み寄ります。
「……聞いていたのですね」
「申し訳ありません」
腰を折って謝罪をするジルを責める気にもならないし、責めるつもりもなかった。ただ、聞かれていた事に対してある種の躊躇いと気恥ずかしさがあっただけ。
ジルも、殿下が私を好きな事くらい当たり前のように知っていたでしょう。それこそ、私達が幼かった頃から。
そっと吐息を零し、私はそれ以上ジルを追及せずに手摺に凭れ掛かります。夜風は少し肌寒いですが、頭を冷やすのには丁度良いものでした。
会場の方に戻る気にもなれなくて、ただ行き場のない視線を庭に。見事に整えられた美しい庭の風景を眺めて心を落ち着けようにも、心はざわついたまま。
「……本当に、何故」
何故、私を想い続けたのでしょうか。
決して、私は彼に優しくしていた訳ではありません。厳しい事を言っていたし、少し素っ気なくしていた事もあった。必ずしも全て好意的に接した訳じゃなかったし、何なら不敬罪ととられかねない事もして来た。
なのに、殿下は……私の事を、好きだと断言した。妻に求めた。
あまりにも私が一杯一杯なのと、純粋な好意に戸惑うしかなくて、俯き出した感情に瞳を伏せます。
静かに溜め息をついて解決しない疑問と状態に悩んでいると、ふと背後でわざとなのか靴音。ジルをそのまま一人にさせてしまっていたな、と思い出して……ふわりと、背中に温もりを感じます。
僅かに私の方に掛かった体重、前へと自然に回された逞しい腕の感触。鼻を掠めた、いつもの匂いに……私の動作が全てを放棄してしまいました。
何をされているのか、分からない訳ではありません。けれど、何故、抱き締められたのか分かりません。
今日は分からない事だらけで混乱していると言うのに、更に混乱させるように密着されて。
「……リズ様、ユーリス殿下の申し出を受けるつもりですか?」
私を背後から包み込んだ張本人は、ゆっくりと、静かに問います。
「……分かりません」
「行かないで下さい、というのは我が儘なのでしょうね」
「ジル……」
そう囁く癖に、ジルは私の事を離そうとはしません。寧ろ、言葉に反比例して私を強く抱き締めます。逃がしたくない、行かせたくない、そう言わんばかりに。
身長差のせいですっぽり収まっている私は、ジルを振りほどけない。体格的にも、精神的にも。切なげに、求められるように触れられて、私の体は抵抗をしようとしません。
嫌ではないけれど、困りはする。今はその状態なのです。
「……リズ様」
そっと耳元で囁かれる名前。
「私もお慕いしております、と言ったら?」
……え?
柔らかく、そして明確な意思で私に落とされた言葉は、私の動きを全て固まらせるに十分なものでした。
十秒程凍り付いてから恐る恐る振り返れば、いつもの微笑に切なげな眼差し。私を乞うように、真剣に見つめられて、心臓がきゅうっと締め付けられては高鳴りを繰り返す。
「不相応だと分かっていても。私は、あなたを」
「じ、る」
「お慕いしております。誰よりも、あなたを」
ふら、と立ち眩みしたような、目眩にも似た感覚。よろけそうな私に、ジルは支え方を変えます。後ろから抱き締めていたのを、正面から抱き締めるように。もう手離したくないとしっかりと背中に手を回して、引き締まった胸板に私を引き寄せて。
くっついた胸からは心臓の音がして、ジルも凄くどきどきしているのが、感じ取れました。
「こんなタイミングで言うのは卑怯かもしれませんね。それでも我慢ならなかったのです、あなたがユーリス様を選ぶのかもしれないと考えたら」
くらくらする頭を一生懸命に整理しながらジルを見上げれば、真摯な眼差しが私を貫く。どくん、とまた大きな鼓動を立てる心臓。生まれて初めて、こんなにも心臓が痛くなりました。
本当に息をするのが辛い程、どくどくと血の巡りが全身に熱を広げる。ひゅ、と喉が震えて、変な音が鳴ってしまう。
ジルにも聞こえてしまうのではないかというくらいに、心臓が煩くて仕方ない。全身が熱くて、頭がぽわぽわと浮かんだように思考もままならなくなってきて。
「私は、一人の男として……あなたが欲しい」
そうして落とされた決定的な言葉は、酷く熱っぽくて甘く。
視界が一瞬にして暗くなる。
感じていた匂いが、より強くなって。
全身に感じていた熱は、押し付けられた唇に集中して。
昔のように、悲しみを溢れさせた口付けではありません。私を慈しみ、そして渇望するように唇へと直接的な愛情を注ぎ込んで来る。
後頭部に手を回されては逃げられない。
ただ触れるだけのキスなのに、全身が沸騰してるんじゃないかと言うくらいに熱くて、脳味噌まで溶けてしまいそうに火照っていました。きっと、今の私は朱を注いだように首元まで真っ赤に染まっている事でしょう。
唇が離れてからは酸欠に喘ぐ魚のように、口をぱくぱくと開閉してはジルを見上げて。
有無を言わせぬ口付けを施した元凶は、私の反応にただ柔和な笑みを口許に湛えています。瞳は、変わらず私を求めるように熱と渇望の混じりあった男性の瞳をしていました。
「どうか、私にも応えて下さい。時間が掛かっても良いから。……愛していますよ」
その言葉を聞いてから、私がどうやって家に帰ったのか、いつ家に帰ったのか……記憶にないくらい、私の頭の中はこの夜の出来事で満たされる事になりました。