うっすらとした自覚
断定するには不確かで、否定するには明確な好意。
ジルが私に向ける好意がどちらのものかなんて、考えたくない。けれど現実は慈しみひたすらに私を想うジルが居る。
本人に聞かなければそれが恋慕なのか親愛なのか、判別は付けられません。それを知ろうともせず先伸ばしにする私は、きっと卑怯者なのでしょう。関係が壊れるのが怖くて、自分の感情が分からなくて、逃げている。
……私は、彼の事をどう想っているのか。
大好きですし大切で、側に居たいとは思うのです。それが異性として、もっと言えば結婚とか、こ、子供を儲けたいとか思えるかどうかは、別問題で。あまりにも近くに居過ぎたが故に、これが恋情なのか区別がつかないのです。
前世含めても大した経験など積んでいないし、そもそも前世の記憶など殆ど忘却の彼方にあります。こちらの記憶が大半を占めていて、前世の事など頭から滑り落ちていました。それだけ密度のある毎日を過ごしたという事なのですけど。
あまりにもこの体に適応してしまった私は、確実に幼くなっています。自覚出来る分ましですけど、まさか恋愛に対して此処まで疎くなるとは。
……好きなんて気持ちが、よく分からない。何を以て異性的に好きなのか。
そもそもジルが私の事を女として欲しがっているのかすら未確定なのに何でこんなにもやもやしているのでしょうか。
「リズ様」
頭を壁に打ち付けたくなる衝動を堪えて悶々するのですが、更に懸念材料が追加されます。声だけでびくっと背筋が震えてしまいましたが、取り乱す事だけは何とか避けられました。
覚悟を決めつつゆっくりと振り返って首を傾げれば、いつもの美貌を更に穏やかにしたジルの笑み。いつにも増して上機嫌なのは、恐らく先日のご褒美が効いているのでしょう。
羽毛のようにふんわりと軽く微笑むジルに、きゅうっと胸の奥が締め付けられるような錯覚。意識しているせいで、普段の二割増しで目映く見えます。出来る事なら羞恥とかその辺りの観点から目を逸らしたいくらい。
「どうかなさいましたか?」
「いえ、姿をお見掛けしたものですから。これから魔導院に向かうのでしょう? 私も付き添い致しますので」
私の躊躇いに気付いたのか気付いていないのか、エスコートするかのように掌を軽く差し出して来るジル。昨日口付けたせいで直視するのが恥ずかしいのですが、ジルはそうでもないらしく軽やかに掌を向けています。
少し逡巡しながらもそっと掌を重ねれば、益々緩む頬。意識してかちんこちんになるのは真っ平御免ですが、これを意識しないというのも中々に難しいものです。
固くて暖かい掌の感触に、じわじわと込み上げてくる熱。考えれば考える程意識してしまうというどつぼに嵌まっているのでしょうが、私にはどうしようもありません。
促されて一緒に屋敷を出て、そのまま城に向かいます。貴族街から然程離れていないから直ぐの到着なのですが、その間掌の感触を意識し過ぎて押し黙ってしまったり。
そんな私を何故か微笑ましそうに眺めるジルが居て、ちょっとむっとなってしまうのです。すごーく可愛らしい幼子を見るような眼差しで、やっぱり親愛なんじゃないのかとか思い直しそうです。
「リズ様。セシル様の元に行く前に少しお付き合い頂けませんか?」
城の中、魔導院の敷地に入っていつものように研究室に向かおうとすれば、手を引かれて言葉で止められます。
手を繋いだまま首を捻れば「お願いがあって」と少し窺うような眼差し。
「リズ様に少しお手伝いして頂きたい事があって」
「お手伝い、ですか?」
「はい。魔物討伐の際に使った魔術を私に撃って頂きたいのです」
「えっ!?」
あまりに唐突な申し出に軽く繋いだ手を離し、本気なのですかとジルを見上げます。
魔物討伐の際に使った魔術が指すのは、『コキュートス』以外にありません。全てを凍らせる極寒地獄を顕現させる、私だけの魔術。
セシル君に特注で術式を編んで頂いたこの魔術は、非常に殺傷能力が高い。父様の『インフェルノ』にも負けない威力をというお願いの元作製されたものなので当然ですが、それは対人ではまず使えないくらい危険な魔術です。
魔物討伐の際は全力を込めてあの威力なので、通常威力ならあんな威力は出せません。それでも人を簡単に殺せる程度には、強力。
それを、ジルに撃つ?
「駄目です、危ないです」
「それは制御出来ないという意味合いでですか?」
「制御は出来ますけど……で、でも……あれ人に向けるには」
「お願いします」
おふざけなど一切なし、真っ直ぐな瞳で見つめられてはたじろいでしまいます。
制御出来ない訳ではありません。セシル君との特訓のお陰で、通常威力ならば制御出来ますし、加減も可能です。全力はまだ怪しいですが、あの時の威力を再現しようとしない限りは思うように操れはする。
けれど、それを加味しても人に向けるには危険過ぎる魔術で。
返事に困窮するしか他ない私を促すように、ジルは真剣な表情で私を見つめ続けます。譲らない、と瞳に記されていて、それも私の躊躇いを奪おうとしていました。
「……もし怪我でもしたら、私泣いちゃいますよ」
「では泣かせないように努力致します。それに、障壁を幾重にも張っておきますので問題はないですよ」
「……でも」
「お願いします。本来はあなたに手伝って貰ってはならないのでしょうが……私は私の実力が知りたい。お願いします」
深々と腰を折られては、頷かざるを得ません。
気は非常に進まないものの、本気で頭を下げてられると断れないです。ジルのステップアップに協力したいのも本心ですし、私が力になれるなら力添えします。
それでも幾らジルとはいえ危険な魔術を放つには抵抗しかないので、渋々といった形になってしまいました。
「……怪我、しないで下さいね」
「はい」
それだけは厳命しなくてはなりません。私がジルを傷付けてしまえば、私はジルに合わせる顔がありません。いつも守ってくれる人を傷付けるなんて真似、絶対に嫌ですから。
絶対ですよ、と念押しをすれば苦笑したジルが頷いてくれて、不安で一杯ながらも訓練場の方に移動する事になりました。
貸切状態の訓練場。
私とジルは互いに距離を開けて向かい合い、ジルは障壁を、私は『コキュートス』を放つ準備をしています。
ジルの方が完成してから放たないと意味がないですし危険ですから待機してますが、やはり人にぶつけるには威力が大き過ぎるというのが体内で魔力を術式に通した感想。
術式の完成度も然る事ながら、そもそもの消費がとてつもなく多いのが『コキュートス』です。一般的な魔導師では一発も撃てるか危ういくらいに負荷のかかるこれを、私は平然と撃てる。
自分の魔力タンクっぷりにはほとほと呆れてしまいますが、与えられた物を活用しない手立てはないというのも真理ですね。これで国民を救えたのだから、結果的には良かったと思います。
私の方はほぼ完成手前で止めていて、ジルを待つ状態。そのジルももう九分九厘完成しているのか、魔術障壁が何重にも展開されていました。
一目見ただけでも分かる、障壁の堅牢さ。私ではとても再現出来ない程堅固で高密度に構成された障壁。昔見た時よりも遥かに強固さを増したそれは、日頃のたゆまぬ鍛練の成果なのでしょう。
視線が交錯し、表情と眼差しに促され。
私は体内で押し留めていた魔術を、解き放ちました。
「……『コキュートス』」
小さく呟いた名前と共に、訓練場の空気が凍り付く。
一気に下がった気温、そしてそれは視界に顕著に現れます。
ジルの周り限定で空気が白く可視化したように、水分が個体となる。障壁を覆わんと美しくも凶悪な氷がジルを襲っていました。
防護する障壁自体を凍らせようと働く魔術、彼の周りだけが白と蒼氷の地獄となって責め立てています。
それでも、ジルを守護する障壁は耐えている。完璧に制御化に置いている私にも、その手応えは何となく伝わってきました。
……けれど、いつまでも拮抗状態は続きませんでした。
私の魔術が機能を終える直前、ジルの障壁の一番外側が済んだ破砕音と共に砕けてしまったのです。
よく耐えたと言うべきなのか、私が未熟だったと言うべきなのか。
慌てて魔術を消して直ぐに火の魔術で周囲の空気を温める私。
もくもくと湯気が立つ中、別の意味で白く染まる視界の奥から笑い声が響き出しました。
ひゅうっと風が吹いて湯気が飛び、中からおかしそうに笑うジルの姿。いきなりの事にびびるしかないのですが、ジルは私の視線にも笑いながら障壁を消して此方に歩んで来ます。
「はは……まだまだ精進が足りませんね。リズ様はお強くなった」
愉快そうなのか、少し寂しそうなのか分からない笑みに、私もどう答えて良いのか分かりません。
……強くなった。そうジルは評したけど、私は魔力の最大値が高いだけで技量はとてもじゃないですがジルや父様には追い付けません。経験の差も当然ながら、私には繊細さが欠けるのです。
どうしても力押しになりがちな私が、強くなった?
「これは魔術が」
「それを制御出来るくらいには、あなたは成長しているのですよ。昔では考えられない程、あなたは強くなった」
染々と呟かれても、実感がありません。
私の周りには私よりも強くて凄い人が沢山居る。ジルや父様には当然敵いませんし、総合的に見れば私はまだまだ若輩者であります。
昔より強くなったのは分かるけれど、ジルが思う程私は強くもなければ制御力に秀でている訳でもないのです。
「これではあなたの師匠を名乗れませんね」
「私の師匠はジルです! 誰が何と言おうと!」
「ふふ、それはありがたいです」
ジルが私の師匠なのは否定させません、と歩み寄ってきたジルの掌を握れば、くすりと綻ぶ口元。
「……でも、私もまだまだ高みに登れるとは分かりましたから。至らない点や術式の綻びも見付けられましたし」
向上心の強いジル、日頃からあれだけ頑張っているというのにまだ上を目指している。
それはとても凄いし、見習うべきだと思います。でも、何で……こんなにも、真摯に取り組んでいるのでしょうか。そして、何で……そんなにも生き生きとして、楽しそうなのでしょうか。
まるで、生涯の目標を見付けたかのように爛々としていて。
「……何で、そんなに楽しそうなのですか?」
「楽しそう、ですか?」
「はい」
凄く溌剌としているというか、凄く燃えているというかやる気に満ちているというか。気力がみなぎっているのは、傍から見ていて一目瞭然です。
穏やかさの中にも激しい熱意みたいなものを感じて、ジルは普段そこまで何かに熱中しないのに意外だ、とも思ってしまいます。
勿論、ジルがやる気を持って取り組める事があるというのは素晴らしい事だと思いますよ。結局私の為になってしまいそうなのが、少し複雑ですが。
ジルは私の言葉が意外だったのかきょと、と翠を丸くして、それから吹き出すかのように息に笑みを乗せて背筋を震わせます。口許に手を当てて上品な笑みを保ちながらも、その表情は愉快そうに崩れています。
「そうですね、楽しいですね」
「ふふ、良かった。私はジルのお陰で魔術が好きになりましたから」
「私も、リズ様のお陰で魔術が好きになりましたよ。奪う為の手段としてではなく、護る為の手段という事を教えてくれましたから」
和やかな雰囲気に少しだけ翳りを帯びたジルは、愉快そうな笑みを少し暗く、寂しげなものに。
……私と出会う前のジルにとって、きっと魔術は他者を害する手段でしかなかったのでしょう。
つられて私まで笑みが暗くなったのに気付いたのか、慌てて明るい笑顔に戻すジル。
「私はあなたの側に居られて、毎日が充実していますよ」
「私も……ジルが側に居てくれて、楽しいですよ。ジルのお陰で何度も救われてるし、魔術の幅も広がった」
ジルの側に居て成長した事が沢山あった。魔術を教えてくれたのはジルだし、側に居てくれたのもジル。慈しみ守ってきてくれたのは、ジルなのです。
そりゃあ結構過保護だからストップかけられる事もよくありましたけど、今では大分それも緩いですし。
ジルは奪うだけなんかじゃないよ、ちゃんと私に沢山のものを与えてくれた。そんなに卑下する事はないのに。
「いつもありがとうございます、ジル」
「感謝するのは私の方なのですけどね。……あなたが居なければ、今の私は居ないのですから」
「大袈裟ですね」
「いえ、事実ですよ。私は、リズ様のお陰で変われたのだから。あなたが居なければ、私は父親に疎まれた傀儡のままでしたから」
肩を竦めたジルは、寂しそうに笑って掌を眺めています。
今、ジルが何を考えているのか分かるからこそ、私には辛い。きっと血にまみれてるとか、穢れているとか、そんな事を考えているのでしょう。父親の言われるがままに使われて来た過去を思い出して。
私は、それも含めてジルを受け入れているのにね。
「決して綺麗ではないこの手を受け入れてくれた、それだけで私は救われたのですよ。本来は、これ以上求めてはならないのですがね」
「そんな事ないですよ。ジルは遠慮しがちですよね……あと偶に不幸そうな顔してます」
「そんな顔してますか?」
「偶に」
ジルは意外そうですが、私はジルが暗い顔をしている所を何度も目撃しています。過去に苛まれて、受け入れがたい自分と今の現状に戸惑っている姿を、何度も。
それ故に、積極的に何かを求める事が出来ないのかもしれませんね。
「別にジルが幸せになってはいけない道理はないのですから、幸せを掴んでも良いのですよ?」
「ふふ、リズ様の許可を頂けてありがたいのですが……リズ様は自らを追い詰めるのがお好きですよね?」
「え?」
「いえ」
首を傾げても、それ以上言うつもりはないのか穏やかな笑み。但し、何故か困ったような、それでいて喜色が滲んだ微笑みです。
「遠慮しなくても良いのですね?」
「そりゃあジルの人生ですから」
「ありがとうございます。それでも、私の命はリズ様の物ですよ。あの時から、ずっと」
……何だかとても恥ずかしい事を言われている気がします。
「そろそろ時効でジルの好きにしてくれても良いのですよ?」
「恩は働いて返しますよ。それに……側に居ると誓いましたから」
『私の側に居てくれますか?』
『……御意に』
あの時、確かにそう言ったけども。
けれど、一生を束縛するのは悪いとも思っているのですよ。ジルにはジルの人生があるのだから、ジルの好きに生きて欲しい。複雑ではありますが、ジルが本気で望むならば私はジルの選択を支持するのに。
それなのに、ジルは私の従者に収まり続ける事を選ぶのです。才能もあって立場も得たのに、それでも私の側に居ると願うなんて。
「束縛するつもりじゃなかったのに」
「私の幸せはあなたと共に在る事だと思って頂ければ」
息を吐くように甘い言葉を囁かれて、不意討ち過ぎて止める間もなく頬に熱が昇ります。
まるで、愛の告白のような言葉。これが素だから、厄介極まりないのです。どちらに取れば良いのか分からなくなる。明確な言葉は言わない癖にそれに似た言葉を私にゆっくりと染み込ませるから、羞恥が降り積もるように胸の奥に溜まっていく。
最早故意にしているんじゃないかというくらいに、私を口説いているような囁き。じわじわと灯る熱が恨めしくて仕方ないのです。
考えたくなかったのにまた思い出してしまって、頬に薔薇色を浮かばせる。
見られたくなくて俯いても、きっとジルにはばればれなのでしょう。その証拠に、髪の隙間から窺えば愛おしげな眼差しと緩んだ笑みが私の視線を出迎える。
ぞく、とする程深い瞳。私を捉える眼差しは、愛でるようで、そして物欲しげ。
ジルの望みの行き着く先は、もしかして。
「……物好きですよね、ジルは」
「そうでしょうか?」
「ええ」
「ふふ、では物好きは沢山居ますよ」
「そんな物好きはジルだけで沢山です」
悟りたくはないのに薄々何かは察してきてしまって、堪らずにすげない言葉でそっぽを向いてしまいました。
……確信はないけれど、きっと、そうなのかもしれません。言葉が下されないだけで、きっと。