目を背けたいけれど
父様のお陰でジルに出くわす事なく帰宅出来た、のは良いのですが……ジルは、避けられてるとか思わないか、心配です。
確かに避けてはいるのですけど、それは悪感情によるものではなくて、私の心が落ち着いてないから一時的に逃げているだけなのです。決して嫌っているとかそんなのじゃなくて、ちょっと時間を下さいって意味で。
でもジルはどちらかといえば自分を責めるタイプだし、ずーっと悩んでいるかもしれません。
……それは分かっていても、今回の件にはほぼ無関係なセシル君にすら意識してしまった私に、ジルといつも通りに接しろなんて無理です。
晩御飯を食べるまでは、ジルと接触する事はありませんでした。
「……リズ様」
でも同じ屋敷で生活しているから、ずっと出会わないなんて無理な話なのです。
廊下を歩いていたら、やはりというか必ず何処かで出くわすとは思っていたジルに遭遇しました。思わず歩みが止まって直立になってしまいます。
一日会わなかっただけでは何ら変わる事がない筈。なのに、私の心境のせいで今のジルは、変に男らしく見えてしまうのです。
眼差しは昨夜見た切なそうな男の瞳ではない、私が知る普段の柔らかさ。私の姿に幾分か驚いているようでしたが、それでも表情筋の動作には直結していないようです。
いずれとは思っていましたが、まさか今出会うとは思っていなくて、全身の動きが止まってしまいました。心拍数は、上昇している。動悸でもしてるんじゃないかってくらいに心臓がうるさく鳴り始めて、でも上手く動けないから固まったまま。
唯一動く顔だけは、私の感情を表現してくれました。意味のない唸り声と焦点をジルに定められない瞳、きっとジルには変な奴だと思われている事でしょう。
それでもジルは、何処にも行かない。ただ私を静かな瞳で見詰めています。
逃げてはならない、と暫く考えた後、私は覚悟を決めてジルに近寄ります。少し動かなかっただけで軋む体は、やはり昨夜の出来事を思い出して無意識に躊躇しているのかもしれませんね。
「あ、あのですねジル、その」
「先日は申し訳ありませんでした」
昨日の事を話そうと思ったら、先にジルから謝られてしまいました。お陰で私がどうして良いのかも分かりません。
柔らかい翠の髪を揺らし、きっちり最敬礼の角度で腰を折り頭を下げるジル。下手したら跪くんじゃないかってくらいに丁寧に腰を折るジルに、逆にどうしていいものか。
あの時の事を従者としてなら咎めるべきでしょうし、謝罪は然るべきものだとは、分かっています。それでも、先手を打たれて謝罪されると毒気を抜かれるというか……毒気自体はないですけども。
頭を下げているジルの姿におろおろとする私。主人としての格は確実に足りていません。別にジルを見下すつもりとかは更々ないですし。
「処罰なら如何様にも」
恐らく私が何か裁定を下すまで、この姿勢は変えるつもりがないのでしょう。綺麗な角度で頭を下げているジル。
処罰、とか、言われても。
「お、怒ってないですよ?」
「……え」
そのままの体勢で、ジルは不意を突かれたような素の声を上げます。
だって、処罰とか言われても……酷く危害を加えられた訳ではありませんし。まあ嫁入り前の女子に痕を付けるのは駄目だと思いますが、私も寝室に入れてしまった事に原因があります。
主に私に問題があったので、まあ、お咎めなし……とまではいきませんけど、ジルの想像していそうな解雇とか従者から外すとかは、ないです。父様にも具体的な内容は内緒にしておいているので、厳罰が下る事もないでしょう。
頭を上げて下さい、とお願いすれば恐る恐る此方を見詰めるジル。やっぱり直接視線を合わせると内側から羞恥がじわじわと押し寄せますが、それでも耐えられない程ではないです。
「その、びっくりしたし、凄く……どきどきしましたけど、怒ってはないです」
「そこは怒るべきではありませんか? 私はあなたの素肌に触れたのですよ?」
「も、もう痕をつけたりしないで下さい。それと、勝手にキスも駄目です!」
私ジルによくされてます、と頬を膨らませれば、少し視線が逸らされてしまいます。自覚はあったのですね。……嫌がらなかった私も私ですけど、許可なくキスするのも良くないと思います。
私の視線を受けてジルは「それは承知しております」と眉を下げ、瞳をそっと伏せていました。
「……つ、次したらジルのへんたいーって父様に言い付けてやりますっ」
「それは怖いですね」
今回は中身を内緒にしておきますけど、次にあ、あんな事があれば父様に叱って貰います。父様の操縦は私がするので解雇まではさせませんが、こってり絞ってやるのです。父様にこき使って貰うんですから。
茶化すように唇をわざとらしく尖らせて文句みたいに言い付ければ、ふふと微笑むジル。その笑顔はいつものもので、何故だか無性に安心してしまいました。
「あと、えっと……その、ジル」
「はい」
少し悩んだ後に、勇気を出して、ジルを見上げます。
今は、いつものジル。優しくて穏やかで主想いな人。それでも、やっぱり私の主観が変わってしまったせいで、男の人という意識が強まっていました。
昨夜は、もう従者の垣根を越えてしまいそうで、本当に……男の人にしか、見えなくて。今更性別を意識するなんて情けない話ですが、セシル君が口を酸っぱくして言っていた事も実感出来ました。
「……その、女の子として私を見てくれる事は、恥ずかしいし困ったけど、大人扱いしてくれて嬉しかった、です」
少し詰まりながら口にしたところ、ジルの瞳は真ん丸になっていました。
「で、でももうあんな事しちゃ駄目ですからね! 怒りますからね!」
「……ふふ……本当に、あなたという人は」
一気に緩まる頬、そして眇められる瞳。下手すればだらしなく写る笑みは、ジルにかかれば歓喜に満ちた甘い笑みに変わります。
私以外の人には見せないであろうとろけた笑顔で、ジルはゆっくりと指を私の頬に滑らせます。何かされるのではと咄嗟に身構えてしまった私に、ジルは笑みを深めました。
今度は、少し艶を帯びた笑みに変えて。
「……とても可愛らしくて、私を駄目にしてしまいそうだ」
「……っ」
こっ、この人絶対にわざとです! 私がそういう声に弱いと知ってて絶対にやってる!
じ、ジルに勝てる気がしない……!
「じ、ジルのばか」
「ふふ、かもしれませんね」
「ジルのへんたい、たらし、この美形!」
「最後は誉め言葉ですよ」
「……ばか」
「あなたの側に要られるなら、馬鹿でも一向に構わないと思っておりますよ」
「……ばか」
堪らなく恥ずかしくて、俯くしかありません。
何でこんなにも慕ってくれているの、かな。……ジルは、私の事……その、異性として好きなのでしょうか?
でも、私ジルよりも八歳年下なんですよ? ジルは私がお転婆でちびのつるぺただった頃から面倒見てきてくれたのに、そんな私に恋愛感情、とか。
でもジルの向ける感情は、主従愛とかそんなものじゃない、気がするし。それで片付けられるなら、こんなにあわてふためくものでもどきどきするものでもないでしょう。
平然と流せる程、ジルの眼差しは可愛らしいものではいりません。慈愛と、それとは別の……私の語彙で捻り出すなら執着にも近い何かを感じるのです。
嫌ではないけれど、どうして此処まで求められているのか、分かりません。
偶に向けられる乞うような瞳は、まるで私を欲しているようで。
「と、兎に角、今度からはしちゃ駄目ですからね!」
「ふふ、畏まりました」
ひっそりと歩み寄る予感と現実、それはきっと私に優しさばかりをもたらすものではないでしょう。私の何かを壊すに違いないのです。今まで築き上げてきたものを、壊される、気がして。
私はきっちりお説教をした後逃げるようにジルから離れて走ります。
……変わるのが、怖い。ジルがどう思っていようが私が変わる訳ではないのに、根幹から意識を塗り替えられそうで、怖い。私がどうしたいのかも分からないのに、いきなりそんな事を突き付けられたら、戸惑うしかないのです。
だから、これは私の想像で留めておきたい、です。
「あらリズ、どうしたの?」
取り敢えず色々な感情に押し潰されそうで、それから逃げ出したくて廊下を走っていると、母様に衝突しかけました。
淑女は走るものじゃないわ、と叱られそうなものでしたが、母様は咎める事なく不思議そうに首を傾げるだけ。いつものおっとりとした笑顔はやっぱり母様で、我慢出来ずに母様に抱き付きます。
嫌がられる事は、ありませんでした。
身長差は殆どないですけど、母様はやはり大きく感じます。ぎゅうっと抱き締めて肩に顔を埋めると、何があったのかは聞こうとせずあらあら、といつものように笑うのです。
母様の包容力は無限大とか馬鹿な事を考えられるくらいには、これだけで落ち着けました。でも、この安心感と甘くて優しい香りは離れがたくて、邪魔だとは分かっていてもこのままを望んでしまいます。
「きょ、今日は一緒に寝ても良いですか?」
「ふふ、甘えん坊さんねえ。ミストが夜泣きするかもしれないわよ? それにヴェルフも居るし」
「……夜泣きは良いですが、父様は、その」
「ヴェルフに言えない相談があるのね?」
「……はい」
……こういうお話は、父様には聞かせられません。恥ずかしいし……男性の意見も聞きたいですけど、流石にそうしたら情報漏れ過ぎますし。
母様なら、相談出来るかなって。
でも無理だったら諦めようと「駄目なら……」と最後は濁しておくと、母様はふふっと、非常に可愛らしい笑み。
「じゃあヴェルフには別の部屋で寝て貰おうかしら。娘の相談ですもの」
「大丈夫なんですか?」
「大丈夫よ、私が言えば。追い出しておくわ」
母様が一家の頂点に立っている気がして来ました。
「ふふ、リズと寝るなんて久し振りね。いらっしゃい、女だけでお話ししたい事もあるでしょう?」
「……はい!」
母様の優しさと器の広さに感動しつつ、私は自然と浮かんだ笑顔のままに頷きました。
……後で父様にはフォロー入れておこうと思います。
寝る準備を整えて完全にお休み前の状態で二人の寝室を訪れると、文字通り追い出したらしく母様とミストだけが居ました。……多分父様ルビィに慰めて貰ってるかと。それでしれっと毒を吐かれていそうな。
ちょっと笑えない図を想像して苦笑する私に、母様はいつもの笑顔で手招き。
母様も後は寝るだけらしく、束ねていた髪を下ろしていました。ゆったりとした寝間着姿は同性から見ても可愛らしく、清楚な色気があります。
隣に腰を下ろした所で、父様が見たらそっくりって言ってくれそうだなあとか思ったり。まあ母様の方が数倍美人ですが。
「……それで、どうしたのかしら?」
一緒に横になった所で、本題に入ります。
正直、母様には何となく見抜かれているような気がするのは気のせいでしょうか。母様の勘は恐ろしく鋭いので、私やジルの様子や空気から何となく騒動は見抜いている気がします。
父様でも分かるくらいですから、母様なら尚更。
「……その、もしも、ですよ? 人から好意を持たれる、とか感じる事があったら、母様はどう接すれば良いと思います、か」
「あら、リズも人気者ねえ」
「ちゃ、茶化さないで下さい、もしもです!」
それでも一応説明しようと思って質問を明確にしてみれば、母様はいつもの笑顔にちょっとからかうような色を含めて微笑みます。
「ふふ、ごめんなさいね。そうね……リズがその人の事どう思ってるかにもよるかしら」
「……私が」
「リズはどう思ってるの?」
「頼りになって、優しくて、凄く信頼出来る人……あっ、これは例えなのですよ!」
此処はちゃんとぼかさなきゃ、と思って最後に付け足すも、母様は全てを見抜いているかのように意味深な笑み。
母様には隠し事は出来そうにありません。あらあらうふふで全部見抜かれてしまいそうです。
「そうねえ、リズはどうしたい?」
「……分からないから、聞いてます」
どうしたいのか、分かっていたらこんなに悩みません。男の人を意識するのなんて久し振りですし、それが近しい人だから、尚更。
確定はしていないけれど、でもそれに近い感情は抱かれている。それが何となく分かるからこそ、こんなにも困っているのです。
好意を寄せられるというのは、私にとって凄く苦手な事。純粋なものは拒絶出来ないから。それに、近すぎてどうしていいのかも分からないのです。
私の気持ちすらはっきり分からなくてもどかしいのに、好意を抱かれても私の中で処理が出来ません。
「リズはその人の事、好き?」
「異性的かは分からないですけど、そりゃあ」
……好きって区分を明確に分ける事が、私にはまだまだ出来ない。何処から何処までが信頼の好きで、何処からが異性としての好きなのか。
あまりに近くに居過ぎて、その区分が曖昧なのです。ジルと、例えばセシル君への好きは違うものなのか、それすら分からない私は本当に情けない。どちらも同じくらい好きなのに、これは恋なのか友情なのか信頼なのか名前を付けてあげられないのです。
「……そうねえ。私からはやっぱり答えはあげられないわ。リズの心だもの」
「……うう」
やっぱりそうですよね、と肩を落とした私に、母様は穏やかに頬を緩めて「私から言えるのは」と続けます。
「もしその人から好意を口にされたら、ちゃんと答えを出してあげてね。曖昧に濁さないであげて。時間をかけてもいいから、答えにして」
「……逃げたくても?」
「ええ。……リズはきっと、リズが知らないだけでまだ想う人も居るから」
「趣味悪くないですか」
……ジルは微妙に分からないですけど、あと殿下とかですよね。失礼ながら殿下の趣味が悪いのは私の中で決まってる事です。
何で私をずっと想い続けられるのか、私には分かりません。……こんな、可愛くない女。酷い女。もっと素敵な令嬢なんて一杯居るのに。
「ふふ、じゃあ私を選んだヴェルフも趣味悪いかもしれないわ。ヴェルフの場合は結構強引だったから」
「と、父様が?」
「ええ、私を庇った時に告白されたのだけど、傷を治した後にもう一度告白されて無理矢理キスされたのよ」
あ、あの紳士でフェミニストな父様が、無理矢理?
「今の父様からは想像つかないです」
「思わずひっぱたいちゃったけど」
「か、母様激しいですね……」
「ふふ、あの頃は若かったわ」
そう言って懐かしむように瞳を細めた母様、私の視線に気付いて悪戯っ子のように茶目っ気たっぷりにウィンク。
その顔は凄く可愛らしいのですが、母様話した事結構えげつないですよね。絶対手加減抜きの張り手だったでしょう。
「……まあ私もそれなりに言い寄られてはいたけど、結局ヴェルフを選んだし、後悔はないわ」
引き攣る私に母様はそう言い切って、穏やかな笑み。……母様は、父様とは違う強さがあるなあと、やはり思い知らされます。
父様がどっしりとした強さなら、母様はしなやかな強さ。こんな女性になりたいと常々思っているのに、実際の私はへにょへにょで弱っちいのです。どうしたら二人みたいに強く自分を保てるのでしょうか。
「リズもその内気持ちが分かるようになるわよ。本当に好きな人が出来たら」
「……好きな人」
「愛しくて、側にいて欲しいと、自分の全てを捧げたいと、支えてあげたいと思えるような人間が現れれば良いわね。……リズが気付かないだけで、もう現れているかもしれないけど」
「……うー」
そんな人都合よく現れるんですか、と唸る私は、まだまだ幼いのかもしれません。というか何で私こんなにも幼くなっているのでしょうか、きっと体に馴染み過ぎたせいでしょう。
……私、こんなに恋愛で悩むような、人間じゃなかったのに。
母様の言う男性は私に現れるかなんて分からないですけど……そんな人が居たら、私はきっと全部をあげてしまうのでしょう。
「ふふ、まだ時間はあるからゆっくり考えなさい。でも早く決めないと、ヴェルフが決めちゃうわよ」
「……まあ政略結婚ならセシル君ですし、異存はないですけど」
セシル君は嫌がりそうですけど、別に私は人として彼が好きなので伴侶としては素晴らしいと思います。恋心がいまいち分からないけど恋愛結婚が良いと思う私も居るけれど、愛なんて後で育まれれば良いものだから父様に従うべきと割り切ろうとする私も居る。
……だからこそ、こんなにももどかしいのですが。
「私はリズが本当に望む人となら、余程じゃない限りその人と結ばれて欲しいわ。ゆっくり考えなさい」
「……はい」
まだ好きな人も分からなければ好意にどうしていいのかも分からない私に、結婚なんて先の話ですけども。
それでも、そんな人に巡り会えたら良いのにという思いを込めて頷くと、満足そうな母様。
「ふふ、親離れも近いわね」
「……でも、ずっと父様も母様も好きです」
「あらあら。私もリズ大好きよ」
「はいっ」
微笑んで私を抱き締める母様。
暖かくて甘い匂い、心地好い柔らかさ、澄んだ声。
全部快眠の条件に繋がっていて、私は母様の腕の中で急速に眠りに落ちていきました。
起きたらいつの間にか入ってきていた父様が「天使が三人居る」と訳の分からない事を呟いていて、母様を呆れさせていました。因みに私的には母様は女神だと思います。