もやもや
私もジルも、爵位を賜りましたけど、正直な所特に欲しいとは思いません。子爵を名乗る事を許されても、あまり名乗る気はしませんでした。今まで通り侯爵家令嬢の扱いで充分ですし。
領地に至っては正直要らないです。管理とか面倒という気持ちで一杯ですね。勿論領地経営で収入とかもあると分かっているのですが、これといって欲しいものなどない私にお金が増えても仕方ないという。魔導院の給金で欲しいものは粗方手に入りますから、尚更。
ジルはジルで領地は要らなそうです。爵位はまあありがたく頂戴しているそうですが、領地経営は国の管理官に任せっきりだそうで。
一応様子は見に行くそうなので、私も領地の様子くらい偶には見に行かないといけないのでしょう。特産物をちょこっと持って帰る、くらいで良いや。
そんなこんなでちょこっと立場改善なジル。でも従者は止めようとしません。これからも私に仕える、と宣言してくれました。
離れないのは嬉しいのですけど、申し訳ないのと、……ちょっとだけ、困った事が。
……あれから、ジルの顔ちゃんと見てない。だって、何か……顔を合わせにくい、というか。
何で、こんなにもやもやしたままなのでしょうか。あの瞳で見つめられる事が、怖い。自分が自分でなくなってしまいそうで、おかしくなりそう。ジルという存在で塗り替えられてしまいそうで、それがやっぱり怖かった。
お陰でいつもみたいに手を握ったりする事はおろか、近付く事も躊躇ってしまいます。またあんな瞳を向けられたら、どうしていいか分からなくなるので。
嫌ではないけれど、自分でも知らない自分と、私の知らないジルが出会っているような錯覚。
それがどうももわもわしてしまって脳裏に変な光景がちらついては、 頭の中で靄をかける私とその光景を想像する私が喧嘩していました。
あのままジルが口付けて来たら、とか。よく考えればあの体勢はキスする手前、だった訳で。
……ジルが、私にキス?
いやいやいや、一回……まあ二回ですけどした事ありますが、あれはあくまで慰めの為ですし。今回のは私が慰める必要など何処にもありませんし、そもそも私はまだ子供な訳でジルがどうこうしたいとか思う対象から外れてるでしょう!
だからそんな、……私を女の子として見てるとか。
さっきからこんな事ばかり頭の中で問答しているせいで、制御が甘いのは自覚しています。魔力制御の練習をしているというのに雑念を混じらせてはいけない、それは分かっていますけども。
……ジルが、あんな顔するからいけないんです。
「リズ様、集中して下さい」
「ひゃ!?」
形容しがたい感覚に唸りながら制御訓練を積む私に、俯いた顔を覗き込むようにジルは中腰見上げて来ます。その時の私の顔といったら、驚き過ぎてとてつもなく歪んでいたのだと思います。
まさかその本人が現れるなんて、考えてなかった。落ち着かせる為にもと一人で練習すると言って訓練室に来たのに、何で心を乱す本人が来るんですか……!
慌てて飛び退こうとして、でも突然過ぎて脚がもつれてしまって、ひっくり返りそうになった所をジルに引き寄せられます。それだけで全身の熱が顔に集まって来て、心臓がばくばくと暴れるように跳ねていました。
ジルは支えてくれただけ、それは分かっているのに、どうしてこんなにも自分はあわてふためいているのでしょうか。いつも感じていた筈の、引き締まった感触とジルの香りが無性に恥ずかしくて堪りません。
「危ないですよ、どうしたんですか今日は」
心配そうに声をかけて来るのにも、唸り声しか返せていません。平常を保とうとすれば保とうとする程、頭がぐちゃぐちゃになってしまいます。
何でこんなに意識してるのですか、ジルは従者で、家族なのに。
ろくに返事をしない私をどう見たのか、ジルは少し困ったような吐息を溢しては俯く私の頬に大きな掌を添わせます。でもこの前の事を思い出しては逆効果になっていて、押し黙るしかありません。
ジルはジルで無言の私を訝っているらしく、そのまま掌を滑らせて私の前髪を上げ、……自分の額とごっつんこさせて来ました。ひゅ、と息を呑んだのも束の間、私の顔の赤らみを確認してはじいっと至近距離で見詰めて来るジル。
「また体調悪いのですか?」
「……っ」
おかしい、この距離に来る事がなかった訳ではないのに、何で、こんなにも……恥ずかしいのですか。
一瞬にして許容量限界を迎えたと察した私は、爆発する前にジルの胸をどんっと押して離れます。取り敢えず離れたかった、近くに居たら私がおかしくなりそう。もう既に大分おかしいですけど、何か駄目!
全身が反抗期で意思に逆らうように顔に熱が集まって心臓が煩い。落ち着け、と言い聞かせても逆効果で、逆にジルを意識してしまう始末でした。
深呼吸しながらジルをちろりと窺うと、何処か寂しそうな曖昧な笑み。あ、と間抜けな声を漏らしてしまったのは、捨てられた子犬みたいに見えたからでしょう。
ご、誤解を招いている気がします。これは決してジルの事嫌いになったから突き飛ばしたとかじゃなくて、私の精神に安寧をもたらす為に自衛的にしてしまった事であって、拒む為とかじゃないのに。
「ち、違うんです、ジルが嫌になったとかそんなのじゃなくて、……今ジルと顔合わせたら、私が変になっちゃいそう、で」
慌てて訂正すると、ジルは少しだけ首を傾げては不思議そうな顔。
「と、申しますと?」
「……っ、し、心臓が、おかしくなりそうだから、当分触らないで下さい。時間を置いたら、落ち着く、から」
今、普段みたいに抱き付いたり抱き締められたりしたら、私が変になってしまいそうです。嫌じゃないのですが、とても恥ずかしい。いつもみたいに触れたいのに、羞恥と何かがそれを遮るのです。
此方は真面目に恥を忍んで暴露しているというのに、当の本人は何故か吹き出しています。
「なっ、何で笑うんですか!」
「い、いえ……それを私に言って良いのですか?」
「言わせたのジルでしょう!」
ジルが悲しそうな顔するから、本当は言いたくなかったもやもやと動悸を言ったのに、何で笑われなきゃいけないんですか。
くすくすと相好を崩して笑っているジルは、先程の翳りなど何処にも見当たらず、寧ろ淡く光っていそうなくらいに楽しそう。何というのでしょうか、長年の重石が取れて晴れ晴れしたような表情というか。
何だか、面白くないです。私だけもやもやしてるのに、ジルは実にすっきりした表情だなんて。
「ふふ、本当に可愛らしい御方ですね」
「褒めてない気がします」
「真面目に褒めましょうか?」
「結構です!」
ぜ、絶対にからかわれてる……だってジル、愉快で仕方ないって感じの笑みですもん。朗報を受けた後のハイテンション、って印象です。ジルがハイテンションなの見た事ないですけど、何となく少しだけ上がっているのかなって思えるくらいです。
むうー、と頬に空気を含ませた私の心臓は、大分落ち着いていました。うん、いつも通り。どきどきももう殆どないし、これならいつも通りです。
そもそもジルがあんな顔をするから意識してしまうのです、……瞳の奥に宿る、男という性を意識させる眼差しとか。
膨れつつも安堵しては頬を和らげた私に、ジルはきゅっと顔を引き締めて、少しだけ歩み寄ります。距離にして50㎝程開けて、触らないでという命令にはきっちりしたがって、近付いていました。
「……リズ様」
「な、何ですか」
「くれぐれも、さっきの可愛らしいお顔は私以外の人には見せないで下さいね」
「……顔を見せるなというお願いは叶えるのが難しいというか」
仮面でも着けろというのでしょうか。
首を傾げている私にジルは何故か苦笑してしまって、「まあ良いですけど」と勝手に自分だけ納得しております。
「それと、……リズ様だけがおかしくなりそうな訳ではありませんよ」
「え?」
「リズ様の言葉や仕草や表情は、私の心臓にも悪いです」
柔らかな笑みに熱を滲ませて、そっと囁くジル。少しだけ悪戯っぽく微笑みかけては、自分の心臓に手を置いています。
……ジルも、心臓どきどきしてるの?
そっと手を伸ばして自ら命令を破って触れると、平常よりも早い鼓動が服越しに伝わって来ます。とくんとくんと、心地好い心音。それが、何だか私にまで伝わってきて、また私の心臓も少し早くなっています。
お互いの鼓動が普段より早い事が何故か無性に恥ずかしくなって、ちろりとジルを見上げるとばっちりと翠の視線と合います。
穏やかな笑みに紛れもない熱を孕ませたジルに、見ていられなくて慌てて顔を俯かせると薄い苦笑がつむじに落ちてきました。
「……本当に、可愛らしい御方だ」
つい触れたくなる。
そう静かに続けては私の甲に掌を乗せて、きゅっと絡めて来るジル。嫌じゃないけど、……またジルのせいで変になりそう。ジルのばか。
でもそれを口に出すのも憚られて、ただ俯いてやけに大きくて早い鼓動に耐える事しか出来ませんでした。