帰って来た日常
気付いたらベッドで寝ているなんて、よくある事です。気を失って気付いた時にはベッドから天井を眺めるという事に慣れるのもどうかと思いますけどね。
温かなベッドと側に置いてあるくまのぬいぐるみは、間違いなく自分の部屋だと証明しています。
いつの間にか戦場から帰って来ていたみたいですね。この温もりは懐かしくて、元の日常に帰って来たのだと思うと感無量です。
でも、どれだけの時間意識がなかったのでしょうか。
「気付きましたか?」
今までずっと緊張感に晒されていたせいか、ぼんやりと天井付近に視線をさまよわせていると、ひょこっと顔を見せるジル。
ずっと、側に居てくれたのでしょう。顔を少し捻ると、水の入った桶と布が置いてあります。そういえば体が少し熱っぽい気がしますね、あの後疲れで熱でも出てしまったのでしょう。
内側にもやもやする熱は、嫌なものではありません。勝利の結果発生したものなので、これを否定する気にもなれませんし。
それに、何だかぽかぽかしてるの、嫌いじゃない。勿論体は怠いのですが、こう、血管が拡張されてるみたいな感覚があるんですよね。内側から新しく作り直されてるような、そんな錯覚さえ覚えます。
「安心して下さい、魔物の脅威は退けましたから。他の群れも無事討伐出来たみたいです」
熱と安心感にぽーっと思考がふわふわした状態な私に、ジルは知りたかった情報を何も言わずとも教えてくれました。流石私の従者。
一応、片付いたみたいですね。少なくとも私達が向かった大群は普通に討伐して残りは凍り漬けにしておきましたから。
残ったのも皆さんの手で討たれたでしょう。ジルが群れの中でも抜きん出ていたであろう翼竜をぶちのめしていましたし、そこまで危険でもなかった筈です。
「……父様達は無事?」
「騎士団の詰所に行かなければ分かりませんが、少なくともヴェルフ様やセシル様は無事です。後処理に疲弊していましたが」
「ふふ、それなら良かった」
魔物を殺して死骸を放置しててもいけませんからね。他の魔物を呼び寄せる事になりますので、焼却するか土に埋めるかのどちらかをするより他ありません。
ジルもそれはお手伝いして来たみたいです。
でも、本当に、平穏が訪れたのですね。今頃父様は大忙しなんだろうなあ、主に魔物の処理やら被害の把握やら何やらで。
現地に立って指揮している方が父様らしいとは思うものの、書類と睨めっこですね。それか何事も現地からと抜け出して救援していたり。
多分後者の方が有り得そう、そしてセシル君に連れ戻されて怒られる、と。セシル君父様には遠慮ないですからねえ。
想像すると何だか面白くて、喉を鳴らして笑いつつ体を起こそうとして……やっぱり、上手く動かない事を思い知らされます。
反動は、私が思っていたよりも大きかったみたいです。でも、熱は反動だけではない気がするのですよ。凄くじわじわと内側から熱くなって仕方ない。
しかも気怠さと混じるから、余計に動けません。
「魔力一斉放出の影響でしょう、慣れていない事したからです。少し体も弱っていらっしゃいます。安静にしていて下さいね」
無理に起きようとすればジルに止められる事も経験で理解しているので、一先ず止めつつジルを見上げます。
ジルは心配そう、というより仕方ないなあといった柔らかい笑み。もう危機は乗り切ったからこそ、こういう表情なのでしょう。
横になるしかない私に、するすると髪を撫でて甘やかしてくれます。この心地好さが日常に戻ったと何よりも私に染み渡らせてくれて、幸せで堪らない。
ずっとこうしていたいと思えるくらいに、ジルに撫でられるのは好きです。ジルに触られて嫌と思う事なんてなかったですけども。
「……本当に無茶をしでかすお人です。お説教は元気になってからですね」
「うー……頑張ったのに」
全く、と何処か呆れたように溜め息をつかれたので、だって、と言い訳を始めてしまいます。
守りたかったんだもん。私に出来る事があったなら、するに決まってるじゃないですか。私が頑張ったら皆傷付く事がないと分かったら、頑張るに決まってる。守られてるだけの子供じゃ、ないですもん。
ぷくっと頬を膨らませては風船を拵える私に、ジルは苦笑い。指先で頬をつついては空気抜きしてくるジルに、何だか物凄く子供扱いされてる気分です。
「頑張ったのは認めますが、頑張り過ぎです。お陰でリズ様は死にかけたし、体も弱っています。それにリズ様も大変な事になっていますから」
「体調はその内戻るのでしょう?」
「……体調なんかよりも面倒な事になっているのですけどね」
この倦怠感と熱は一過性のもの。時間が経てば普通の体調に戻る筈です。
だというのに、ジルの表情は浮かないまま。何か私の知らない所で問題が発生しているような気がして、どうしたのかとジルを窺っても答えてくれません。ただ、私に仄かに困ったような笑みを浮かべては頬を撫でるだけ。
「まあそれは私が気を付けますが……今はゆっくりなさって下さい」
「……はーい」
こうなるとジルは白状してくれないのは分かってるので、素直に諦めて大人しくしておきます。
私の体が熱を持っているから、ジルの指がひんやりしているように感じて気持ちいい。低体温な私がジルよりも熱いなんて滅多にないんですけどね。
ふにふにとあやすように頬をなぞられるのが擽ったいけど気持ちよくて、熱のせいもあって締まらない頬。改めてジルに甘やかされるの好きなんだなあって思い知らされます。
本当はこんなにもべったりだといけないんですけどね、寄り掛からせてくれるから、つい甘えてしまうのです。死んだらもうこういう事出来ないと思うと、怖くて仕方なかった。
「……ジル、抱っこ」
「はいはい、リズ様は甘えん坊ですね」
「誰が甘えん坊にさせてるんですか」
砂糖の衣を纏わせるように私を大切にくるむのは、ジルです。何なら綿菓子に包まれているレベルでふわふわとろとろに甘やかされてます。
箱入りお嬢様も目じゃないってくらいに、多分父様よりも私に愛情を注いで庇護している。それは、本当にひしひしと伝わって来ました。
それは嫌じゃないし、嬉しいです。
でも、実感してより深く受け入れていく度に、もぞもぞするというか、羞恥が襲って来ます。大人に近付けば近付く程、この名状しがたい感覚の比率が増していて。
恥ずかしくて、嬉しくて、何だかほわほわしてしまう。ジルが甘やかし過ぎなせいか、内側にまで甘くてとろとろしたものが侵食して来ている気がして、何だかちょっぴり怖かったりもします。自分じゃなくなるような、大きな衝動を内包している気がして。
「……リズ様は、軽いですね。だから吹き飛ばされてしまうのです」
私を優しく抱き起こしたジルは、私の望むがままに胸に凭れさせてくれます。
とくとくと一定のリズムを刻む鼓動は、酷く落ち着く。その癖何だか体勢がむずむずする我が儘っぷりを発揮するものだから、自分の感情の不安定さに悶々してしまいますね。
「吹き飛ばされたのは仕方ないというか……疲労困憊の状態で一発目を避けられた事自体が奇跡です」
「次から単独行動は控えて下さいね、何かあっても側に居なければ守れませんから」
「はぁい」
ジルが居なかったらまず今頃はワイバーンさんの胃の中で消化されているので、反抗出来る訳もなく良い子なお返事。
今此処に生きてべたべた出来るのも、ジルの尽力あってこそ。感謝しかありません。
「……ジル、助けてくれてありがとう」
「当然の事です」
「ふふ、ジル、すっごく格好良かったですよ。物語のヒーローみたいでした」
あの時私を危機一髪で助けてくれたジルの姿は、私にとって救世主でもあり、女の子憧れのヒーローの姿にも見えました。
お姫様の危機的状況に果敢に立ち向かってお姫様を助ける、そんな素敵な勇者様。私に現れたのは、随分と身近で過保護な勇者様でしたけども。
心配性な勇者様は、私を抱き寄せては少し困ったような笑顔。微かに頬が赤くなっているのは、褒められたからでしょうね。
「私は、あなたのヒーローで居る事が出来ましたか?」
「はい。……ジル、ちょっと耳貸して」
ちょっと自分じゃ動けないので、ジルにお願いして顔を貸して貰います。何の疑いもなく顔を近付けて来るジルに、少しだけ微笑んで。
少し赤らんだ頬。男の子なのにきめ細やかな肌を眺めて、少し躊躇して……自分の唇を、押し当てます。
父様や母様、ジルやルビィと愛情を注いでくれる人達にされた事はありますが、自らする事なんて殆どなかった行為。肌が触れただけなのにじわじわとせり上がる熱は、顔に一杯広がっては赤色を主張している事でしょう。
凍り付いたように固まるジルに、照れ隠しではにかんでみせ。
「……ごほーび、になりましたか?」
お姫様を助けた勇者には、お姫様から感謝のキスを送られるって話はよくあると思うのです。
まあ私がお姫様になるのはまずないですが、クルツさんもキスで労ってくれたら嬉しいって言ってましたし。ジルは嫌がらないと思うのですよね、偶に瞼とか頬に口付けして来るし。仕返しなのです、うん。
……じ、自分でも何でこんな恥ずかしい事してるんだろうとか後から羞恥が湧いて来ますが、やってしまった事は取り返しが付きません。
フリーズから解放されたらしいジルは、私をぎゅむっと抱き締めてはぷるぷるしています。私は当然ジルより小柄ですし、女の子の平均身長で言えば平均にすら届いていません。
そんな私がジルにがばりと抱き締められてご覧なさい、何かぬいぐるみか何かを愛でているような光景になってしまいます。というか愛でられているのは比喩ではなく、ジルらしくなくぎゅうぎゅうして来て体が熱い。
「ジル、居るか?」
コンコン、とノックの音がするまで抱き締められていて、ドアの前に人が立っていると気付いた時には飛び上がりそうになりました。
今の今までジルが密着していて、普段は自分からくっつきに行くのに、今日は何だか無性に恥ずかしくて擽ったかった。ジルがぎゅーってしてくるから、らしくないですけど凄くどきどきしてしまって。
体を離しては名残惜しそうに、でも何処か安堵するような表情なジルに、もわっと変な感覚。……もうちょっと、くっついていたかったのかな、なんて。
「はい、リズ様も起きていますよ。どうぞ」
打って変わって落ち着いた声音のジル、入室の許可を本人の承諾なしにしています。いやまあ良いですけど、少し頬の紅潮を抑える時間が欲しかったというか。
律儀に返事を待ってから扉を開けたセシル君は、私の熱っぽい顔を見ては眉を寄せています。言葉にせずとも「何で寝てないんだよ」と視線で伝わって来る辺り、彼は彼で心配性なお兄ちゃんな気がしますね。
「大丈夫なのか」
「こ、これはまた別件なので。セシル君、後処理お疲れ様です」
ジルの手が背中に回って支えてくれているのを感じると微妙に恥ずかしいものの、心配させてはなるまいとなるべく笑顔で答えます。
微妙に何があったのかは察したらしいセシル君、呆れた眼差しをジルに注いでいますが、ジルは何処吹く風です。というか掴めない笑みを浮かべているというか。
「……思ったよりも、元気そうだな」
「まだ本調子ではないですけどね。自分じゃ全く起き上がれないですし、熱があるので」
頬の熱は先程のハグと自分の思い付きのせいですけど、元から熱はありました。多分起き上がってたらいけないんだろうなあ、とは思いつつもセシル君とお話したいので体は起こしたまま。
「……大丈夫か?」
「ええ。心配をおかけしました」
「全くだ、あほ」
「あうっ」
体の不調は結構酷いですが、精神的には割と元気なので笑ってみせたらデコピンされました。
それだけの衝撃で後ろに倒れそうになって、ジルが支えてくれているものの危うくまた臥せる羽目になりかけでしたね。
病人にする仕打ちではないですが、セシル君も手加減はかなりしていました。それだけ私が弱っているという事なのでしょう。
軽いデコピンに留めたセシル君もこれにはびっくりなようで、途端に申し訳なさそうな顔になってます。
平気ですよ、とへらへら笑ってみるものの、セシル君はまだ申し訳なさそうでした。いつものじゃれ合いが出来ないくらいに体が言う事を聞かないのは、ちょっと辛いですね。
「そうだ、セシル君あの魔術凄かったですね。全力を注いだらあんな事になりました」
気を取り直して、の意味を込めて話題を変えましょう。
私はセシル君に改良して貰った魔術を使って魔物を殲滅した訳ですが、発動した私にもあの結果は想定外でした。まさか一面凍らせるとか思っても見ませんでしたよ。
一応消耗していたので、あの時出せた範囲での全力ではありましたが、大量に魔力を注ぎ込んだのは事実です。
もし、満タン状態からのフルパワーで出してたらどんな事になってたのでしょうか。小さな国なら氷漬けに出来そうで我ながら怖いです。
「……あれ、俺は想定してなかった。最早別の魔術だな、まさかあそこまで撒き散らすとは」
そして制作者のセシル君も仰天な威力だったそうで、若干遠い目をなさっています。
セシル君が私に託してくれたのは、極限まで殺傷能力を上げつつも直接的な損傷を見せない魔術。極寒地獄と例えましたが、セシル君の名付けてくれた『コキュートス』という名称はぴったりですね。裏切者を氷漬けにする訳ではないですけども。
……作った本人があそこまで威力が吹っ飛んでるとは、予想してなかったみたいですね。
「そもそもあの魔術は何ですか、あんな範囲と威力の魔術見た事がありません」
「えーと、あれはセシル君に改良してもらった私用の魔術です。全力で魔力込めたらあんな事に」
使用者の私も改良者のセシル君も想定外な威力。ジルもさぞやびっくりした事でしょう。
その代わりに私は魔力枯渇で死にかけましたし、今も後遺症で体が弱っていますけども。そう簡単に使えるものではないと思い知らされましたね、体に。
まだ万全の状態だったなら、此処まで酷くはなかったでしょう。まさか体がろくに動かせなくなるくらいに反動が来るなんて思ってませんでした。
「つーか全力は止めとけ、反動やばいだろ」
「ですねえ……普段使う事のなかった魔力注ぎましたから。慣れたらそうでもなくなりそうなのですけど」
「それまでやったら慣れるまでに森がかなり犠牲になるぞ」
「そうなんですよね」
よく考えたらあれ環境破壊でしたね、結構大きな。平原だったからまだしも、森で発動してたら木が可哀想な事になってましたねきっと。
練習するにしても外に出ないと駄目ですし、当分先になってしまうでしょうね。そもそも保護者の許可が降りそうにないです。
「お願いですから無理はしないで下さいね。あれは駄目です」
「善処します」
早速保護者からお咎めが来たので、用意していた答えを呟きつつも、あれが私の最大の武器なんだろうなあと思ったり。おいそれと使えない凶悪さですが、範囲を極限まで絞ったら使えない事もなさそうなのですが。
「……はー、ジル、こいつから目を離すなよ」
……何か保護者その四ですねセシル君。父様母様ジルに続いて、結構心配性なセシル君までもが保護者化。誰のせいだと突っ込まれそうなので黙っておきますけども。
「分かっています」
「お前が護りきれないなら、俺がお前の場所に代わるからな。絶対に、護りきれよ」
「え、セシル君が従者になるんですか?」
「どうしてそうなった」
だってジルの場所に代わるって言ったから。
「セシル君がお目付け役なのはいつもの事の気が……」
「怒るぞ」
「いひゃいれふ」
溜め息と共にほっぺたぐにぐにの刑に処されてしまって、呂律の回っていない口調で抗議。それでも何だか優しさを感じる触れ方というか、必要以上に心配したりしないのがセシル君で、そういう所は非常に好ましいと思ってます。
頬が熱かったのか直ぐに止めてくれて、代わりに掌をそっと添えて少しだけ窺う瞳。ひんやりとした感覚にへにゃりと目尻を下げると、仕方ないなあといった苦笑が返って来ました。
「あまり、心配かけるなよ」
「……はい」
「ん。お休み」
最後にほっぺたをぶにっと掴んで不細工な顔にするという、女の子的には悪質ないじめをしたセシル君は、少しだけ悪戯っぽく微笑んで。
随分と柔らかくなったなあと思わせる笑みで私の頭を撫でてから、部屋を出て行きました。……本当にイケメンさんなお兄ちゃんになって来ましたねセシル君。
これで私以外に対するコミュ障が改善されたらさぞかしおモテになるんだろうなあ、と将来の有望性を考えて少し楽しくなってしまいます。
もうジルに届きそうな身長で、男の子っぽさも増したセシル君。これからもきっととてつもない美形に成長するのでしょう。見ている此方が楽しくなりそうですね。
何て本人には言えない事を内緒で考えては内心にまにまっとする私ですが、私の背中を支えてくれていたジルが背後からぎゅっと抱き締めて来て思考が途切れます。
「……ジル?」
「リズ様、……必ずや、あなたの身を護ります故」
「は、はい」
思ったよりも真剣な言葉が耳元に落とされて、擽ったさと戸惑いにちょっとどもってしまいました。
先程とは違ったどきどき。ときめくとかじゃなくて、何だか、ジルが……少しだけ、不安定に思えてしまいます。
包むように、というよりまるで私を逃がさないように、寄り添うというより捕まえて離さないジル。
「どうか……私から、離れないで下さい」
「そんなの、」
「……あなたのお側に、居させて下さい」
……何処にも行かないのに。
それでもジルが不安そうというか、私から離れようとはしなかったので、私はそのままジルに体を預けてジルの気が済むまでくっついておきました。
何処にも行くなんて言ってないのにね。側に居たいのは、ジルだけじゃないのに。
変なの、と言葉には出さずにそっと心に仕舞って、私はジルの腕の中で瞳を伏せました。