極寒と翼竜
この話には残酷描写があります。苦手な方はご注意下さい。
馬鹿正直に一体一体を相手するには、私達の戦力が足りない。子供にでも分かります。
ですが一対多数にするにはその多数が多過ぎるし、多数が多い程私達の手に余る。乱戦に持ち込まれれば不利なのは私達。
ならばどうするか。
森の奥、広がる平原。
今にも此方に到達しそうな魔物達に向かって、分断するように『フレイムランス』を幾つも撃ち込みます。
直接当たった魔物は燃えて焼死しますが、それはあくまで副産物に過ぎません。私の狙いは、火で魔物をある程度の数に分けていく事。
生き物は本能的に火を怖がります、わざわざ火に突進していく生き物も居ないでしょう。撃ち込んだ楔を目印に、更にラインを引くように炎の魔術で分断線と此方への防衛線も引いておきます。
確実ではありませんが、火は迂回しようとするのが殆ど。
それでも突っ切って来たのは騎士様に任せて、残りは足踏みした瞬間を狙って魔導師が魔術で仕留めていきます。私達のように並行発動出来る魔導師は少ないですし、硬直時間が多い魔導師に個別で捌けという方が辛いでしょう。
ならば時間稼ぎと足止めをするに限ります。
火で囲ってしまえば右往左往すると見ていて分かったので、火に弱い魔物の塊には炎の魔術でぐるりとラインを囲って、そこから魔術で確実に殺していく。
『エクスプロード』とかは殺傷能力は高いですが、思ったより範囲が狭い上に消費もそれなりなので乱戦には向きません。あと人を巻き込んだ場合確実に大怪我するのでなるべく避けています。
「リズ、あの塊足止め出来るか」
「やってみます」
セシル君の指示で、あまり炎の効かなかった個体達の塊に『アイスウォール』で字の如く壁を作り、侵攻を阻みます。こればっかりは物理的な物なので留まるしかない魔物達、そこにセシル君が氷柱を大量に降らせて上から串刺しにしていきます。
壁が氷な分向こう側が透けて見えて、びしゃっと透明な壁に紅が撒き散らされるのが見えて堪らずに顔を顰めるものの、私も『アイシクルレイン』で同じように追撃。
剣と違って感触がないから罪悪感は此方の方がないのでしょうが、それでも命を奪っている事には違いがありません。何を今更、分断の時点で私も奪っていたというのに。
震えを堪えて、拘束から逃れて突進して来ようとする魔物は、風の刃で切り裂く。狼に似た形状の魔物が見たくないものを撒き散らして転がるのにも、辛抱しなければなりません。私がした事の結果なのだから、受け止めなければならないのです。
近くに居たセシル君が気遣わしげに此方を窺って来ますが、心配させては駄目だと微笑んでおきました。
魔導師が多ければ、戦うのは楽になる事は当たり前。近付かせさせなければ魔導師の方が威力を出せます。
私達は自分達には絶対に近付かせない事を決めて、魔術を撃ち放つ。騎士様は守るように近付く魔物の仕留める。この連携で、無駄なく立ち向かえます。
「そっち行きました!」
「了解、っと」
包囲網から抜け出した個体を、此方に配属されていたと後から気付いたクルツさんが一閃。それだけで、肉が断ち切られて、魔物は地面に転がります。
いつもはへらへら笑っているクルツさんですが、今ばかりは真面目な顔付きで攻めて来ている魔物の姿に目を細めていました。それだけ危機的状況な訳で、ふざける余裕もないのでしょう。
「しっかしまあ、多いねえ。今は捌けてるから良いんだが……おじちゃん、腰が辛いわ」
「……気休めですが、疲労回復の術かけましょうか?」
「ん? 良いよ良いよ、それより数減らす事に使ってやれって、……っと」
喋ってる合間にも狼のような魔物が来て、剣で横に薙ぎ払っています。致命傷でなかったらしく起き上がろうとしていた狼に、容赦なく叩き込まれる鉄の塊。
噴き出す鮮血にはなるべく視線をやらないようにしつつ、次に来た魔物の迎撃に移ります。
『フレイムランス』で魔物の体を炎の槍で貫かせては、風の魔術で燃えている体を邪魔にならない位置まで吹き飛ばす。その辺に転がっていると邪魔になるのは分かりきっていますし、クルツさんに引火しても困るので。
クルツさんはふう、と溜め息をついては僅かに出来た休息に、剣を振って簡単に血と肉片を落とし、それから布で拭っていました。みるみる内に、乾いた赤褐色に鮮やかな赤色が滲んでいって、それだけでこの戦いがどれだけの命を奪っているのか実感してしまいます。
「疲労回復の術式より、リズ嬢ちゃんの熱いベーゼの方が回復するかもなあ」
「頬くらいなら恥を堪えてしても良いですが、後でどうなっても知りませんよ」
「従者さんが睨むからなあ。おー怖い怖い」
危ない綱渡りをしている最中ですが、茶目っ気は少し出ているクルツさん。多分、私の事を気遣っているのでしょう。私のような慣れていない子供の緊張をほぐす為に。
気を遣わせてしまう程に私の顔は強張っていたらしく、掌で頬を挟むと酷く固まってがちがちなのが分かります。それに加えて、冷たい。血の気が失せているように、ひんやりしていました。
「……ジルも、過保護ですからねえ」
「はは、あれは過保護って言うよりも、……まあこれ以上は怒られそうだから言わんが。リズちゃんも愛されてるなあって話だな」
「父様達に愛されてる自覚はあります」
私は随分と心配されているんですね、皆に。今もクルツさんが気負わないように話し掛けてくれて、私は助けられてばかりです。
……もっと、頑張らなきゃ。心配されないようにしなきゃ。
血に怯えている場合じゃない、そう呟いて、掌で頬を叩いて強く前を見据えました。
暫く攻防を続けていますが、数は減ってはいるものの私達も疲弊しています。私やジル、セシル君はそうでもないのですが、先発隊や騎士様方は辛そう。
特に騎士様は分かりやすく肉体的な疲労を伴う分、魔導師より辛いでしょう。魔導師は余程使わない限り肉体に深刻な影響は及びません。使いきったら昏倒する場合が多いですね、過去の私のように。
「これではキリがありませんね」
「じり貧で此方が消耗するばかり、まあピンチだな」
喋りながらも向かって来る魔物を魔術で倒していく二人。彼らだから出来ますが、普通はこんなに平然とした顔はしていられません。
それでも二人にも焦りの色は分かりやすく窺えます。状況が不利な事は、この場に居る私達が誰よりも分かっています。
「何分数が多過ぎますからね。大群は捌くのが大変です」
「一気にやろうにも、魔術の威力がそこまでないからな。広範囲といっても限りがあるし」
セシル君が肩を竦めて呟いた言葉に、私は俯きかけていた顔を上げます。
一気に、魔術で?
……出来たら苦労しないと続けたセシル君ですが、……よく考えてみましょう。広範囲に、高威力の魔術を、塊にぶつけられたなら、形勢逆転は可能という事ですよね。
そうだ、その手がありました。
「……この魔物達、全部一ヶ所に集められませんか?」
「一ヶ所に、ですか? 上手く誘導出来れば可能かと……」
今まで倒しやすくする為に分けていた私の口から真逆の言葉が出た事に、セシル君やジルは僅かに訝ります。
ある程度の塊が押し寄せていたから波と表現しましたが、実際は幾つかの大群が分かれて襲い掛かって来ているのです。その一つを私達が相手していました。
その一つの塊だけではなくて、出来ればロランさん達が相手をしている魔物も含めて全部を塊にしたいのです。流石に父様達が居るのは此方ではないそうなので纏められませんが……この方角に居る全ての魔物を、集めたい。
本来ならば手がつけられなくなりますし、一網打尽にしようとも威力が足りなくて一部を削るのが関の山。
ですが、手段は一つだけ、あります。
「じゃあ一ヶ所に集中させて下さい。なるべく見晴らしの良い、……そうですね、あの崖から近くで眺められる所に」
平原が広がっていますが、元々森が開けた所であり、多少の起伏もあります。私からすれば結構離れた場所に、山が削れたような崖があって、高さはそこまでではないですし断崖絶壁とは言えないようなものですが、魔物を見渡すには充分でしたた。
その崖を指差す私に、ジルは視線を動かして崖を見て、さらにその下を見ては眉を下げます。崖の直下に集めろとは言いません、なるべく近くに見える範囲で集めて欲しいのです。出来れば全員に協力して貰って。
「中々無茶を仰いますね……」
「やっぱり無理ですか?」
「いえ、何とかするのが私ですから」
私の無茶振りにも何とも頼もしいお言葉を返してくれたジルに、ちょっとだけ頬を緩めます。
「……お前」
セシル君は私が何をしようとしているのか分かったらしく、驚きつつも何処か困ったような、それでいて得心したような表情。
止めようとしないのは、今この状況が私達にとって不利だから。打開するには、一気に攻勢に出るしかないのです。
「大丈夫、任せて下さい。……もう、傷付いて欲しくないから」
本当なら、これが初実戦の小娘が考えた作戦ですらない思い付きは、却下されるべきでしょう。不安定要素だらけなのだから、尚更。
幾つもの前提条件と運の要素、そして私の実力全てが上手く噛み合わないと、無意味となるこの考え。それでも、セシル君は直ぐに拒みはしませんでした。
私が出来るかすら危うい事を知っていて、それでもセシル君は受け入れるように頷きます。
「……失敗したら、お前当分書類整理な」
「いつもの仕事じゃないですか」
「だったら紅茶淹れ係からやり直しだ、……信じてるから、頑張って来い」
生きて無事に帰る事前提の励ましに、私が表情を和らげて首肯すると、セシル君はふと手を握って来ます。
心配して引き留めるようなものかと思いきや、セシル君の表情は真剣そのもの。
「リズ、お前俺に魔力渡した事あったよな」
「ええ、あまり出来る人が居ないそうですけど……。でも私、今渡す事は」
「違う、俺の少し持っていけるか?」
「え、でも、セシル君疲れてるし、濃さが」
「お前の中で勝手に薄まるだろ。……良いから補給していけ、少しでも多い方が良いだろ」
ぶっきらぼうに呟いて強く握って来たので、拒めないな、と申し訳なく思いつつもありがたく魔力を分けて貰います。
魔力を同調させるのは中々に骨が折れますが、セシル君は一度経験がありますし、私の体質には合っているらしくすんなりと受け入れる事が出来ました。
温かくて優しい魔力なのは、直接流し込んだ私だから、分かるのでしょう。この優しさと気遣いに感謝して、骨折り損にならないように頑張らないと。
「リズ様、まさか一人で」
「大丈夫、頑張れます!」
引き留めようとするジルに、微笑んで抱き付きます。
私、ジルに護られてばかりだったけど、今日くらいジルを助ける側になりたい。いつも護ってくれたジルや、セシル君、皆を、護りたい。
「ジル、誘導と伝達お願いします。……皆に、私にチャンスを下さいって」
「リズ様……」
「ジル、いい加減リズを信頼してやれ。……リズ、やれるじゃなくてやるんだろ?」
「はい!」
頷いて、私はゆっくりとジルから離れます。
ジルは少しショックを受けていたみたいでしたが、セシル君が背中をバンと叩いて我に返ったらしく、如何にも心配そうな眼差し。それでも私を無理に引き留めないのは、私を信じてくれたからと、私は信じていますよ。
未だに戦闘が続くこの場所に居る全員に向けてお辞儀をしてから、私はあの崖に向かって走り出します。道中襲い掛かってきた魔物はちゃんと倒しつつ、ジルが伝達してくれる事を、皆が私を信じて誘導してくれる事を信じて。
頼みましたよ、と小さなジルの呟きが去り際に聞こえた気がして、私はもう聞こえていない事を承知で任せて下さい、と同じように返しました。
偶に魔物に襲われながらも、必死に走って崖まで辿り着き、斜面を登って行きます。
正直山登りすらした事のない小娘には辛いものがありましたが、今皆が頑張ってくれてる、ジルだって伝達に走ってくれてるのだと思うと、足を止める気にはなりません。
慣れない運動に心臓がばくばくと暴れていますが、きっとこれは重圧のせいでもある。私が失敗してしまえば多大な被害が起こる。そもそも皆が私を信じて一ヶ所に集めてくれるかも分からない。
任せて貰えない可能性の方が大きいから、登る間は一人ぼっちの不安と重圧、徒労に終わるかもしれない恐怖で胃と胸が締め付けられそうでした。
木の間を登り、転びそうになりながらも漸く頂上付近まで登りきって、辺りを一望できる位置にまで来て。暴れ狂っていた心臓を落ち着けようと、ゆっくりした歩みに変えます。
急に立ち止まる方が苦しいので歩きながら息を整えつつ眼下の争いを眺めて、少しだけ安堵してしまいました。
運動不足を痛感させられる出来事でしたが、どうやら無駄にはならなかった模様。
ジルがロランさんに伝達してくれたのか、騎士様や魔導師様が魔物の群れを追いやるように近くに誘っているのが、はっきりと見えます。
よくぞ小娘の戯れ言に近い発案を受け入れてくれましたね、その柔軟で臨機応変な思考と、私を信じてくれた優しさに脱帽です。多分、父様の娘という事と伯爵子息との決闘、短い間ながら魔術の先生をした事が幸を奏しているのでしょう。
そして魔術を教えた事は、決して無駄ではありませんでした。
教えたであろう騎士様も、魔術を使って魔物を誘導しています。私が教えた、攻撃に使える炎の魔術や氷の魔術で、倒せずとも上手い事進行方向を変えていて、自分の教え子達が活躍してくれているのだと胸が熱くなりました。
人を教えるのって、悪くない。そう、結果が思わせてくれます。
自分の教え子や、大切な人が頑張ってくれている。
なら、私も自分に出来る事を精一杯頑張りましょう。信じてくれた皆の期待に応える為にも。
全員が一ヶ所に集めて逃がさないようにしていくのを確認しながら、私はセシル君から託された魔力も使って、術式にゆっくりゆっくり魔力を通していきます。
急がない、焦らない。
まだ準備は終わっていないし、セシル君に改良して貰った魔術は、扱いが凄く難しいのです。
繊細で難しい作業の事を、よく針の穴に糸を通すような、という例えをしますが、これはそうではない。膨大で激しい水の奔流を全て制御下に置いて、一つ一つのパイプに押し込めて行く作業といった感じです。
張り巡らされた術式に違う事なく魔力を通して、破裂させないようにするだけでも集中力を物凄く使いました。広範囲に、高威力という制限があり、味方を巻き込まないという絶対的な制限があるから尚更。
その上、失敗した時の大惨事を想像してのプレッシャー。これがあるから制御が震えてしまいますが、必死に耐えるしかありません。
今私は一人で、側にジルも父様もセシル君も居ない、誰も手伝えないし、励ましてくれない。私一人で頑張るしかないのです。
心臓が強く脈打ち、背中に嫌な汗が流れます。体は震えるし、息は乱れて寒気だってしました。
それでも、私は止めないし諦めない。
私に全てが掛かっているのだから、その期待と信頼に応えるべきです!
眼下で、魔物達がひしめき合う。
皆が、頑張ってくれた。集めてくれた。炎で取り囲み、氷で退路を塞ぎ、土壁で隔絶してくれた。
信じて期待に応えてくれた皆の為にも、私も期待に応えます。
『皆、待避して』
首から提げたチェーンに通した指輪にそう念じれば、空に派手な爆発と、爆発音。ジルが合図としていたのでしょう、それは空気を伝わり周囲に響き渡ります。
示し合わされたように、一気に魔物から遠ざかる騎士様や魔導師達。退却しなければ巻き込まれるとよく分かっているのでしょう、そして、私も細かい制御が出来る自信がありません。
見た範囲で参戦していた方々が魔物から離れたのを確認して、私は魔物が包囲から逃げ出さないように、直ぐに溜めていた魔術を集まった魔物達に向けました。
セシル君は、父様とは対照的に、氷の魔術を強化したものとして術式を渡してくれました。
父様が灼熱地獄。全てを燃やし尽くし、灰塵と帰する紅蓮。
ならば、私に渡された物は。
とてつもない勢いで抜けていく、魔力。
一瞬視界が明滅して、視界が白く染まります。光で満たされた視界、額を押さえて目眩を堪えて眼下をもう一度見て……本当に白色に染まっている事に、気付きました。
何と例えて良いのでしょうか。
そう、父様を灼熱地獄と例えるなら、私は……対照的に、極寒地獄と言えましょう。
氷地獄、でも良いかもしれませんね。魔物の群れが居た筈のそこには、真っ白く凍えきった生物の成れの果てがありました。
千は居た筈の、魔物。
その殆どが完全に凍り、生命活動を停止しています。何匹かは難を逃れたものの、それも騎士様方が殲滅してくれるでしょう。空飛んでたのはどうしようもないですが……。
そして、魔術の効果はそれだけではありません。余波で景色そのものが凍り付き、ちらちらと雪まで空から舞い降りていました。
巻き添えにしたのではないかと慌てて周囲を窺うと、退却した人達にはただ寒い思いをして貰う程度の被害だったようで。
幻想的な光景なのに、実際は殺戮。それを引き起こしたのは私。
上手くいった安堵と大量の命を奪った罪悪感、そして急激に魔力が抜けて全身にのし掛かる倦怠感と寒気で、脚から力が抜けて膝から崩れました。
「……はぁ、……っう……」
体が重い。心臓が此処に登ってくる時と同じくらいに暴れていて、それに加えて背筋が凍りそうな感覚。寒いのは、私の魔術の余波でもありますが……全身から力が抜けて、熱まで一緒に出してしまったような気がしました。
これは、迎えに来て貰わないと歩けません。というか、立てすらしません。足腰が殆ど言う事を聞いてくれない。重りのように全身に倦怠感と寒気がまとわり付いていて、縫い止められたようにこの場で固まるしか出来ませんでした。
でも、これで、此方の魔物の脅威は退ける事が出来た。あとは他の方面、父様達が居る側の大群ですが……父様が、何とかしてくれるでしょう。私の、自慢の父様ですもん。
「……ぅ、ジル、ほめて、くれるかな……?」
頑張ったよ、私。一人でも、頑張れたよ。
多分真っ先に駆け付けるであろうジルの事を思って、少しだけ頬を緩めて息を整える私。
歩けないから地面にへたって女の子座りする私は、ゆっくりと重い体を持ち上げようとするものの、やっぱり上手くいかなくて脚ががくがくと揺れてしまいます。
これは当分休まないと無理かな、そう思って大きく溜め息をついた私に……崖下の、更に遠い所から、怒声が上がった事に気付きました。いや、悲鳴に、近い?
疲れ果てて緩慢な動作で顔を上げるのと、突風が頬を叩いたのは同時でした。
ひゅ、と肺が絞られたように、狭い気道を掠めて息を呑む。私にさした影は、そんな私を笑うように大きな風を撒き散らしては甲高い鳴き声を周囲に響かせました。
「……翼竜」
そう、私は全ての魔物を殺した訳ではない。範囲に入らなかった個体や、移動速度が素早くて逃げられた空飛ぶ個体も、僅かながらに居たのです。
そして、この個体は、後者。
前足が翼として発達した、竜の一種。ワイバーンといった方が分かりやすそうですね、魔物の個体としては危険度はかなり上の生き物。
幻想的な外観とは裏腹に狂暴性を持ち、普段は遠い岩山に住まうものの、餌を求めて下山して来る事がある。風の魔術を扱う、竜に属する存在です。
私の魔術を掠めたのか、一部は凍り付いていますし、翼も傷付いていますが……致命傷ではなかったようです。逆に私を爛々とした赤の瞳が見詰めていました。血走った、とも言えましょう。
この個体は、私が先程の殺戮の元凶だと、理解している。だからこそ、此処にやって来た。
がち、と体が根幹から震え出します。やばいとか不味いとか、そんなのじゃない。この状況で出くわした事は、最悪の自体に他なりません。
普段ならば遠距離からなら対処出来たでしょうに、現状ではまともに戦えば確実に死にます。今の魔力枯渇状態、それも反動で動けない私は、格好の獲物でしかないのだから。
「……っあ」
相手が待ってくれる筈も、ありません。先程の事で警戒しているのか、直接は近付かず、代わりに風の魔術が飛来します。
最後の力を振り絞って、全身の体重を移動させるように全力で転がって魔術を躱しますが、突風の影響でごろごろと岩肌を転がります。擦り傷だらけになったのは良い、それよりも、このままでは死ぬという状況です。
何とか逃げようと腕の力で起き上がろうとするものの、ロクに力なんて入りやしない。上半身が頭一つ分浮かんだ程度で、力尽きて顔を地面に擦り付ける。
……もう、力が出ません。起き上がる事すら出来ないのに、どうやって逃げろと言うのでしょうか。
もしかしたら、これは調子に乗った罰かもしれません。分を弁えず、力を行使してしまったから。
はばたく音が、近付いて来ます。もう私に抵抗する気力もないと感じ取ったのでしょう。生きたまま、私を食べようとしているのでしょうか。
痛いのは嫌だなあ。せめて、さっくり殺してから、食べて欲しい。
でもね、……死にたく、ないよ。
襲い掛かって来ようとする翼竜に、ああもう駄目か、ってきゅっと目を閉じます。願わくば、痛みもなく。
飛来する風切り音。それが咀嚼音に変わる前に、死なせて欲しい。
唇を噛み締めて、襲い来るであろう激痛に耐える準備をしました。
「……危なっかしいから、目を離したくなかったというのに……あなたという人は」
覚悟を決めた私に、ふわりとかけられる声。それに混じって先程聞いた甲高い声が、苦痛混じりの鳴き声に変わってBGMとして流れていました。
柔らかな声に、私は全部の力が抜けてしまいます。
……ジルが、来てくれた。それだけで、もう怖い事なんてない、そう思えます。
恐る恐る目を開けると、飛び掛かろうとしていた翼竜が地面に落とされてびくびくとしている姿が真っ先に視界に入ります。
肉の焦げた臭い。嗅ぎ慣れてしまったそれに、恐らく雷の魔術を使ったのだろうと予測が付きました。襲われる前に、撃ち落としてくれたのでしょう。
「……ジル……」
「心配させないで下さい。……お願いですから、私の手の中に収まっていて下さい」
大切なヒーローの名前を呟くと、その人は私に駆け寄って来て、地面に転がっている私を抱き起こしてくれます。
自分の力ではどうにもならないので、全体重をジルに預けるしかない私に、ジルはぎゅっと腕を回して抱き締めてくれました。
労るというよりは、安堵と不安から存在を確かめるように。私は抵抗出来ないし、する気もありません。……ジルだ、ジルが側に居てくれる、……ジルが、居るんだ。
そう実感すると、途端に目頭が熱くなって目から涙が溢れてしまいます。
死ぬかと思った、もう皆に会えないかと思った、私が私でなくなるかと思った。死んでいたらこうやってジルにぎゅっとして貰う事も頭撫でて貰う事も出来ないんだ。
それが怖くて、体を預けたまま子供のようにぼろぼろ泣く私に、ジルはやや困ったような表情で、今度は優しく抱き締めてくれます。
「大丈夫ですよ、もう怖い事はありませんから」
困らせているのは分かりつつも嗚咽を隠せない私に、ジルはいつになく柔らかく穏やかに微笑んで。背中を擦って、涙が次々と零れる目尻に口付けを落とします。
水滴が生まれる度に優しく掬い取っては柔和な笑みで私を宥めてくれるので、余裕が出来た今何だか恥ずかしい事をされているのは分かったので涙も止まってしまいました。
因みにジルは私に隠していますが、地面に伏したワイバーンさんに思いきり雷の魔術をかましていました。相当怒っているのか、容赦なくどかすか撃っているのが音で分かります。その音で我に返ってしまいました。
私には温もりと慈愛で満ちた笑みを向けてくれますが、多分ワイバーンさんに対してはかなり怒っていらっしゃる模様。私が倒せていたらこんなに事にはならなかったので、申し訳ないです。
「……大丈夫ですか?」
明らかにオーバーキルな気がしなくもない魔術の撃ち込みでしたが、ジルはなかった事のように平然と私を抱えては死骸から引き剥がすようにして、平らな場所に連れていってくれました。
取り敢えずの処置でジルの背中に凭れかけさせられて、治癒術で擦り傷とかを治されています。
「……ん……ちょっと、怠いですけど……」
こればかりは、本当にどうしようもないです。
思い切り魔術をかました反動なので、暫くの間は倦怠感に悩まされるでしょうね。まさか動けなくなる程だとは思いませんでしたけど。
「魔力の一斉放出を行ったからでしょう。後先考えて下さい」
「う……」
だって。
……私も、皆を守りたかったんですもん。いつも守られていたから、私も守りたかった。
結果的にジルに守られているから、苦言は受け入れるしかないのですが。
うー、と体を委ねたまま唸る私に、ジルはほのかに苦笑いを浮かべて、それから私の額に口付けては抱擁を強めます。
……恥ずかしいけど、温かくて、幸せだと思えます。私は生きていて、ジルが側に居てくれる。
「説教は後です。……よく頑張りましたね」
とろりと溶けそうな甘い声で囁かれて、大きな掌が私の頭を撫でて。
頑張った、その言葉だけで、私はとても満足してしまって、自然と緩む口許。温かくてどきどきするのは、きっと生還の喜びと、ジルに認められたから。
良かった、心からそう思えて微笑んだ私は、ジルの胸に凭れて瞳を閉じます。
頑張ったよ、私。疲れてしまいました。……少しくらい、先に休んでも良いでしょうか。
うとうとしだしたのが分かったらしいジルが、耳元でお疲れ様でした、と穏やかな声で囁いて。
そこで限界が来てしまって、私は急速に襲い来る睡魔に身を委ねては思考を放棄しました。