第四話
「………ここがジャパン、か……」
きょろ、とあたりを見回すが周りには人の気配はなく、ただただ自然豊かな木々が広がっていた。
時刻は昼を少し過ぎたくらいで遠くからは人の声と車のエンジン音、時折動物の鳴き声などもしているが、アレスが降り立ったこの神社は静まり返っている。
天界から戻りそのまま真っ直ぐ神社の境内に降り立ったアレスはジーンズの後ろポケットに突っこんでいたスマフォを取り出し電話をかけた。
いつも下界に降りるときには、流石に天界に居た時のままでは目立ってしまう為度の入っていない黒縁眼鏡をかけ、赤い革ジャケットに黒のタンクトップにジーンズという動きやすい恰好でいるのがここ数十年のアレスの恰好であった。
左耳には銀の十字架を模った飾りのついたカフスが付けられている。
五回程コール音がした後に相手が出た。
「…せっかく久しぶりに里帰りしたというのに、今回も相変わらず早い戻りなのねアレス?」
電話の向こうから年若い少女の声で嫌味にもならない嫌味を言われるがそれを小さく鼻で笑って受け流す。
「あんなところ、長居するだけこちらも腐る。お前だって俺と同じこと思ってんだろうが」
「……まあね。今の天界にいても何も意味などありはしないもの……で?その天界での鬱憤を私で晴らそうと電話してきた訳じゃないでしょ?用件は何なのかしら?」
「直接関係のある話じゃねーが、一応知っておいた方がいいと思ってな。―――ジャパンでクロノスの気配を察知したらしい」
電話の向こうで息をのむ音がした。
自分もあまりに予想外な事に最初は思考が停止したのだ。
電話の相手も当然その名から連想される事柄を思い浮かべ顔色を悪くさせている事だろう。
「……その言い方から察するに、貴方が察知した訳ではないんでしょ?出所はどこなの?」
先程よりも若干声を強張らせ尋ねる少女に「意外と正気に返るの早かったな」と心の中だけで呟くと「アテネだ。…ま、それもヘスティアからの又聞きになるがな」と返す。
「………アテネ様が?」
「ああ。天界から降りていた時偶然感じ取ったらしい。…とは言っても、一瞬の事だしどこからというのまでは分からなかったらしいがな」
「結界を破ったということなの?」
「いや。それはないらしいな。本体は今もタルタロスに封じられているのは確認済みだ」
「それじゃあ、クロノスに与する者の誰かが、ということ?」
「そう考えるのが一番“らしい”が、そうだとしても見過ごしておくのは危険だろう。一応お前も意識して何か掴んだらすぐに連絡してくれ」
「…………分かったわ。注意してみる。こっちは相変わらず何の手がかりも見つからなかったけれど、そっちはどう?」
「―――少しばかり気になることがあってジャパンに来ている」
「ジャパン?…って、アジア圏にある島国?…なんでまた……」
「ま、無駄足になろうとも…どんなに小さくとも可能性があるのならそこから探していくだけってことだ」
「………そうね。私もそっちへ行った方がいいかしら?何か手伝うことある?」
「いや。今はまだ大丈夫だ。何かしら必要になったら頼むかもしれないが」
「了解。そっちも何かわかったら直ぐに知らせて頂戴。……あの方を心配しているのは私だって同じなんだから」
「ああ。それじゃ、またな」
ピ、と通話を切って再びスマフォをポケットにしまうとアレスは「やれやれ」とため息をついた。
先程の電話の相手であるイリスは一番と言っても過言ではないほどヘラの信望者であった。
ヘラもそんな真摯に自分を慕うイリスを可愛がり、何かと傍に置いていたが、そんなイリスにさえヘラは何も告げずに姿を消してしまった。
ヘラが姿を消してしまい一番取り乱したのもイリスで、あれからイリスはアレスと同様に何かと下界へ降り立ちヘラの行方を熱心に探している一人でもある。
共通の目的ということでヘラが行方不明になってからイリスとは互いにこうして連絡を取り合い情報交換をする間柄となった。
「…取りあえず、あそこへ行ってみるか」
アレスの脳裏に思い浮かんだ人物はここ日本において繋ぎを持っておいて損は無い人物だ。
挨拶もかねて訪れるのもいいだろう。
「向こう」には既にアレスが日本へ来ていることは知られているのか、先ほどから少し離れた場所よりこちらを窺う「遣い」の気配がしている。
アレスは気配のする方へと顔を向けると「今からそっちへ行くからチラチラとうっとおしいモン纏わりつかせるなと伝えておけ」と言い放ち片手をヒラヒラさせながら砂利を踏みしめ歩き出す。
ここ日本が「八百万の神」と言われる程に何にでも神が宿っているらしく、こうしてこの国に来ると何かと「見られている」場合が多く煩わしいが、この国に「何か」があるのならばそれも我慢するしかない。
先ほどのアレスの言葉を主に伝えに戻ったのか、アレスが移動するのに合わせてこちらを窺っていた「遣い」の気配も消えていた。