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「あーあ、あのバカ。傘壊しやがって」
あたしの隣に立つ佐久間くんが、腰を曲げて折れた傘を拾い上げる。それからあたしのことを見て、意味ありげに笑って言った。
「奏に置いてかれちゃったね? かわいそうに」
あたしは佐久間くんを見上げてにらみつける。
「なんであんなこと言うんですか!」
「あ、もしかして、怒っちゃった?」
「ふざけないで! なんであんな……奏くんを怒らせるようなこと言うの!」
佐久間くんはあたしの前で、大げさにため息をつく。
「しょうがないじゃん。あのくらい言わないと、あいつ本音を言わねぇんだから」
そして奏くんの傘を、無理やりくるくると丸めてから、地面にとんっと突いて言った。
「あいつ、おれに言いたいことあるはずなのに、なかなか言わねぇんだよな。そういうの見てるとイライラする。だからおれはあいつに、本音を吐き出させてやろうかと……」
「わざと怒らせるようなことを言ったの?」
「いや。おれ、昔から、あいつをからかうの趣味だったの」
ふざけたように笑う佐久間くんを、もう一度にらみつけてやる。
なんなの、この人。どこまで冗談で、どこまで本気なの? だけどきっとこの人は、誰よりも奏くんのことを知っている。
あたしは小さく息を吐き、呼吸を整えてから、思いきって聞いてみた。
「あの……ひなのさんって……誰?」
「はぁ? えっと、ゆずちゃんだっけ? ゆずちゃんは、『佐久間ドロップス』のことを知ってて、ひなののことは知らないの?」
「奏くんをバンドに誘った人? あと奏くんが歌ってる歌を作った人?」
「だいたい正解。でもまぁ、その程度しか、奏の口からは言えないか」
佐久間くんはそう言ってから、あたしの傘に入り込んで、耳元に顔を近づける。
「もっとおもしろいこと、教えてあげようか?」
あたしは息を飲んで、ちらりと佐久間くんの顔を見る。佐久間くんはそんなあたしに笑いかけ、ささやくようにこう言った。
「ひなのはね、奏の元カノで、おれの今の彼女なんだよ」
ゆっくりと顔を動かし、佐久間くんのことを見る。佐久間くんはあたしを見ながら、なぜか少し寂しそうに笑っていた。
しとしとと降り続く、雨の音がする。あたしは布団の中で、その音を聞く。
リビングからかすかに物音が聞こえた。ママとパパの言い合うような声が響く。
聞きたくない。聞きたくない。あたしは布団を頭からかぶり耳をふさぐ。
雨の音も、言い争う声も、今夜は何も聞きたくなかった。目をぎゅっと閉じ、その音たちが通り過ぎるのをただじっと待ち続ける。
長い長い夜だった。リビングが静まり返っても、雨はいつまでも降り続いた。
「奏くん……」
奏くんもこの音を聞いているんだろうか。真っ暗な部屋の中で、布団を頭からかぶって、不安に押しつぶされそうになりながら、たった一人で……。
――明日雨が止んだら、いつもより早く、奏くんに会いに行こう。
眠れない夜に、あたしは何度もそう思った。
いつもより一本早いバスを降り、何人もの人を追い越しあの場所へ向かう。
空は青空ではなかったけれど、雨は上がって、時々薄日が差し始めていた。
もしも、奏くんが来ていなかったら――いつまでもあそこで待っていよう。奏くんが来るまで待っていよう。
階段を駆け上って広い場所へ出る。すれ違う人々の中に、奏くんの姿を探す。
――見つけた。
花壇の淵にぼんやりと座っていた奏くんは、あたしの姿に気がつくと、ほんの少し笑って立ち上がった。
「昨日は、ごめんな?」
あたしの前に立つ奏くんが、あたしの好きな柔らかい声でそうつぶやく。
今日の奏くんは、あたしの知っている奏くんだった。
「なんで奏くんが謝るの?」
あたしが言ったら、奏くんは気まずそうに少し笑った。
空から頼りない日差しが差す。風は生ぬるくて、足元はまだ濡れていた。
「佐久間の言ったことは、間違ってないよ」
ざわざわした人ごみの中で、あたしはその声を聞く。
「あいつは口が悪いしバカだけど、間違ったことは言わない。あいつの言う通り、ぼくが甘かったんだ」
何か言いたいけれど、何も言葉が出てこない。そんなあたしに奏くんが小さく笑う。
「もしかしたらって思ってた。あの歌がひなのに届けば、もしかしたらって……」
「まだ……好きなの?」
喉の奥から絞り出すように声を出す。
「ひなのさんのこと」
今にも泣いてしまいそうなあたしの前で、奏くんは柔らかく微笑む。
「奏は優しいけど、優しいだけじゃ不安だって……そう言って、ひなのはぼくの前からいなくなった。フラれたんだよ、ぼくは」
空から差す日差しの中を、何かがしとしとと落ちてきた。
雨だ。細くて明るい雨が、光りながらあたしと奏くんの上に落ちてくる。
「梅雨が明けて夏休みになったら……あたしも海に行きたい」
奏くんの髪にかかる、雨の滴を見つめながらつぶやく。
「あたしも夕日に叫びたいことがあるの。だから連れてって。あたしも一緒に」
奏くんがふっと笑って、そして小さくうなずく。
「いいよ」
「じゃあ約束。指きりね?」
あたしは子どもみたいに、奏くんの前に小指を差し出す。少しだけ間を置いた後、奏くんはその指先を、あたしの指にからめてくれた。
大丈夫。大丈夫。大丈夫だよ……。
頼りない小指を伝わって、あたしの気持ちが奏くんへ届きますように。
「絶対。約束だからね?」
「うん。わかった」
奏くん? 約束は守らなくちゃいけないんだよ。もう梅雨も明けて夏休みになったんだよ。それなのにどうして、あたしを海に連れて行ってくれないの?
次の日もその次の日も、あたしは奏くんに会えなかった。ずっとお休みしていたらしいコンビニのバイトも、いつの間にか辞めてしまった。
奏くんは何も言わないで、あたしの前から姿を消した。