8
夕方のニュース番組のアナウンサーは、関東地方が梅雨入りしたことを告げている。
あたしはそんなテレビをちらりと見て、キッチンに立つママの背中に小さく言う。
「塾、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
あたしが塾をサボった日から、ママはあたしにうるさく言わなくなった。
ただ大きなため息をついて、あたしと視線を合わせようとしない。
「ゆずちゃん! 今日も塾なのー?」
玄関先で妹のすずにつかまる。
「ゆずちゃんのゲーム、借りてもいい?」
「別にいいよ」
「やったー!」
能天気なすずの声と、野菜を刻む包丁の音を聞きながら、あたしは一人家を出た。
外は今日も雨だった。だけど今日の雨は足元を濡らすどしゃ降りではなく、しっとりと落ちる静かな雨だ。
梅雨に入ったらどうしようと思っていた。こんなふうに毎日雨が降り続いたら、奏くんが突然あたしの前からいなくなってしまうような気がして……。
だからあたしは今日も走った。雨の中、傘を揺らして、あの駅前の広場まで。
――いた。
せわしなく行き交う人ごみの中で、あたしは今日も奏くんの姿を見つけることができた。
「今日も雨だね」
傘の陰から奏くんが、あたしに笑いかけてくる。
「梅雨入りだって。さっきテレビで言ってた」
「へぇ……」
奏くんはそうつぶやくと、傘を少しずらして空を見上げた。あたしもなんとなく、奏くんと一緒に空を仰ぐ。
「梅雨が明けたら……」
ひとり言のような奏くんの声。
「海に行こうと思ってる。電車に乗って」
「海に? 泳ぐの?」
あたしは奏くんの横顔に聞いた。海で泳ぐ奏くんの姿が、どうしても想像できない。
奏くんはそんなあたしを見て、おかしそうに笑う。
「違うよ。水着姿のお姉さんをナンパしに」
「えー!」
「嘘だよ」
「わかってるもん。そういうの、全然似合わないよ、奏くん」
あたしが言ったら、奏くんは声を上げて笑った。それからあたしの顔を見て言う。
「じゃあこれは? 夕日に向かって叫ぶんだよ。バカヤロー! とかさ」
「それも全然似合わない」
「ちょっと本気なんだけどなぁ」
そう言って笑う奏くんとあたしの前を、一度通り過ぎた人が振り返る。そして早足で戻ってきて、あたしたちの前に立ち止って言った。
「ウソ。奏じゃん」
奏くんが顔を上げる。あたしも同じように顔を上げてその人を見る。
短めの髪にキャップをかぶって、ビニール傘を差した背の高い男の人。ちょっと遊んでいるふうの、大学生みたいな。
「佐久間……」
「えっ、『佐久間ドロップス』の人?」
思わずあたしが口に出したら、その人はおかしそうに笑い出した。
「ヤバ、ちょー懐かしくね? そのネーミング」
そして傘を大きく振って、あたしの顔をのぞきこむ。
「なに、奏。彼女できたの?」
あたしは慌てて手を振って、佐久間くんって人に言い返す。
「ち、違います! 彼女なんかじゃありません」
「え、そうなの? でもすっげー楽しそうに見えたけど?」
軽い調子で話しかけてくる佐久間くんとは対照的に、奏くんはずっと傘の陰で黙り込んだままだ。
佐久間くんはそんな奏くんを気にすることなく、今度はあたしに向かって言ってきた。
「キミ、いくつ? 女子高生?」
「いえ……十四歳です」
「マジか? 中学生じゃん。どうしちゃったんだよ、奏ー」
奏くんが顔を上げて、やっと佐久間くんに口を開いた。
「だから彼女じゃないって言ってるだろ」
佐久間くんがそんな奏くんを見て、ふっと鼻で笑う。
なんだかすごく嫌な予感がした。
さっきまでの楽しそうに笑っていた奏くんも、高校生の頃の話を懐かしそうにしてくれた奏くんも、いま、あたしの前にはいない。
もしかしてこの二人、すごく仲が悪いの?
「もう行こう。ゆずちゃん」
佐久間くんのことを避けるように、奏くんが一歩踏み出す。そんな奏くんに向かって、佐久間くんが声をかける。
「ひなののこと、聞かねぇの?」
奏くんの背中がピタリと止まる。
「お前って、いっつもそうだよな? ぼくには関係ないって涼しい顔しちゃってさ。本当はめっちゃ気になってるくせに」
「……気になってなんかないよ」
奏くんが振り向いて、傘の陰から佐久間くんを見る。
「ウソだね」
意地悪そうに笑った佐久間くんは、ちょっと首を傾けて言った。
「だったらなんでこんなところで歌ってたんだよ? 大野が見たってさ、お前が一人で歌ってたとこ」
佐久間くんのビニール傘が、コツンと奏くんの傘にぶつかる。
「お前が本当に見て欲しかったのは、ひなのなんだろ? もしかしたらここを、ひなのが通りかかるかもしれないって。そんでまた自分のところに、戻って来てくれるんじゃないかって」
「そんなこと……」
「バーカ。甘いんだよ」
佐久間くんは勢いよく傘を振って、奏くんの傘を叩き落とす。手から離れた黒い傘は、コロンと雨の中に転がった。
「あ……」
声を出すこともできないあたしの前で、うつむいている奏くんの髪が、雨で濡れていく。
「……うるせぇよ」
「は? 何言ってるか、聞こえないんですけど?」
「うるさいって言ってんだよ!」
地面に落ちた傘を拾い上げると、奏くんはそれを思いきり、佐久間くんの足もとに叩きつけた。
ひょいっとよけた佐久間くんの足もとで、傘がミジメな形に曲がっている。
「なんだ、声、出るじゃん」
そう言って小さく笑う佐久間くんの顔を、奏くんはあたしが見たこともない表情でにらみつけていた。
雨がハラハラと落ちてくる。奏くんの髪もシャツも靴も、その雨でしっとりと濡れていく。
「死ねばいい。お前なんか」
押し殺すような奏くんの声。
「ああ、死んでやるよ。お前より長生きしてからな」
ふっと口元をゆるめた佐久間くんの前を、奏くんが傘を差さずに通り過ぎる。
背中を向けた奏くんが、あたしに振り向くことは決してなかった。