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 夕方のニュース番組のアナウンサーは、関東地方が梅雨入りしたことを告げている。

 あたしはそんなテレビをちらりと見て、キッチンに立つママの背中に小さく言う。

「塾、行ってくる」

「行ってらっしゃい」

 あたしが塾をサボった日から、ママはあたしにうるさく言わなくなった。

 ただ大きなため息をついて、あたしと視線を合わせようとしない。

「ゆずちゃん! 今日も塾なのー?」

 玄関先で妹のすずにつかまる。

「ゆずちゃんのゲーム、借りてもいい?」

「別にいいよ」

「やったー!」

 能天気なすずの声と、野菜を刻む包丁の音を聞きながら、あたしは一人家を出た。


 外は今日も雨だった。だけど今日の雨は足元を濡らすどしゃ降りではなく、しっとりと落ちる静かな雨だ。

 梅雨に入ったらどうしようと思っていた。こんなふうに毎日雨が降り続いたら、奏くんが突然あたしの前からいなくなってしまうような気がして……。

 だからあたしは今日も走った。雨の中、傘を揺らして、あの駅前の広場まで。

 ――いた。

 せわしなく行き交う人ごみの中で、あたしは今日も奏くんの姿を見つけることができた。


「今日も雨だね」

 傘の陰から奏くんが、あたしに笑いかけてくる。

「梅雨入りだって。さっきテレビで言ってた」

「へぇ……」

 奏くんはそうつぶやくと、傘を少しずらして空を見上げた。あたしもなんとなく、奏くんと一緒に空を仰ぐ。

「梅雨が明けたら……」

 ひとり言のような奏くんの声。

「海に行こうと思ってる。電車に乗って」

「海に? 泳ぐの?」

 あたしは奏くんの横顔に聞いた。海で泳ぐ奏くんの姿が、どうしても想像できない。

 奏くんはそんなあたしを見て、おかしそうに笑う。

「違うよ。水着姿のお姉さんをナンパしに」

「えー!」

「嘘だよ」

「わかってるもん。そういうの、全然似合わないよ、奏くん」

 あたしが言ったら、奏くんは声を上げて笑った。それからあたしの顔を見て言う。

「じゃあこれは? 夕日に向かって叫ぶんだよ。バカヤロー! とかさ」

「それも全然似合わない」

「ちょっと本気なんだけどなぁ」

 そう言って笑う奏くんとあたしの前を、一度通り過ぎた人が振り返る。そして早足で戻ってきて、あたしたちの前に立ち止って言った。


「ウソ。奏じゃん」

 奏くんが顔を上げる。あたしも同じように顔を上げてその人を見る。

 短めの髪にキャップをかぶって、ビニール傘を差した背の高い男の人。ちょっと遊んでいるふうの、大学生みたいな。

「佐久間……」

「えっ、『佐久間ドロップス』の人?」

 思わずあたしが口に出したら、その人はおかしそうに笑い出した。

「ヤバ、ちょー懐かしくね? そのネーミング」

 そして傘を大きく振って、あたしの顔をのぞきこむ。

「なに、奏。彼女できたの?」

 あたしは慌てて手を振って、佐久間くんって人に言い返す。

「ち、違います! 彼女なんかじゃありません」

「え、そうなの? でもすっげー楽しそうに見えたけど?」

 軽い調子で話しかけてくる佐久間くんとは対照的に、奏くんはずっと傘の陰で黙り込んだままだ。

 佐久間くんはそんな奏くんを気にすることなく、今度はあたしに向かって言ってきた。

「キミ、いくつ? 女子高生?」

「いえ……十四歳です」

「マジか? 中学生じゃん。どうしちゃったんだよ、奏ー」

 奏くんが顔を上げて、やっと佐久間くんに口を開いた。

「だから彼女じゃないって言ってるだろ」

 佐久間くんがそんな奏くんを見て、ふっと鼻で笑う。

 なんだかすごく嫌な予感がした。

 さっきまでの楽しそうに笑っていた奏くんも、高校生の頃の話を懐かしそうにしてくれた奏くんも、いま、あたしの前にはいない。

 もしかしてこの二人、すごく仲が悪いの?


「もう行こう。ゆずちゃん」

 佐久間くんのことを避けるように、奏くんが一歩踏み出す。そんな奏くんに向かって、佐久間くんが声をかける。

「ひなののこと、聞かねぇの?」

 奏くんの背中がピタリと止まる。

「お前って、いっつもそうだよな? ぼくには関係ないって涼しい顔しちゃってさ。本当はめっちゃ気になってるくせに」

「……気になってなんかないよ」

 奏くんが振り向いて、傘の陰から佐久間くんを見る。

「ウソだね」

 意地悪そうに笑った佐久間くんは、ちょっと首を傾けて言った。

「だったらなんでこんなところで歌ってたんだよ? 大野が見たってさ、お前が一人で歌ってたとこ」

 佐久間くんのビニール傘が、コツンと奏くんの傘にぶつかる。

「お前が本当に見て欲しかったのは、ひなのなんだろ? もしかしたらここを、ひなのが通りかかるかもしれないって。そんでまた自分のところに、戻って来てくれるんじゃないかって」

「そんなこと……」

「バーカ。甘いんだよ」

 佐久間くんは勢いよく傘を振って、奏くんの傘を叩き落とす。手から離れた黒い傘は、コロンと雨の中に転がった。

「あ……」

 声を出すこともできないあたしの前で、うつむいている奏くんの髪が、雨で濡れていく。

「……うるせぇよ」

「は? 何言ってるか、聞こえないんですけど?」

「うるさいって言ってんだよ!」

 地面に落ちた傘を拾い上げると、奏くんはそれを思いきり、佐久間くんの足もとに叩きつけた。

 ひょいっとよけた佐久間くんの足もとで、傘がミジメな形に曲がっている。

「なんだ、声、出るじゃん」

 そう言って小さく笑う佐久間くんの顔を、奏くんはあたしが見たこともない表情でにらみつけていた。

 雨がハラハラと落ちてくる。奏くんの髪もシャツも靴も、その雨でしっとりと濡れていく。

「死ねばいい。お前なんか」

 押し殺すような奏くんの声。

「ああ、死んでやるよ。お前より長生きしてからな」

 ふっと口元をゆるめた佐久間くんの前を、奏くんが傘を差さずに通り過ぎる。

 背中を向けた奏くんが、あたしに振り向くことは決してなかった。

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