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たった一つの出会いによって、曇り空のような毎日に、明るい日差しが差し込んでくる。
そんなことがあるなんて――あたしは今まで考えてもみなかった。
授業が終わり、誰よりも早く、狭い教室を飛び出す。
体育の授業のタイム測定でも、出したことのない速さで家まで走るのは、一本早いバスに乗るため。
「今日も早めに行くの?」
「塾のテストがあるの」
ママに嘘をついて家を出る。バスの終点で降りて、駅前広場への階段を駆け上る。
――いた。
息を切らして走ってきたあたしを見て、奏くんはいつもみたいに穏やかに微笑んだ。
塾が始まるまでの少しの時間と、バイトに入るまでの少しの時間。あたしと奏くんは、ここの花壇の淵に座って、たわいのない話をする。
「そんな急いで来なくたっていいのに」
タオルで必死に汗を拭っているあたしに向かって、奏くんが言う。
家で着替えてきたばかりなのに、あたしのTシャツはもう汗まみれだ。恥ずかしいな……できることなら、もう一度着替えたい。
だけど、少しでも早く、奏くんに会いたいって思ったから。少しでも長く、奏くんと話したいって思ったから。
塾が始まるまでの自由な時間は、ほんのわずかしかない。
「これ。よかったら」
奏くんはそばに置いてあったレジ袋をガサガサとあさって、あたしに冷たそうなお茶を差し出した。
「え、いいの?」
「どうぞ」
涼しげな顔をして、奏くんがうなずく。
男の人にしては小柄で、ほっそりとした体型の奏くんは、こんな蒸し暑い日でも、あまり汗をかかないみたいだ。羨ましいことに。
あたしの隣でペットボトルを開けて、奏くんはそれに口をつける。あたしはそんな横顔をちらりと覗き見してから、同じようにお茶を飲む。
あたしたちの前を、忙しそうにすれ違うたくさんの人。ざわざわして息苦しくて、目が回りそうな場所なのに、奏くんといるとどんな所にいたって落ち着ける気がする。
どうしてかな。コンビニでアルバイトしている、あたしより四つ年上のこの人のこと、あたし何にも知らないのに。
「もう歌わないの?」
一気にお茶を半分くらい飲んでから、あたしは隣に座る奏くんに聞いた。
あたしの記憶に残っている奏くんの歌声は、悲しいことに、もうだいぶ薄れてきている。
「入院してたって言ったよね?」
「ああ」
「どこか悪かったの?」
あたしはもう一度のぞきこむように、奏くんの横顔を見る。奏くんは真っすぐ前を向いたまま、通り過ぎる人影をなんとなく目で追っている。
「生まれつきね。ここが壊れてたんだって」
そうつぶやくと、奏くんの細い指先は、自分の胸元を差した。
「心臓?」
「そう。子どもの頃、死にかけたことがある。ていうか半分死んだ」
「うそ」
「ほんと。三途の川、渡りかけたし、花畑も見たよ」
ふっと笑って、奏くんはやっとあたしのことを見てくれた。
黒い前髪に隠れそうな温かいまなざし。静かに語りかけてくれる柔らかい口調。
こんな優しそうな人、同じクラスの男子にはいない。ううん、同じ学年にも。ううん、同じ学校にも、絶対いない。
「でも今は平気なんでしょ?」
あたしは祈るような気持ちでそう聞いた。
「うん。たまにね、検査入院することあるけど。この前もそれで入院してたんだ」
「そうなの……」
「結果は異常なしだって。だから大丈夫。たぶん」
たぶんって言葉が胸の奥に引っかかる。そんなあたしに奏くんは笑って言う。
「ぼくの歌、真面目に聴いてくれた人なんて、ゆずちゃんくらいしかいないよ」
「そんなことないでしょ?」
「だって誰も立ち止ってくれなかっただろ? たまに酔っぱらいのおっさんか、冷やかしのヤンキーが来るくらいで」
「でも……でも、あたしはすごく好きだよ? 奏くんの歌」
そこまで言って口を結んだ。あたし、何言ってるんだろう。恥ずかしい。
そんなあたしの前で、奏くんはやっぱり穏やかに微笑む。
「ありがとう。だけどあの歌作ったの、ぼくじゃないんだ」
「え?」
いたずらっぽくあたしに笑いかけてから、奏くんはすっと立ち上がる。
「もう時間だよ。塾の」
座ったまま奏くんを見上げて、膝の上にのせているバッグをぎゅっと握り締める。
足りない、足りない。時間が足りない。もっともっと、奏くんのこと知りたいのに。
「あのっ、明日の土曜日」
歩き出そうとした奏くんを呼び止める。
「あたし、塾休みなの。少しでもいいから……会えないかな?」
自分からこんなこと言い出すなんて……奏くんに会ってからのあたしは、今までのあたしじゃないみたい。
少し考えるような表情をしてから、奏くんはあたしに言った。
「いいよ。午前中はバイト入ってるけど、午後からなら」
あたしはたぶん真っ赤な顔をしながら、そんな奏くんの声を大事に胸にしまった。