犬に好かれること
バルトは、我が家で一番えらい。
少なくとも本人はそう思っている。灰色の毛の大きな老犬で、父より年上のような顔をしていて、父より食べる。気に入らない相手には誰にでも吠える。郵便配達人にも、庭師にも、年に一度来る伯母にも。
「条件六十四。犬に好かれること」
ユリウス様は、前庭の真ん中で紙包みを掲げた。
「肉屋で一番いい腸詰めを買ってきた。犬が腸詰めを嫌いなわけがない」
バルトは玄関の石段の上に寝そべったまま、片目だけ開けた。
「判定役様は、まだですが」
「始めておいて構わないだろう。結果は同じだ」
ユリウス様は石段の下にしゃがみこんで、腸詰めを差し出した。
「ほら、おいで。いい子だ」
バルトが立ち上がる。のそりと石段を下りてくる。ユリウス様の顔が明るくなる。
バルトは腸詰めの匂いを嗅いだ。
それから腸詰めを素通りして、ユリウス様の上着の裾に噛みついた。
「待て、それは違う。そっちじゃない」
バルトは唸りながら、裾をくわえて後ろへ下がっていく。ユリウス様は裾を引っ張り返しながら、しゃがんだ格好のまま前庭を引きずられていった。花壇の縁で足がもつれて、そのまま秋薔薇の植え込みに尻もちをつく。
ミナが石板を出した。
「まだ判定役様がいらしていないわ」
「記録だけです。判定は後でいただきます」
白墨の音が、やけに楽しそうに聞こえた。
門のほうから足音がしたのは、そのときだった。
バルトの耳が、ぴんと立つ。
次の瞬間、バルトはユリウス様の上着を放り出して走り出していた。あの年寄りのどこにそんな脚が残っていたのかと思うほどの速さで。門をくぐったばかりのルカに飛びついて、前脚を黒い制服の胸にかける。
ルカは一歩も揺らがなかった。
大きな灰色の頭を、黒い手袋の手が撫でる。バルトの尻尾が、ちぎれそうなほど振れていた。
「バルト」
私は呆然と言った。
「あなた、その人を知っているの」
バルトは答えなかった。代わりにルカの制服の胸元に鼻を押しつけて、そこばかり熱心に嗅いでいる。ルカが懐に手を入れた。出てきたのは、紙に包んだ小さな飴玉だった。
「これは、あげられない」
ルカが、バルトに向かって真面目に言った。
「犬には毒だから」
バルトは不満そうに鼻を鳴らして、それでもルカの足元から離れない。ルカの長靴に顎をのせて、気持ちよさそうに目を閉じている。
ユリウス様が、植え込みの中から叫んだ。
「不公平だ。判定役が犬を手懐けているなんて」
「手懐けてはいません」
「じゃあ、なぜそんなに懐いているんだ」
ルカは少し困ったように、足元のバルトを見下ろした。
バルトが伸び上がって、ルカの顎をべろりと舐めた。
ルカが、笑った。
声は出ていない。口の端がほんの少し持ち上がって、目元がゆるんだだけ。それでも、平らな顔しか知らなかった私には、雷が落ちたくらいの変化だった。
「お嬢様」
ミナが小声で言う。
「口が開いています」
慌てて閉じた。
ルカは自分でも笑ったことに気づいたらしい。すぐに元の顔に戻って、それから、手に持っていた飴玉の包みを開けて、自分の口に放りこんだ。
照れ隠しに、飴を食べる騎士。
「条件六十四、不合格です」
飴を口に入れたまま、ルカが判定を告げる。ミナが満足そうに石板の×をなぞった。
ルカは植え込みのほうへ歩いていって、ユリウス様に手を差し出した。ユリウス様は一瞬ためらってから、その手をつかんで立ち上がる。上着の裾には、バルトの歯形がくっきり残っている。
「礼は言わないぞ」
「必要ありません」
その日はずっと、飴を食べる騎士のことばかり考えていた。
だから、翌日から起きたおかしなことに気づくのが、少し遅れた。
「条件十五。私の好きな本の題名を答えること」
翌朝、客間に入ってくるなり、ユリウス様はそう読み上げて、すぐに答えた。
「『北の灯台守』。子どものころから、何度も読み返している」
正解。
「条件十八。私がお茶に砂糖を入れるかどうか」
「入れない。代わりに蜂蜜を、小さじ半分」
合っている。
合っているのに、どこか引っかかった。小さじ半分。ユリウス様は、そういう細かい言い方をする人ではない。いつもなら「少しだけ」とか「ほんのちょっと」とか言う。まるで、誰かの書いた覚え書きを読み上げているみたいだった。
その次の朝、ユリウス様は蜂蜜の小瓶を持ってきた。南の養蜂場の、私が一番好きな銘柄。
それからも毎日、ユリウス様は正解を重ねた。私の乗っている馬の名前。私が考えごとをするときに口ずさむ歌。私が雷の夜に眠れないこと。私の母の命日。
どれも、五年間で一度は話したことだった。話したけれど、あの人は聞いていなかったはずのこと。
ミナの石板に、丸が増えていく。
「ユリウス様、急に賢くなられましたね」
ミナが白墨を置いて言った。褒めている声ではなかった。
三日目の夕方、ルカが手帳を閉じた。
「現在、合格十二。不合格六」
十二。
「どうして急に、わかるようになったのですか」
私が聞くと、ユリウス様は照れたように頭をかいた。
「思い出しているんだ。五年分、ちゃんと。君の話を、僕はちゃんと聞いていなかった。でも、全部忘れたわけじゃなかったらしい」
そう言われてしまえば、何も言えない。
信じたかった。雨の中で三時間待った人の言うことだ。信じてもいいのかもしれない。そう思う自分と、どこかで首をかしげている自分がいる。
殿下が国を出るまで、残り二十日。
部屋の暦の端に、小さな印が十一個並んでいる。判定役が初めて来た日を一つ目にして、毎晩ひとつずつ。誰に頼まれたわけでもないのに、やめられずにいる印。何を数えているのかは、自分でもよくわからない。
その夜も、眠れなかった。
窓辺の花は、あれから一度も置かれていない。私の二行を読んだ人は、返事をくれないままだ。
もしかしたら、今夜は来るかもしれない。そう思って、寝間着の上に肩掛けを羽織って、庭に下りた。
バルトがついてくる。月は雲に隠れていて、庭は暗い。門の脇の、矢車菊の一角のそばまで行って、私はしゃがみこんだ。
もし来たら、何と言おう。どうして何も言わずに置いていくのですか。あの二行を読んだのですか。どなたですか。聞きたいことは、ひとつも短くならない。
そういえば、と思った。
あの夜、窓辺に花が置かれた夜。誰にでも吠えるバルトは、一度も吠えなかった。
足元のバルトの背中を撫でる。バルトは門の外に顔を向けて、耳を立てていた。唸らない。ただ、じっと聞いている。
塀の向こうの路地から、声がした。
私は息を止めた。
低い声が二つ。一つは、聞き間違えようがない。五年間、何度も聞いた声。
「助かった。今日のも、全部当たった」
ユリウス様だった。
もう一つの声は、答えなかった。
「次の答えも頼む」
少し間があった。
路地の石畳を、風が撫でていく。バルトが、私の手の下で小さく鼻を鳴らした。
平らな、低い声が言った。
「……わかった」




