ひとつ
「条件」
聞き返す声が、少しかすれる。
「あなたの」
「はい」
ルカは、少しだけ息を吸った。
「まず、判定役を今日で辞めさせてください」
「辞めるの」
「判定役のままだと、あなたに求婚できないので」
港の風が、止まった気がする。
後ろで、ミナがインク壺を落としかけて、両手で抱えなおす音がした。足元のバルトが、大きなあくびをする。
私は、口を開けたまま、しばらく何も言えなかった。
それから、笑ってしまった。片方しか室内履きのない足で、寝間着の裾を外套からのぞかせたまま、朝の港の真ん中で。
「辞めるのは許します」
「ありがとうございます」
「それで、条件というのは」
「まだ、書けていません」
ルカは真顔で言った。
「書けたら、渡します。百個は無理です。でも、一つなら」
「お嬢様」
ミナが、何かを差し出した。右の室内履きだった。途中の角で拾ってきたらしい。ミナは、いつも完璧だ。
ルカがそれを受け取った。
そして、私の前に片膝をついた。
右手の黒い手袋を、指先から一本ずつ引いて、外す。王女の騎士の手袋。その下から出てきた素手は、思っていたより大きくて、指の節に小さな傷がいくつもあった。
素手が、私の冷えた足首に触れる。温かい。
室内履きが、足に戻った。
「もう、騎士ではないので」
外した手袋を懐にしまいながら、ルカは言った。
「素手でも、構わないかと」
構わない、と答える声が、うまく出ない。
沖のほうで、白い帆が小さくなっていく。薔薇の紋は、もう見分けられなかった。
季節が、ひとつ巡る。
秋が終わって、冬。王都の令嬢たちのあいだで流行った条件表は、冬のあいだに少しずつ下火になった。マルグリットは、条件を三十個満たした婚約者と、雪の降る日に結婚した。花嫁の手には、自分で書いた便箋。
北の領地からは、ときどき噂が届いた。
アーデン家の跡継ぎは、弟君のエドガー様に決まった。ユリウス様は紳士クラブの名簿からも名前を消されて、今は領地で本当に羊の数を数えているらしい。侯爵家からの慰謝料は、約束どおり倍額で届いた。父はそれを全部、私の名義にしてくれた。
そのユリウス様が、領地の粉屋の娘に言い寄ったらしい。娘は、条件表の噂を北の領地でもちゃんと聞いていた。三つだけ条件を書いた紙を渡して、ユリウス様は一つ目で落ちたそうだ。一つ目は、娘の名前だった。
ミナがその話を聞いてきた夜、私は少しだけ笑った。少しだけ。それ以上は、もう何も感じなかった。
ルカは、王都に残った。
港から戻ったその日のうちに、ルカは父の書斎の扉を叩いた。お嬢様に求婚するお許しを、いただきたく。そう言って、深々と頭を下げたらしい。
父は三時間泣いた。泣き終えてから、ルカを護衛として雇った。泣いているあいだに何を考えていたのかは、誰にもわからない。ルカ本人は門番見習いのつもりでいるらしく、毎朝、バルトと並んで門の前に立っている。バルトは、郵便配達人に吠えなくなった。
手紙は、三日に一通届いた。同じ屋敷にいるのに。角ばった、無骨な字で。天気のことと、バルトのことと、北の丘の雪の具合が書いてあった。
条件四十二。手紙は三日に一通でいい。
一日も、ずれなかった。
冬の終わりに、母の墓所へ行った。白い石の腰掛けのある場所。泣きたいときに、一人で行く場所。
その日は泣きたくなかった。だから、一人では行かなかった。ルカは腰掛けの端に座って、何も言わずに、私が母に話しかけるのを最後まで聞いていた。遮らずに。
飴は、自分で買うようになった。菓子屋で一番安い、紙に包んだ飴。ときどき、私の分も一つ買ってくる。
そして、春が来た。
春の三日。
中通りの角の、青い看板の茶屋。
約束の時刻より、少し早く着いた。今日は、晴れていた。雲ひとつない。
扉を開けると、おかみさんが私を見て、奥の窓際の席を目で示した。二年前、私が一人で夕方まで座っていた席。
そこに、もう人が座っていた。
黒い制服ではなかった。濃い灰色の、少しだけ仕立ての良すぎる上着。たぶん、父が見立てたのだ。卓の上には、ケーキが二つ。まだ誰も手をつけていない。その隣に、細い硝子の瓶が一つ置いてあった。
青い花が、一輪。
「早いのね」
私が言うと、ルカは立ち上がった。
「先に来て、待っていたかったので」
「いつから」
「開店から」
おかみさんが、奥で小さく吹き出した。
「ケーキ、二つも頼んだの」
「あの日の、二つ分です」
ルカは、卓の上の皿を少しだけ私のほうへ寄せた。
「あの日、あなたが食べられなかった二つ分なので。どちらも、あなたのです」
私は、向かいの椅子に腰を下ろす。
おかみさんが、頼んでもいない紅茶を運んできた。砂糖の壺は添えられていない。代わりに、蜂蜜の小皿。ちょうど、小さじ半分。
「こちらのお客さんが、開店のときにそうおっしゃって」
おかみさんは、にこにこしながら奥へ戻っていった。
瓶の中の矢車菊を見る。まだ春の初めで、王都ではどこにも咲いていない花。
「北の丘」
「はい。斜面の南側に、早く咲く株があるので」
長靴の先に、赤い泥がついていた。去年の秋と、同じ泥。
「ルカ」
「はい」
「条件百の横に、何て書いたの」
ルカは、しばらく黙っていた。
窓の外を、春の風が通っていく。二年前の今日、雨が降っていた通りを。
「俺であること」
平らな声だった。平らで、少しも隠していない声。
「と、書きました。書いてから、そんなことを書く資格はないと思って、消しました」
「忘れました、って言ったわ」
「はい」
「嘘をついたのね」
「一度だけ」
私は、ため息をついた。つこうとして、半分は笑い声になった。
「条件九十九より、ずっと重い違反よ」
「知っています」
ルカは、上着の内側から、小さく折りたたんだ紙を出した。
卓の上に置いて、私のほうへ滑らせる。
「俺の条件です」
私は、紙を開いた。
便箋一枚。角ばった、無骨な、一画ずつ力を込めた字。
書いてあるのは、一行だけだった。
『条件一。来年も、再来年も、この日は俺に祝わせること』
条件、一。
その下には、何もない。二も、三もない。広い余白が、便箋の下まで続いている。
私は、しばらくその一行を見ていた。
二年前の今日は、ケーキを二つ頼んで、二つとも食べずに帰った。雨の中を、傘も差さずに。途中で、誰かが傘を差しかけてくれた。
その人が、今、目の前に座っている。
「百個書いた私が、馬鹿みたいじゃない」
声が、少しだけ震える。
「一つだけなんて」
「百個分は、もう覚えているので」
ルカは言った。
「残りは、全部、俺が覚えています。だから、一つで足ります」
卓の上の素手が、落ち着きなく一度だけ動いた。嘘のつけない人は、緊張も隠せないらしい。
窓から差す光が、卓の上の便箋を白く照らしている。
鞄の中には、原本の束も入っている。十二枚目の最後の一行。判定役が、この国に残ること。港で、自分で自分に合格を出した人が、今、向かいにいる。
私は、鞄の中からペンを出した。冬のあいだに、持ち歩く癖がついた。いつ何を書くことになっても、困らないように。
ペン先を、一行の下の余白に置く。
二年前は、ここで一人だった。
今年は、向かいに人がいる。開店から待っていた人が。
私は、書いた。
――合格




