一曲だけ
指の先に、まだ手の温度が残っていた。
残っているのに、手はもうない。
ユリウス様は、扉のほうへ歩いていった。早足で。人の輪をかき分けて。一度も振り返らなかった。去年の秋と、同じ背中だった。
楽団の音が、途切れそうになって、また戻った。玉座のほうで、誰かが続けるように合図をしたらしい。ワルツの続きが、大広間に流れはじめる。
私は、大広間の真ん中に立っていた。
一人で。
周りの輪が、少しだけ遠くなる。音楽の下で、囁きが広がっていく。扇が開く音。息を吸う音。誰かの手の中で、便箋がかさりと鳴った。
「二十三」
どこかで、誰かが言った。
マルグリットが、口元を両手で覆っているのが見えた。父のハンカチが、人混みの向こうで止まっている。
去年の秋も、こうだった。
曲の途中で手を離されて、ホールの真ん中に一人で残された。あのときの私は、動けなかった。動いたら、泣いているのがわかってしまうから。次の曲が始まるまで、壁の飾り花の数を数えて立っていた。
今夜は、泣いていない。
自分でも不思議なくらい、目の奥は乾いている。胸の中にあるのは、悲しみとは違うもの。ずっと肩に載っていた荷物を、誰かがひょいと持ち上げていったような、そんな軽さ。
終わったのだ。
雨の中の三時間も、石鹸の匂いも、十三の春の笑い顔も。全部、ここで終わった。条件表に書いてあったとおりに。
私は、ドレスの裾をつまんだ。
今夜は、立ち尽くさない。自分の足で、この輪の外まで歩いていく。誰に手を引かれなくても。
一歩目を踏み出そうとしたとき、人の輪が、一か所だけ割れた。
黒い制服が、大広間を横切ってくる。
玉座のそばの騎士たちの列から、一人だけ抜け出して。足音は乱れない。人々が、驚いたように道を空けていく。護衛の騎士が持ち場を離れて歩いてくるところを、たぶん大広間の誰も見たことがなかった。
列に残った若い騎士が、慌てて手を伸ばしかけるのが見えた。ルカは振り向かない。伸びかけた手は、行き場をなくして下ろされた。
私の二歩手前で、ルカが立ち止まる。
私ではなく、周りの人々に向かって、判定役の声で言った。
「判定役として申し上げます。条件二十三、不合格です」
平らな声が、音楽の上をまっすぐに渡っていった。
囁きが、ざわめきに変わる。便箋を持った令嬢たちが、一斉に顔を見合わせた。扉のほうで、ユリウス様の足が止まったのが見えた。
「待て、今のは」
ユリウス様の声が、人混みの向こうから上がりかける。玉座のそばで、扇がぱちんと音を立てて閉じた。ユリウス様の声は、そこで途切れた。
ルカは、私に向き直った。
黒い手袋の手が、差し出される。
「ここから一曲だけ、職務放棄します」
大広間が静かになった。音楽だけが流れている。
私は、差し出された手を見た。
黒い手袋。雨の日の傘の柄を握っていた手。窓辺に花を置いていった手。私の答えを、ユリウス様に渡していた手。
全部、同じ手。
「罰を受けますよ」
小さな声で言った。
「知っています」
「厩舎の掃除では、済まないかもしれない」
「知っています」
私はドレスの裾から指を離して、その手を取った。
手袋越しの手は、冷たくなかった。親指の付け根に、小さなほつれがある。厩舎の藁のせいかもしれない。
ルカが、私を引き寄せる。ワルツの輪の中へ、二人で入っていく。
踊り始めて、驚いた。
上手だった。ユリウス様よりも。足運びは控えめなのに、一度も迷わない。私が回りたいほうへ、回りたい瞬間に、手が添えられる。
「どこで習ったの」
回りながら聞いた。
「習っていません」
「嘘」
「嘘はつけません」
ルカは、少しだけ視線を落とした。
「壁際から、ずっと見ていたので」
何百回も。何千回も。壁際に立って、人が踊るのを見ていた人。自分は一度も踊らずに。
見ていたのは、ホールの全部だったのだろうか。それとも。
聞けなかった。聞いたら、答えが返ってきてしまう。嘘のつけない人から。
三回目に回ったところで、私のほうが彼の足を踏んだ。
「……失礼」
「いいえ」
十三の春に、ユリウス様が私の足を踏んだのも三回だった。今夜は、踏んだのが私で、踏まれた人は眉ひとつ動かさない。
条件二十三を書いた夜のことを思い出した。ワインの味がしなくなって、ペンが止まった夜。あの夜の私は、この曲を想像できただろうか。
今夜は、飾り花の数を数えていない。数える必要が、どこにもなかった。
大広間の人々が、少しずつ踊りに戻っていく。それでも、視線はこちらに集まったままだった。扇の陰から。便箋の陰から。
マルグリットの婚約者が、マルグリットの手を引いて輪に入ってきた。すれ違いざまに、マルグリットが私にだけわかるように片目をつぶった。
玉座のほうを見ると、殿下が立っていた。
扇を半分開いて、口元を隠している。その前で、ユリウス様が何か話しかけていた。殿下は、ユリウス様を見ていなかった。扇の上から、まっすぐにこちらを見ている。
ユリウス様が、殿下の視線を追って振り向いた。
目が合った。
ユリウス様の顔から、表情が抜け落ちていくのが見えた。自分が手を離した相手が、別の誰かの手の中で回っている。そのことに、今やっと気づいたような顔。
私は、ユリウス様から目を離した。そらしたわけではない。ただ、ルカのほうへ向き直っただけ。
「あの人、見ているわ」
「はい」
「気にならないの」
「なりません」
少し間があった。
「俺が見ているのは、あなただけなので」
言ってから、ルカ自身が驚いたような顔をした。一瞬だけ、足運びが乱れた。初めて。すぐに元に戻る。
黒い髪の下で、耳の先が赤くなっている。本人は、たぶん気づいていない。
私は、笑ってしまった。
声を立てずに。でも、たぶん顔じゅうで。
ワルツが、終わりに近づいていく。
終わらないでほしいと思った。思ってしまった自分に、もう腹は立たなかった。
最後の和音が鳴って、音楽がやむ。
私たちは、大広間の真ん中で足を止めた。私はドレスの裾をつまんで膝を折り、ルカは深く頭を下げる。教本どおりの角度より、少しだけ深く。
拍手が起きた。
最初に手を叩いたのは、父だった。ハンカチを脇に挟んで、誰よりも大きな音で。それから、マルグリットが。便箋を持った令嬢たちが。最初は小さく、それから大広間じゅうに広がっていく。
頭を上げたルカが、私にだけ聞こえる声で言った。
「一曲だけ、と言いましたので」
約束を守った人の声だった。守った分の罰も、もう知っている人の声。
その拍手の中を、重い足音が近づいてきた。
金の肩章をつけた、白い口髭の年配の騎士。近衛隊長だった。
ルカの肩に、近衛隊長の手が置かれた。




