↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
やり直したいと言う元婚約者に、条件を百個渡しました  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/17

一曲だけ

指の先に、まだ手の温度が残っていた。


残っているのに、手はもうない。


ユリウス様は、扉のほうへ歩いていった。早足で。人の輪をかき分けて。一度も振り返らなかった。去年の秋と、同じ背中だった。


楽団の音が、途切れそうになって、また戻った。玉座のほうで、誰かが続けるように合図をしたらしい。ワルツの続きが、大広間に流れはじめる。


私は、大広間の真ん中に立っていた。


一人で。


周りの輪が、少しだけ遠くなる。音楽の下で、囁きが広がっていく。扇が開く音。息を吸う音。誰かの手の中で、便箋がかさりと鳴った。


「二十三」


どこかで、誰かが言った。


マルグリットが、口元を両手で覆っているのが見えた。父のハンカチが、人混みの向こうで止まっている。


去年の秋も、こうだった。


曲の途中で手を離されて、ホールの真ん中に一人で残された。あのときの私は、動けなかった。動いたら、泣いているのがわかってしまうから。次の曲が始まるまで、壁の飾り花の数を数えて立っていた。


今夜は、泣いていない。


自分でも不思議なくらい、目の奥は乾いている。胸の中にあるのは、悲しみとは違うもの。ずっと肩に載っていた荷物を、誰かがひょいと持ち上げていったような、そんな軽さ。


終わったのだ。


雨の中の三時間も、石鹸の匂いも、十三の春の笑い顔も。全部、ここで終わった。条件表に書いてあったとおりに。


私は、ドレスの裾をつまんだ。


今夜は、立ち尽くさない。自分の足で、この輪の外まで歩いていく。誰に手を引かれなくても。


一歩目を踏み出そうとしたとき、人の輪が、一か所だけ割れた。


黒い制服が、大広間を横切ってくる。


玉座のそばの騎士たちの列から、一人だけ抜け出して。足音は乱れない。人々が、驚いたように道を空けていく。護衛の騎士が持ち場を離れて歩いてくるところを、たぶん大広間の誰も見たことがなかった。


列に残った若い騎士が、慌てて手を伸ばしかけるのが見えた。ルカは振り向かない。伸びかけた手は、行き場をなくして下ろされた。


私の二歩手前で、ルカが立ち止まる。


私ではなく、周りの人々に向かって、判定役の声で言った。


「判定役として申し上げます。条件二十三、不合格です」


平らな声が、音楽の上をまっすぐに渡っていった。


囁きが、ざわめきに変わる。便箋を持った令嬢たちが、一斉に顔を見合わせた。扉のほうで、ユリウス様の足が止まったのが見えた。


「待て、今のは」


ユリウス様の声が、人混みの向こうから上がりかける。玉座のそばで、扇がぱちんと音を立てて閉じた。ユリウス様の声は、そこで途切れた。


ルカは、私に向き直った。


黒い手袋の手が、差し出される。


「ここから一曲だけ、職務放棄します」


大広間が静かになった。音楽だけが流れている。


私は、差し出された手を見た。


黒い手袋。雨の日の傘の柄を握っていた手。窓辺に花を置いていった手。私の答えを、ユリウス様に渡していた手。


全部、同じ手。


「罰を受けますよ」


小さな声で言った。


「知っています」


「厩舎の掃除では、済まないかもしれない」


「知っています」


私はドレスの裾から指を離して、その手を取った。


手袋越しの手は、冷たくなかった。親指の付け根に、小さなほつれがある。厩舎の藁のせいかもしれない。


ルカが、私を引き寄せる。ワルツの輪の中へ、二人で入っていく。


踊り始めて、驚いた。


上手だった。ユリウス様よりも。足運びは控えめなのに、一度も迷わない。私が回りたいほうへ、回りたい瞬間に、手が添えられる。


「どこで習ったの」


回りながら聞いた。


「習っていません」


「嘘」


「嘘はつけません」


ルカは、少しだけ視線を落とした。


「壁際から、ずっと見ていたので」


何百回も。何千回も。壁際に立って、人が踊るのを見ていた人。自分は一度も踊らずに。


見ていたのは、ホールの全部だったのだろうか。それとも。


聞けなかった。聞いたら、答えが返ってきてしまう。嘘のつけない人から。


三回目に回ったところで、私のほうが彼の足を踏んだ。


「……失礼」


「いいえ」


十三の春に、ユリウス様が私の足を踏んだのも三回だった。今夜は、踏んだのが私で、踏まれた人は眉ひとつ動かさない。


条件二十三を書いた夜のことを思い出した。ワインの味がしなくなって、ペンが止まった夜。あの夜の私は、この曲を想像できただろうか。


今夜は、飾り花の数を数えていない。数える必要が、どこにもなかった。


大広間の人々が、少しずつ踊りに戻っていく。それでも、視線はこちらに集まったままだった。扇の陰から。便箋の陰から。


マルグリットの婚約者が、マルグリットの手を引いて輪に入ってきた。すれ違いざまに、マルグリットが私にだけわかるように片目をつぶった。


玉座のほうを見ると、殿下が立っていた。


扇を半分開いて、口元を隠している。その前で、ユリウス様が何か話しかけていた。殿下は、ユリウス様を見ていなかった。扇の上から、まっすぐにこちらを見ている。


ユリウス様が、殿下の視線を追って振り向いた。


目が合った。


ユリウス様の顔から、表情が抜け落ちていくのが見えた。自分が手を離した相手が、別の誰かの手の中で回っている。そのことに、今やっと気づいたような顔。


私は、ユリウス様から目を離した。そらしたわけではない。ただ、ルカのほうへ向き直っただけ。


「あの人、見ているわ」


「はい」


「気にならないの」


「なりません」


少し間があった。


「俺が見ているのは、あなただけなので」


言ってから、ルカ自身が驚いたような顔をした。一瞬だけ、足運びが乱れた。初めて。すぐに元に戻る。


黒い髪の下で、耳の先が赤くなっている。本人は、たぶん気づいていない。


私は、笑ってしまった。


声を立てずに。でも、たぶん顔じゅうで。


ワルツが、終わりに近づいていく。


終わらないでほしいと思った。思ってしまった自分に、もう腹は立たなかった。


最後の和音が鳴って、音楽がやむ。


私たちは、大広間の真ん中で足を止めた。私はドレスの裾をつまんで膝を折り、ルカは深く頭を下げる。教本どおりの角度より、少しだけ深く。


拍手が起きた。


最初に手を叩いたのは、父だった。ハンカチを脇に挟んで、誰よりも大きな音で。それから、マルグリットが。便箋を持った令嬢たちが。最初は小さく、それから大広間じゅうに広がっていく。


頭を上げたルカが、私にだけ聞こえる声で言った。


「一曲だけ、と言いましたので」


約束を守った人の声だった。守った分の罰も、もう知っている人の声。


その拍手の中を、重い足音が近づいてきた。


金の肩章をつけた、白い口髭の年配の騎士。近衛隊長だった。


ルカの肩に、近衛隊長の手が置かれた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。