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契約結婚のはずが、痩せた継子と冬に怯える辺境伯に「ひと冬の越し方」を教えていたら、いつの間にか本物の家族になっていました

作者: 中身無男
掲載日:2026/06/15

ヴィオラの母は、冬に死んだ。


 食べるものが尽き、薪が尽き、痩せた体が寒さに耐えきれなかった。幼かったヴィオラは、ただ隣で、母の手が冷えていくのを見ていることしかできなかった。何もできなかった。数えることも、帳面をつけることも、塩を漬けることも、まだ何ひとつ知らなかった。ただ、握った手が冷たくなっていくのを、止められなかった。


 母は最期まで、娘に「ごめんね」とは言わなかった。代わりに、冷えた手で娘の髪を撫でながら、こう言った。


 ――どこへ行っても、食べていけるようにおなり。


 それが、母が遺した最後の言葉だった。読み書きと、数の数え方と、煮炊きや塩漬けの知恵。どこの土地でも、冬を越して生きていける、そのための知恵。母が娘に遺せたものは、それだけだった。


 だから二十年後、「ひと冬を、誰も死なせずに越させてくれ」と辺境伯に言われたとき、ヴィオラはその言葉の重さに、しばらく動けなかった。


 それは、彼女がこの二十年、ずっと果たせずにいた約束そのものだった。


    * * *


 ヴィオラが辺境伯領の屋敷に着いたのは、初雪のひと月前のことだった。


 迎えの馬車などというものはなく、街道沿いの宿で行商の荷馬車に同乗させてもらい、最後の半里は自分の足で歩いた。革の鞄ひとつ。それが嫁入り道具のすべてだった。中身は、着替えと、数冊の帳面と、母から受け継いだ「冬の越し方」のすべて。それだけだった。


 門の前で待っていた男は、辺境伯エイダンその人だった。当主が下働きのように門前に立っていることに、ヴィオラはまず驚いた。


「思っていたより、ずいぶん身軽だな」


 それが、夫となる男の第一声だった。からかうような響きがあった。鞄ひとつしか持たない花嫁を、面白がっている顔だ。


「持って歩けるだけが、わたしの財産ですから」


 ヴィオラは淡々と返した。


「家柄も持参金もない女を妻にと望んだのは、そちらでしょう」


 エイダンは一瞬、虚を突かれたように黙り、それから声を上げて笑った。


「噂どおりだ。媚びない女だと、行く先々で聞いた。港町でも、商家でも、宿場でも。『あの女は使える、だが頭は下げん』と」


「使える、のほうだけ買っていただければ結構です」


「いいや」


 エイダンは門を開けながら言った。


「頭を下げん女のほうを、俺は買った」


 その言葉の意味を、ヴィオラはこのときまだ測りかねていた。


    * * *


 契約は明快だった。


「一年だ」


 その夜、エイダンは言った。


「正しくは、ひと冬。この領地は、毎年、冬に人が死ぬ。食えずに、凍えて、春を待たずに何人もな。あんたが来て、この冬を、誰も死なせずに越させられたら――それで、あんたの実力を認める。契約を続ける」


「越せなければ?」


「離縁してくれていい。あんたは身軽だ。鞄ひとつで、次の土地へ行けばいい」


 エイダンは肩をすくめた。


「ひと冬。それだけ見せてくれ」


 軽い口ぶりだった。けれどヴィオラは、その言葉の底に、軽さでは隠しきれない何かが沈んでいるのを感じた。冬、という言葉を口にするとき、この男の目の奥が、ほんの一瞬、暗くなる。


 ヴィオラは、その正体をまだ知らなかった。知るのは、もう少し後のことだ。


「……やります」


 ヴィオラは言った。いつもより、わずかに低い声で。


「ひと冬。誰も、死なせません」


 エイダンは、その返事の重さには気づかなかった。ただ、面白い女だ、というように笑っただけだった。けれど、その笑いも、どこか無理をしているように、ヴィオラには見えた。


    * * *


 屋敷は荒れていた。


 貴族の屋敷というより、半ば打ち捨てられた商館のようだった。壁の漆喰は剥げ、暖炉には煤が厚く積もり、使用人の数は屋敷の広さに対して明らかに足りていない。残った者たちは、新しくやってきた身分の知れぬ妻を、遠巻きに見ていた。


 ヴィオラはそれらをひととおり眺め、表情を変えなかった。荒れた現場なら、いくつも見てきた。荒れているということは、つまり、直す余地があるということだ。


「夕食までに、帳簿を見せていただけますか」


 到着して半刻も経たぬうちにそう言ったヴィオラを、家令の老人は胡散臭そうに見た。


「奥さま、長旅でお疲れでしょう。帳簿などは、追い追い」


「疲れているからこそ、今のうちに見ておきたいのです。冬は、待ってくれませんから」


 老家令は渋い顔のまま、それでも帳簿を運んできた。試すような目をしていた。よそ者の女に、数字の何がわかる、という目だ。


 ヴィオラは、その目を何度も見てきた。商家の帳場に下働きから入ったとき。港町の倉庫で荷の出入りを任されたとき。いつだって最初は、こういう目で見られた。だから腹も立たない。返す言葉は決まっている。数字で示す。それだけだ。


 燭台を引き寄せ、ヴィオラは帳簿を開いた。羊皮紙をめくる指は、慣れた速さで動いた。最初の四半刻は、ただ流れを掴むために黙って読んだ。


 そして、止まった。


「家令どの。この三年、麦の買い付け値が、毎年あがっています。不作だから、と説明されていますね」


「さようで。ここ数年、冬が厳しく、近隣の作も振るわず」


「では伺いますが」


 ヴィオラは別の頁を指した。


「同じ三年、この『運び賃』の額も、買い付け値とぴったり同じ割合で上がっているのは、なぜです」


 老家令の顔が、わずかに動いた。


「不作なら、麦の値は上がる。それはいい。ですが、麦を運ぶ手間は不作とは関係ない。道が同じ、距離が同じなら、運び賃はそう変わらないはずです。なのにこれは、麦の値に合わせて、行儀よく上がっている」


 燭台の灯が、頁の上で揺れた。


「これは、不作のせいで領地が貧しいのではありません。誰かが、不作を口実に、買い付けと運搬の両方から、毎年きまった割合を抜いている。三年で、これだけ」


 ヴィオラは羊皮紙の余白に、さっと数字を書きつけた。老家令がそれを覗き込み、息を呑んだ。一年ぶんの税にも届こうという額だった。


「これだけの金が、毎年、消えていた」


 ヴィオラは静かに言った。


「冬を越すための金です。麦を買い、塩を買い、薪を割るための金。それが抜かれていたから、毎年、誰かが冬に死んだ。不作のせいではありません。これは、人の手で起きていた飢えです」


 扉のところで、いつから聞いていたのか、エイダンが立っていた。その顔から、いつもの軽い笑みが、消えていた。


「……人の手で、起きていた飢えだと」


「ええ」


 エイダンは、ゆっくりと帳簿に近づいた。ヴィオラが指した数字を、読めもしないその黒い染みを、長いあいだ見つめていた。


「……気づいていたか」


 ヴィオラは静かに言った。


「あなたは、何かがおかしいと、気づいていましたね。けれど、確かめなかった」


「ああ」


 エイダンの声が、低かった。


「確かめるのが、怖かった。帳簿を開いて、もし――もし、防げた死だったと知ってしまったら。俺は、それに耐えられる気がしなかった」


 その言葉の意味を、ヴィオラはまだ正確には掴めなかった。けれど、この男が冬という言葉に見せる、あの一瞬の暗さと、それは確かに繋がっていた。


「だから、読める女を妻にした」


 ヴィオラは言った。


「そういうことだ」


 エイダンは、無理に笑おうとして、失敗した。


「ずいぶん高くついたが……安い買い物、だったな」


 ヴィオラは、それ以上踏み込まなかった。人には、まだ触れられない傷がある。それを無理にこじ開けないことを、彼女は渡り歩いた先々で覚えていた。


    * * *


 帳簿に巣食っていたのは、商会から送り込まれた仕入れ役の男だった。


 麦と塩の仕入れを一手に握り、運び賃に毎年上乗せして抜いていた。ヴィオラはその仕組みを、二人以上の目が通らねば金が動かぬよう改めた。男は言い逃れができなくなり、ひと冬の蓄えを買うための金が、ようやく金庫に戻った。


 これで、軍資金はできた。あとは、これで冬を越すための蓄えを買い込むだけだ――ヴィオラはそう考えていた。


 甘かった、と気づくのに、三日とかからなかった。


 仕入れ役の男は、ただ去りはしなかった。その男は、この地方一帯に麦と塩を卸す商会の、息のかかった者だった。男が領地を追われたと知るや、商会はぴたりと取引を止めた。秋の終わり、これから冬の蓄えを買い込もうという、まさにその時にだ。


「どこへ使いを出しても、麦を売らんと言う」


 帰ってきた家令が、青い顔で報告した。


「塩も同じです。商会が、この領地には卸すなと、近隣の市すべてに触れを回したらしい。男を追い出した意趣返しでございましょう」


 金はある。帳簿から取り戻した、冬を越すための金が、たしかに金庫にある。だが、その金で買うべき麦が、塩が、どこにも売っていない。


 冬は、ひと月後に迫っていた。


 屋敷の空気が、重く沈んだ。家令は「今年も、何人か死ぬのは仕方ない」と諦めの色を見せた。使用人たちも、一人、また一人と、持ち場に戻っていった。諦めの早さが、この領地が毎年どんなふうに冬を迎えてきたかを、物語っていた。


 その夜、誰もいなくなった広間で、机に地図を広げるヴィオラの隣に、一人だけ残った者がいた。


 エイダンだった。


「みんな、諦めましたね」


 ヴィオラは地図から目を上げずに言った。


「ああ。この領地の連中は、諦めるのが上手い。毎年、そうやって冬を迎えてきたからな」


 エイダンは椅子を引いて、ヴィオラの向かいに座った。


「だが、あんたは諦めてない。地図なんか広げて、何を企んでる」


「企むだなんて。道を、探しているだけです」


 ヴィオラは、地図の上を指で辿った。


「商会が握っているのは、この一帯の市だけです。けれど、塩は海から来る。麦も、もとを辿れば別の土地から運ばれてくる。商会は、川の下流で堰を作っているにすぎません。上流から直に引けば、堰など関係ない」


「上流、とは」


「港です」


 ヴィオラは顔を上げた。


「わたしは三年、港町の倉庫で働いていました。当時の荷主の何人かは、まだ顔が利きます。商会を通さず、港から直に塩を引きます。街道沿いの宿場には、行商の網を束ねる主人がいる。荷を継いで運べば、ひと月が、十日に縮む。麦も、宿場で行商から束で買い集めれば、表に出ずに揃えられます」


 エイダンが、地図を覗き込んだ。ヴィオラの指が、彼女がこれまで渡り歩いてきた土地を、ひとつ、またひとつと結んでいく。港町。宿場。商家。点と点が、線になり、この辺境へと繋がっていく。


「……あんたが歩いてきた道が、そのまま、麦を運ぶ道になるのか」


「わたしには、家柄も持参金もありません。あるのは、歩いてきた道と、そこで世話になった人たちの顔だけです。けれど、いまはそれが、いちばんの財産です」


 エイダンは、しばらく地図を見ていた。それから、ぽつりと言った。いつもの軽口ではない、低い声で。


「……無理だと思ったら、言ってくれ」


 ヴィオラは、顔を上げた。


「あんた一人に、背負わせたくない」


 エイダンは、地図の上のヴィオラの手を、見ていた。


「俺は数字も読めん、伝手も持たん、何の役にも立たん夫だ。だが、せめて――無理なものを無理だと、あんたが言える相手ではいたい。一人で抱えて、潰れちまわんように」


 ヴィオラの手が、地図の上で止まった。


 誰にも期待しない。一人で生きていく。それを技術にまでして、二十年やってきた。無理を無理と言える相手なんて、これまで一度も、いた例しがなかった。いつも、一人で抱えて、一人で越えてきた。


「……覚えておきます」


 ヴィオラは、ようやくそれだけ言った。声が、少しだけ、いつもと違った。


 エイダンは、ふっと笑った。今度は、無理をしていない笑いだった。


    * * *


 その夜、二人は遅くまで、地図の前にいた。


 手紙の宛先を一緒に考え、運ぶ順を組み、間に合うかを幾度も数えた。エイダンは数字こそ読めなかったが、人の機微には聡かった。「その荷主は、恩を売られるより、貸しを返すほうが動く男だ」というような勘所を、いくつも言い当てた。渡り歩いて人を見てきたヴィオラと、領主として人を束ねてきたエイダン。二人の見てきたものが、地図の上で、噛み合っていった。


 ヴィオラは、その晩のうちに何通もの手紙を書いた。港の荷主へ。宿場の主人へ。かつて帳場を手伝った商家へ。一人ひとり、顔を思い浮かべながら、頭は下げず、けれど誠実に、用件を綴った。


 返事は、来た。


 港の荷主は、昔のよしみで塩を樽ごと回してくれた。宿場の主人は、行商網を使って、それを十日で辺境まで継いでくれた。商家は、市に出ない麦を、束で安く分けてくれた。商会の堰を、ヴィオラの歩いてきた道が、迂回した。


 冬の入り口、辺境伯領の蔵に、塩と麦が運び込まれた。商会が決して売らなかったはずの、冬を越すための蓄えが。


「取り戻した金で、買えないものを買った」


 エイダンは、積み上がっていく樽を見ながら、半ば呆れたように言った。


「金だけでも、伝手だけでも、足りなかった。両方を持っている人間が、この世にどれだけいる」


「金は、帳簿が取り戻しました」


 ヴィオラは樽の数を帳面に書きつけながら答えた。


「伝手は、足が稼ぎました。どちらも、わたしがこれまで生きてきた、そのぶんです。無駄な土地は、ひとつもなかったということです」


 だが、それでもまだ、足りなかった。商会の妨害で動き出しが遅れたぶん、買い集められた麦と塩は、全戸ぶんには、わずかに届かない。


 ヴィオラは、ここでもう一段、知恵を絞った。港町仕込みの、保存の術だ。限られた食材を、いかに目減りさせず、冬じゅう保たせるか。塩漬け、燻し、乾し。同じ量の食材でも、傷ませて捨てるぶんを限りなく減らせば、養える腹の数は変わってくる。


 帳簿が金を取り戻し、足が麦を運び、手が、それを冬じゅう保たせる。三つが噛み合って、はじめて、勘定が合った。ようやく、全戸ぶんの蓄えが、揃ったのだ。


    * * *


 その仕込みのさなか、ヴィオラは、屋敷にもう一人、自分を遠巻きに見ている者がいることに気づいた。


 リーゼ。エイダンの娘。五つになる。


 その子を初めてまともに見たとき、ヴィオラはまず、痩せているな、と思った。手首が細い。頬がこけている。各地で数えきれぬほどの子供を見てきたヴィオラには、それが食べていない子の体だと、ひと目でわかった。病ではない。心が、食べることを拒んでいる。


 リーゼの母は、もういない。母を亡くしてから、この子はめっきり食が細くなった。父を困らせまいとするのか、わがままひとつ言わず、出されたものを少しだけ口にして、あとは皿に残す。聞き分けのいい、静かすぎる子だった。


 ヴィオラには、その静けさの意味がわかった。わかりすぎるほどに、わかった。痩せて、冬に弱っていく子供。それは、かつてのヴィオラ自身であり、ヴィオラが救えなかった母の、最後の姿でもあった。


 この子を、この冬、越させなければ。それは契約のためではなかった。もっと古い、もっと個人的な約束のためだった。


 とはいえ、無理に食べさせようとはしなかった。子供扱いも、しなかった。ヴィオラは、ただ自分の仕事をした。冬の備えの、仕込みを。


 ある日、厨房の戸の陰から、こちらを覗く小さな影に気づいた。リーゼだった。


 ヴィオラは気づかぬふりをして、手を動かし続けた。覗いている子に、声はかけない。来たければ来る。来たくなければ来ない。それでいい。


 次の日も、リーゼは戸の陰にいた。その次の日も。四日目、ヴィオラは魚を並べながら、戸のほうを見ずに言った。


「手が、足りないの。塩をすり込むだけでいい。やってみる気があるなら、手を洗ってらっしゃい」


 長い沈黙のあと、小さな足音が近づいてきた。リーゼは、ヴィオラのとなりの台に、おそるおそる手を伸ばした。冷たい魚に触れて、一瞬ひるんで、それでも、見よう見まねで塩をすり込んだ。


「上手」


 ヴィオラは短く言った。世辞ではなかった。


「丁寧にやる子は、いい仕事をする」


 リーゼは何も言わなかった。けれど、その小さな手は、止まらなかった。


 それから、二人はよく厨房に並んだ。喋らない日もあった。ヴィオラも、無理に喋らせなかった。手を動かしているうちに、リーゼのほうから、ぽつりぽつりと言葉がこぼれるようになった。


 ある日、リーゼは小さな声で言った。


「……おかあさまも、お料理、してた」


 ヴィオラの手が、止まりかけた。けれど止めなかった。止めれば、この子は口を閉じる。


「そう」


「やさしいにおいが、した」


「いいお母さまだったのね」


「……うん」


 リーゼの首から、紐に通した小さなものが下がっていた。割れた貝の片割れだった。


「それ、お母さまのもの?」


 リーゼは貝を握りしめて、こくりと頷いた。取り上げられると思ったのか、体を硬くした。各地で見てきた。大人は子供から、悲しみの種を取り上げようとする。前を向きなさい、いつまでも引きずるな、と。


 ヴィオラは、取り上げなかった。


「大事にしなさい」


 ヴィオラは静かに言った。


「忘れなくて、いいの。お母さまのこと、ずっと覚えていて。覚えていることは、悪いことじゃない」


 リーゼが、顔を上げた。


「わたしもね」


 ヴィオラは魚を並べながら続けた。


「わたしのお母さまのこと、まだ覚えてる。もう、ずっとずっと昔に、冬に死んでしまったのに、覚えてる。この塩漬けのやり方も、お母さまが教えてくれたの。だからわたしは、こうして魚を漬けるたびに、お母さまのことを思い出す」


「……おかあさまが、おしえてくれたの?」


「そう。どこへ行っても食べていけるように、って。冬を越せるように、って。それだけが、わたしのお母さまが、わたしに遺してくれたものなの」


 リーゼは、ヴィオラの手元をじっと見ていた。母から娘へ、娘からこの子へと、いま受け渡されようとしている手つきを。


「……おしえて」


 リーゼが言った。


「わたしにも、おしえて」


 ヴィオラは、頷いた。喉の奥が、少しだけ熱かった。


 その晩、夕食の席で、リーゼはいつもより多く食べた。ヴィオラと一緒に漬けた魚を、何度もヴィオラのほうを見ながら、ゆっくりと。


 エイダンが、それに気づいた。娘が、食べている。残さずに。久しく見ていなかった光景に、この饒舌な男が、めずらしく言葉をなくしていた。


    * * *


 その夜だった。エイダンが、初めて自分から、妻の話をしたのは。


 ヴィオラが厨房の片付けをしていると、彼がやってきた。手には、酒の杯がふたつ。片方を、黙ってヴィオラの前に置いた。


「あの子の母親は――俺の妻は」


 エイダンは、窓の外の、降りはじめた雪を見ていた。


「二年前の冬に、死んだ」


 ヴィオラは、手を止めた。今度は、止めるべき時だと、わかった。


「優しい女だった。優しすぎる女だった」


 エイダンの声は、静かだった。


「あの冬も、領地は飢えていた。妻は、自分の食う分を、領民に分けた。子供がいる家に、年寄りのいる家に。少しずつ、少しずつ。俺はそれを、止めなかった。立派なことだと、思っていたからだ」


 杯の酒は、まだ口がつけられていなかった。


「だが、冬の終わりに、弱っていたのは、妻のほうだった。人に分けすぎて、自分が空っぽになっていた。気づいたときには、もう遅かった。春の花が咲くのを、あれは見られなかった」


 エイダンは、ようやく杯に口をつけた。


「以来、俺は、領地の飢えを、まともに見られなくなった。帳簿を開けば、あの冬の飢えと、向き合うことになる。妻を殺した飢えと。俺は、それが怖くて、逃げ続けた。軽口を叩いて、笑って、見ないふりをして。――領主失格だな」


 長い沈黙があった。雪の落ちる音だけが、聞こえた。


 ヴィオラは、しばらく考えてから、口を開いた。慰めではなかった。慰めなら、この男はとうに聞き飽きているはずだ。


「奥さまは、間違っていません」


 エイダンが、顔を上げた。


「人に分けたことも、優しかったことも、何ひとつ、間違っていない」


 ヴィオラは、まっすぐに彼を見た。


「間違っていたのは、優しさが、一人の人間の身を削るしかなかった、その仕組みのほうです。優しい人が、優しくしたぶんだけ死んでいく。そんな仕組みのほうが、間違っている」


 彼女は、片付けかけた帳面に、手を置いた。


「仕組みなら、変えられます。一人が身を削らなくても、みんなが冬を越せるように。誰かの優しさを、誰かの命と引き換えにしなくて済むように。――それが、わたしの仕事です」


 エイダンは、ヴィオラを見つめていた。


「あなたの奥さまが、その身を削って守ろうとしたものを」


 ヴィオラは静かに言った。


「わたしは、誰の身も削らずに、守ります。だから――あなたは、間違った人を妻にしたわけじゃない。奥さまが始めたことを、別のやり方で続けられる人を、選んだんです」


 エイダンの目が、潤んだ。この饒舌な男が、何も言えずにいた。言葉の多い男が、言葉を失っていた。


 やがて、彼は、絞り出すように言った。


「……あんたを妻にして、よかった」


 それは、軽口ではなかった。この男が、二年ぶりに、冬を正面から見た、その夜の言葉だった。


    * * *


 雪が、本格的に降りはじめた。


 辺境の冬が、やってきた。ヴィオラが恐れ、エイダンが逃げ続け、リーゼが母を奪われた、あの冬が。三人が、それぞれの傷とともに恐れてきた季節が。


 けれど、その年の冬は、いつもと違った。


 蔵には、塩漬けの魚と肉、干した豆、埋めた根菜が、ぎっしりと積まれていた。商会の堰を迂回して運び込み、港町仕込みの保存術で冬じゅう保つ量に変えたものだった。帳簿が取り戻した金が、足が運んだ伝手が、手が施した保存が、すべてそこに積まれていた。領民にも種と塩を配り、各々の家で仕込ませた。誰の身も、削らせずに。


 冬は、長かった。雪は幾度も屋根を埋め、風は壁を鳴らした。けれど、蔵の食べ物は尽きなかった。ヴィオラは毎日、帳面で残りの蓄えを数え、配分を測り、足りぬ家には回し、誰も――ただの一人も、欠けさせなかった。


 エイダンは、もう逃げなかった。ヴィオラと並んで領地を見回り、どの家に蓄えが足りないかを自分の目で確かめ、自ら橇を引いて運んだ。妻が一人で背負って潰れたものを、今度は、皆で分けて背負った。


 そして、春が来た。


 その冬、辺境伯領で、冬を越せずに死ぬ者は、一人も出なかった。


 ひと冬を、越したのだ。約束した、ひと冬を。ヴィオラの二十年越しの約束を。エイダンの、二年逃げ続けた冬を。リーゼの、母を奪った季節を。三人それぞれの冬を、三人で、越えたのだった。


    * * *


 雪解けの近い夜、ヴィオラは暖炉のそばで帳簿をつけていた。隣には、リーゼがいた。この頃、リーゼはよく、ヴィオラの隣で帳簿を覗き込むようになっていた。


「いち、に、さん……」


 リーゼは、帳面の数字を、小さな声で数えていた。母を亡くしてから、不安なとき、この子は数を数える癖がついたのだという。けれど、いまその声には、不安の色はなかった。ただ、数えることが楽しいのだ、という声だった。


 その頬は、もう、こけていなかった。ひと冬を越えて、リーゼの体には、五つの子らしい丸みが戻っていた。


「ヴィオラ」


 リーゼが、ふと顔を上げた。


「なあに」


「……あのね」


 リーゼは、首から下げた割れた貝を、きゅっと握った。それから、もう片方の手を、おずおずとヴィオラの袖に伸ばした。


「おかあさま、って、よんでも、いい?」


 ヴィオラの指から、羽根ペンが滑り落ちた。


 各地を渡り歩いて、いくつもの現場を立て直して、誰にも期待しないことを技術にまでして。それでも、この一言には、何の備えもしていなかった。


「……お母さまは、一人だけよ」


 ヴィオラは、声を整えるのに少し手間取った。


「あなたの、本当のお母さまは」


「うん」


 リーゼは、貝を握ったまま頷いた。


「おかあさまは、ひとり。でも」


 子供は、まっすぐにヴィオラを見た。


「ヴィオラも、おかあさまに、なってくれる?」


 暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。


 ヴィオラは、リーゼのほうへ手を伸ばした。痩せていた手首は、このひと冬で、確かに丸くなっていた。その手を、そっと握った。


「……なるわ」


 声が、震えた。震えたことに、自分で驚いた。


「なる。ちゃんと、あなたのお母さまになる。本当のお母さまの代わりにじゃなくて、もう一人のお母さまに」


 リーゼが、笑った。ヴィオラがこの屋敷に来てから、初めて見る、子供らしい笑いだった。


「ヴィオラ」


 扉のほうから、声がした。いつから立っていたのか、エイダンがそこにいた。腕は組んでいなかった。軽口も、皮肉も、いつものごまかしの笑いも、その顔にはなかった。


「契約のことだが」


 エイダンは言った。


「ひと冬を越せたら、実力を認める、という話だった。あんたは、越させた。誰ひとり、死なせずに」


「ええ」


「だから、認める。――いや、違うな」


 エイダンは、言い慣れぬ言葉を、不器用に、けれど逃げずに続けた。


「実力なんて、とっくに認めてた。俺が本当に言いたいのは、そんなことじゃない」


 彼は、一歩、踏み出した。


「俺はもう、冬が怖くない。あんたがいたから、二年ぶりに、冬を真っ直ぐ見られた。それは、領地を救われたとか、そういう話じゃない。俺自身が、あんたに、救われたんだ」


 エイダンの声は、もう揺れていなかった。


「ひと冬の契約を、なしにしたい。一年で終わる話を、終わらせたくない。来年の冬も、その次の冬も、あんたと、リーゼと、ここで越したい。契約の妻としてじゃなく」


 数えることなら、ヴィオラは得意だった。けれど、この胸の高鳴りだけは、どうしても数えられなかった。


「……契約の、見直しですね」


 ヴィオラは、ようやくそれだけ言った。声に、隠しきれない湿り気があった。


「条項の変更には、双方の合意が要ります」


「合意する」


「わたしも」


 ヴィオラは、リーゼの手を握ったまま、もう片方の手を、エイダンのほうへ差し出した。


「……合意、します」


    * * *


 その晩、辺境伯領の屋敷では、三人ぶんの夕食が、いつもより遅くまで温められていた。


 雪は、もうほとんど解けていた。けれど、たとえまた冬が来ても、もう誰も、それを恐れてはいなかった。一人で背負う冬では、もうなかったからだ。


 蔵には食べるものが満ちていて、帳簿はきれいに整っていて。そして、テーブルには、母を亡くした子と、母を亡くした女と、妻を亡くした男が、家族として並んでいた。それぞれの冬を越えた三人が。


 どこへ行っても食べていけるように、と母は言った。


 ヴィオラは、ようやく、行き着く場所を見つけたのだった。食べていくだけではなく、生きていく場所を。もう、渡り歩かなくていい場所を。

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