第98話 異変の前の巡回票
『北回廊、異常なし』
ダリオは、その一行がある巡回票を手前へ引いた。
「これなら、前の門がどうだったか分かるんじゃないか」
セシアは紙の折り目を開いた。
内側に、小さな経路図がある。
北回廊の入口に丸。
そこから引き返す矢印。
旧水守門のある奥までは、線が伸びていなかった。
「この隊は、門の前へ行っていないわ」
ダリオは、上げかけた顔を戻した。
探していたのは、十四日目の静かな門と比べられる記録だ。
だが、見つかった『異常なし』は、門を見た結果ですらなかった。
◇
最初の観察日から十八日目。
朝、リント村修理工房から返答が届いた。
十六日目の日付が入り、エイルの署名がある。
回復が続いているとは、今の記録だけでは確認できない。
一方で、座替えを急がせる新しい悪化も報告されていない。
十九日目に、同じ三点を一度だけ確認する。
その提案を、リーネは巡回担当と照合して受け入れた。
今日のうちに現地へ確かめに行く予定はない。
代わりに、記録室の机へ、最初の湿気異常より前の巡回票が集められていた。
手紙に添えられた、もう一つの依頼のためだ。
『異常の記載がない場合も、どこまで通り、何を確認した記録かを併せて確かめたいと考えています』
ダリオは、その手紙を机の端へ置いた。
折り返したところには、別の一文が見える。
『今回の揺れなしを、観察者の失敗とは扱いません』
さっきから何度も、そこへ目が戻っていた。
◇
リーネは、ダリオが見つけた票へ小さな紙を添えた。
『北回廊入口で折り返し。門前は未確認』
元の『異常なし』は消さない。
次の票には、北回廊の中ほどまで進んだ線があった。
ただし、確認欄に書かれているのは、通行の妨げと魔物の姿についてだけだった。
「これも、門を調べた記録にはできませんね」
リーネが言う。
ダリオは残る紙束へ目を向けた。
似たような短い言葉が、何枚も続いている。
「何が異常じゃなかったのか、最初から書いてくれればいいのに」
記録棚の前にいた老職員が、振り向いた。
「その日の依頼は、後から来る隊が通れるか確かめることだったんだ」
老人は、票の上にある依頼番号を示した。
「落石がなく、道を塞ぐ獣もいない。北の入口まで使える。それを知らせて帰ってきた」
「じゃあ、この紙は間違ってない?」
「門の息まで調べたと、後から俺たちが読まなければな」
ダリオは、紙を束の底へ戻すのをやめた。
奥へ行かなかったことも分かった。
門の記録には使えなくても、その日に誰がどこまで通ったかは残っている。
「これは、入口までの束だな」
セシアが机に場所を空けた。
「ええ。分けておきましょう」
レオルは、別の一枚へ重しを置いた。
「こっちは、奥まで行っている」
◇
最初に魔力灯の曇りが報告される、九日前の票だった。
巡回者は三人。
実施した経路の線が、北回廊の突き当たりまで届いている。
端に、小さな見取り図があった。
大きな四角。
水滴に似た形と、丸い輪。
『水滴印の止まり石にて折り返し』
今、旧水守門と呼んでいる場所だろう。
周囲の壁と通路の曲がりも、現在の図と合っていた。
セシアは絵へ顔を寄せた。
水滴の線は太い。
右下が薄いのか、輪へ向かう細線があるのかまでは読み取れない。
「紋を観察した絵じゃないわ。どこで折り返したかを示す目印ね」
ダリオも、見慣れた欠けた一歯を探しかけてやめた。
この絵にないから、当時は欠けていなかった。
そういう読み方はできない。
確認欄は短かった。
『新しい落石、獣影なし。帰路、西外周』
風。
冷え。
床の湿り。
今なら確かめるものが、そこには書かれていない。
「門の前まで行ったことは分かった。でも、静かだったかは分からない」
ダリオが言う。
リーネは頷いた。
「この票から読めるのは、そこまでです」
その時、ダリオは票の下端にある数字へ気づいた。
『貸出灯、七』
「灯りを借りてる。返した時の記録は?」
老職員が、貸出品の棚へ向き直った。
◇
同じ日付。
同じ隊名。
貸出灯、七番。
返却の帳面は、巡回票より細かく書かれていた。
貸した物が戻ったか、次へ貸せるかを確かめるためのものだ。
リーネが指を止める。
『受取時、外殻乾。曇りなし。点灯良』
ダリオが身を乗り出した。
「乾いてた」
「受け取った時に、です」
リーネは欄の見出しも読み上げた。
拭いたあとでも、翌朝でもない。
組合へ返された時の状態だった。
「門の前にいる間も、冷えなかったのか?」
レオルが聞いた。
「それは書いていません。帰路で乾いた可能性もありますし、通路全部の状態を示すわけではありません」
セシアはそう言い、十四日目の道具確認を取り出した。
魔力灯の留め金。
曇りなし。冷えなし。
古い帳面には、金具の冷たさまで確かめた記録はない。
同じ点検ではない。
それでも、比べられる部分が一つできた。
門前まで行った巡回隊が、組合へ返した灯りには、曇りや外側の湿りが確認されていなかった。
今の隊も、十四日目に乾いた道具を持ち帰っている。
リーネは二枚を番号で結んだ。
巡回票だけでは、門に近づいたあとの道具が分からなかった。
返却帳だけでは、灯りがどこへ持ち込まれたか分からなかった。
二枚を並べると、その日の行き帰りが初めて見えた。
「二隊分の確認ではありません。この三人の、一回の巡回です」
リーネが添え書きする。
ダリオは頷いた。
多く見せなくても、一回は一回として残せる。
◇
返却帳の同じ欄には、まだ続きがあった。
『次回、西外周休憩用の敷布一枚追加を希望』
理由は、その横に小さく書かれている。
『床際冷えあり。休憩後、身体が冷える』
「これは、文句だな」
入口で足を止めたガルドが言った。
通常の巡回を終え、帰還票を届けに来たところだった。
リーネに促され、先に自分たちの報告を渡す。
それから、古い帳面を少し離れて覗いた。
「立ってる間は気にならなくても、汗を拭いて座ると冷えるんだ。布一枚で違う」
ダリオが顔を上げる。
「お前が言ってた、昔の西の冷気?」
「似た話だ。だが、俺がその日に一緒にいたわけじゃない」
ガルドは、票にある三人の名前を見た。
「こいつらがどこへ布を敷いたかも、俺には分からん」
リーネは、その線を越えなかった。
西外周。
床際の冷え。
次回の敷布の希望。
通路のどの場所だったかは、書かれていない。
それでも、最初の魔力灯曇りの報告より前に、西側の床際を冷たいと感じた者がいた。
地鳴りの前には弱い冷気があった、というガルドの記憶と、別の人が当時書いた言葉が並んだ。
ガルドは、紙の端へ目を落としたまま言った。
「忘れてたのは、俺だけじゃなかったかもしれんな。寒いから布を貸せ、で終わることだった」
老職員が、当時の対応欄を指す。
『次回、一枚増』
希望は、受け取られていた。
冷気の原因は調べられなかった。
だが、その人たちが次の休憩で使う布は用意された。
セシアが小さく息を吐く。
「門の調査じゃなくても、残っていてよかった」
ガルドは頷き、自分の隊の確認を済ませると、仲間の待つ受付へ戻った。
◇
机には、十四日目の報告と、古い巡回票と、返却帳の写しが並んだ。
北の門前まで行った隊は、乾いた灯りを返していた。
同じ隊は、西側で床際の冷えを訴えていた。
北へ行けば何でも冷えるわけではなく、西の弱い冷えは、異変前から知られていたらしい。
「今も、北では冷えを持ち帰らず、西では感じる人がいる」
ダリオが言った。
「前の状態に近づいてる、って読めるか?」
「合う部分はあるわ」
セシアは十四日目の紙を示した。
「でも、この票には、右の紙片を揺らす風があったかは書かれていない」
当時の巡回には、三点の紙片観察がなかった。
水滴紋を同じ枠で写したわけでもない。
『風なし』という一行は、見つからなかった。
『風あり』もない。
ダリオは、持っていた筆を置いた。
「昔も揺れなかったって書ければ、安心できると思ってた」
セシアも紙から目を離した。
「書けないわね」
「ああ」
少し間が空いた。
ダリオは、エイルからの手紙を開いた。
失敗とは扱わない。
その言葉は、昔の門も静かだったという証拠を探し出せ、とは言っていなかった。
「右の紙が動かなかったまま、送ればいいんだった」
リーネが頷いた。
「古い記録で、十四日目を都合よく説明し直す必要はありません。比べられるところと、比べられないところを送ります」
◇
返答には、原本ではなく写しを添えた。
入口で折り返した巡回票。
門前に達した巡回票。
それに対応する、七番灯の返却記録。
見取り図は、水滴の線を勝手に細くせず、そのまま写す。
冷えを感じた位置が書かれていない西外周にも、推測の丸はつけない。
リーネは最後に一文を加えた。
『異変前の右固定位置に、現在と比較できる気流観察の記録は確認できませんでした』
その下へ、得られた二つの記録を書く。
北から乾いた灯りを持ち帰ったこと。
西の床際に冷えを感じ、敷布を求めたこと。
何も分からなかったのではない。
門の仕組みを証明する紙が、一枚で見つかったわけでもない。
古い巡回者たちが確かめた範囲だけが、少しずつ見えてきた。
十九日目の現地確認は、予定どおり受ける。
新たな資料の照合をどこまで工房へ頼むかは、別に相談する。
今日の写しは、夕方の便へ。
明日の観察結果は、帰還後の確認を終えてから、別の報告として送ることになった。
夕刻、ダリオは準備机の三枚へ目を向けた。
吊り糸に絡みはない。
木棒を少し動かすと、三枚はそれぞれ揺れ、やがて静かに垂れた。
紙が別の物へ引っかかる様子もない。
組合内で確かめた状態は、門前の観察とは分けて記録した。
今の紙を確かめても、十四日目を取り直せるわけではない。
明日、古い票と同じ『異常なし』を書くために行くのではない。
左。
中央。
右。
揺れるか。
揺れないか。
それだけに、明日の門の良し悪しを預けるのでもない。
昔の巡回隊は、北の奥まで行き、乾いた灯りを持ち帰っていた。
明日、自分たちも同じように帰ってこられるだろうか。
十九日目の観察用紙には、まだ結果が一つも書かれていなかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
古い巡回票に並んでいた「異常なし」。
けれど、その言葉が指していた範囲は、記録ごとに違っていました。
入口まで道が使えたこと。
門前まで進み、落石や魔物を見なかったこと。
返した灯りが乾いていたこと。
一枚だけでは分からなかった行き帰りが、巡回票と返却帳を並べることで見えてきます。
西の冷気も、かつては「次は敷布を一枚増やしてほしい」という、暮らしに近い言葉で残されていました。
ただし、昔の門で紙片が揺れていたかは分かりません。
安心できる答えを探すのではなく、比べられるものを持って、次の観察へ向かう。
ダリオにとっても、もう一歩進む回になりました。




