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記憶喪失

聞き慣れた三味線の音。

女たちの笑い声。

客を呼び込む男の張り上げた声。


つい数刻前まで皇帝の前にいたとは、とても思えない。


「戻ったよ」


女将が先に歩き出す。


暖簾をくぐると、翠陽楼の中はいつも通りの賑わいだった。

階段の上から若い妓女が顔を出す。


「あら、清蘭姉さん!おかえりなさい!」

「なぁに?清蘭もう戻ったの?」

「どうだったのよ、宮中の宴は」


矢継ぎ早の声に、女将がぴしゃりと扇で空気を切った。


「あんたたち、うるさいね!客の前で騒ぐんじゃないよ!」


女たちは慌てて口を閉じる。

だが好奇心に満ちた視線だけは消えない。


女将は振り返り、清蘭を一瞥した。


「今夜の話は、明日には街中に広まるだろうよ」


「……ええ」


清蘭は静かに答えた。


『第一皇子に見受けされた芸妓』


その言葉は、きっと明日にはこの通りを駆け巡る。


女将は肩をすくめた。


「今夜はもう仕事はいい。部屋に戻りな」


清蘭は軽く頭を下げ、階段を上がった。


廊下には香が焚かれている。

赤い灯籠の光が、板張りの床に揺れていた。


自分の部屋の前まで来ると、手を止める。

この部屋に戻るのも、もう長くはないのかもしれない。


扉に手をかけたまま、清蘭はしばらく動かなかった。

この部屋に来た日のことを、ふと思い出したからだ。


清蘭には、十歳以前の記憶がない。


清蘭という名前も、本当の名前ではない。

ただ気がついたときには、この花街にいて、この部屋にいた。


部屋の中は、いつもと変わらない。

琴。鏡台。衣を収めた箱。

赤い灯籠の光が、静かに揺れている。


清蘭はゆっくりと簪を外し、鏡の前に座った。

黒く美しい髪が肩に落ちる。

そのとき、不意に思い出した。


――あの日のことを。


***


十年前。


雨の降る夜だったと聞いている。


花街の裏通りは、人の目を避けるような細い路地がいくつもある。

酒場の残飯や、壊れた樽や、捨てられた衣が積まれているような場所だ。


その路地の奥で、一人の少女が倒れていた。

衣は焼け焦げ、髪もところどころ煤に汚れていたという。


その少女を見つけたのが――薄星<はくせい>。

彼は、翠陽楼の用心棒だった。


薄星は体の大きな男で、花街の揉め事を力で片付ける仕事をしていた。


「……おい」


薄星は最初、死体かと思ったらしい。

だが少女の胸は、かすかに上下していた。


「まだ生きてやがる」


そのまま放っておけば、朝までに死んでいただろう。

薄星は舌打ちをしながら、少女を抱え上げた。


「厄介ごとはごめんだが……」


それでも、見捨てるほど冷たい男でもなかった。

そのまま少女を翠陽楼へ連れて帰った。


当時の清蘭――まだ名もなかった少女は、三日間も目を覚まさなかったという。


そして四日目の朝。

ようやくゆっくりと目を開けた。

だが――


「……ここは、どこ?」


「お前、名前は?」


「……」


女将が眉をひそめながら聞くと、少女は何も答えなかった。


「どこから来た?何があったんだい?」


それも分からない。


何を聞いても、何一つ答えられない。

医者を呼ぶと、こう言われた。


「頭に強い衝撃を受けたのか、もしくは心因性のものでしょうな」


「……それはどういう?」


「記憶喪失ということです。いつ戻るかは……分かりませんな。すぐに戻る者もいれば、二度と戻らぬ者もいますから……」


女将はしばらく黙って少女を見ていた。

そして言った。


「なら、この子はもう、うちの子で決まりだね」


それが、すべての始まりだった。


女将は言った。


「お前は運がいい」


花街に捨てられる娘は多い。

だが、そのほとんどは雑用に回され、やがて体を売るようになる。


だが清蘭は違った。

清蘭は教える前から、琴や舞が人並み以上にできたのだ。

そして、名家の令嬢のように、頭も良かった。


女将は、この子はいつか高く売れると思った。

だから、体ではなく、芸で客を取る娘として売り出したのだ。

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