花街の娘
「清蘭。お前、俺のところへ来い」
その言葉が落ちた瞬間、近くに控えていた女官が息を呑む音がはっきりと聞こえた。
楽師の指が弦の上で止まり、酒を注いでいた侍従の手がわずかに震える。
「……黎炎」
皇帝が低く名を呼び、杯を置く音が静かに響く。
「宴の席だぞ」
叱責ではない。
だが、釘を刺すような声音だった。
黎炎は振り返り、堂々と一礼する。
「承知しております、父上。俺付きの女官として、宮中に上げたいのです」
その物言いは落ち着いているが、引く気配はない。
周囲にざわめきが走る。
「黎炎殿下付きの女官……?」
「花街の者をか?」
控えていた重臣の一人が眉をひそめる。
皇帝が静かに言う。
「名は何と申したか」
「……清蘭にございます」
「清蘭」
皇后は繰り返す。
視線は冷静だが、その奥にかすかな揺らぎがある。
「顔を上げなさい」
清蘭が顔を上げると、皇后はしばらく黙って見つめたあと、小さく言った。
「……よく似ている」
その言葉に、近くの重臣たちがわずかに顔を上げる。
すると、後方に控えていた女将がゆっくりと前へ進み出た。
「恐れながら、陛下……」
その声音に、媚びはない。計算があるだけだ。
「この娘は、我が翠陽楼の稼ぎ頭の芸妓にございます。この子は花街でも珍しい、芸のみで金を生む娘なのです」
場の空気がわずかに変わる。
重臣の一人が眉を上げる。
「ほう。それほどか」
女将は微笑む。
「この子がいなければ、商いは成り立ちません。清蘭は一夜の宴で、他の娘の五倍の客を呼びます。名実ともに、翠陽楼の看板娘なのです」
清蘭は跪いたまま、わずかに唇を引き結ぶ。
女将は続ける。
「本来なら、宮中に出すには惜しいのですが、第一皇子殿下が望まれるのであればもちろん、ご意向に従います。ですが、安くはございません」
場の空気が一瞬、硬くなる。
皇帝が口を開く。
「いくら欲しいのだ?」
「いえ。条件の話にございます」
女将は視線を上げないまま言う。
「正式に殿下付き女官としてお迎えいただけるなら、我が翠陽楼としても箔がつくといいうものです」
これは取引だ。
清蘭の未来が、値踏みされている。
「いいだろう。望みは叶えよう」
黎炎は迷わず答えた。
「黎炎」
皇帝の声が鋭くなり、黎炎を睨みつける。
「良いではないですか、父上。責任は私が取りますので」
”太陽の皇子”の異名に相応しく、彼は太陽のような笑顔を見せた。
女将はにやりと笑う。
「……わかった。もう良い」
皇帝は渋々承諾した。
「ありがたき幸せにございます」
女将は、静かに一礼する。
第二皇子・景月は一言も発さない。
だが清蘭が顔を上げた瞬間、彼と視線が重なった。
その瞬間ーー
<ちりん>と耳の奥で、鈴のような音が聞こえたような気がした。
(どこにも鈴などないはずだけど……)
けれど確かに、鳴った。
景月の瞳が、わずかに揺れる。
清蘭を見る彼の顔には、動揺の色が見えた。
彼はただ静かに、清蘭を見る。
そして、景月の唇が、わずかに動いた。
「……」
だが声にはならない。
まるで、別の名を呼びかけて――飲み込んだかのように。
その姿に、清蘭はなぜか胸が苦しくなった。




