5章 裁判
――法廷は、異様なほど静かだった。
荒道大悟は被告人席に立ち、硬く拳を握りしめていた。
白い照明の下、彼の顔は青白く、どこか“別人”のように見えた。
けれど、もう「人格」は現れない。
大悟はもう、自分以外の誰かを演じようとしなかった。
その沈黙は、陸斗との取調べで全てを吐き出した証でもあった。
「検察側は――被告人は計画的に殺人を実行し、
その後、精神障害を装って逃れようとした、
極めて悪質な犯行であると主張します」
検察官の声は冷たく、言葉は容赦なく大悟の胸に突き刺さる。
「被告人は“人格が変わったふり”をし、
自らの罪を曖昧にするために演技を続けていた。
これは公判を混乱させる意図的な偽装と判断される」
傍聴席からざわめきがあがる。
大悟は俯き、拳を震わせた。
(わかってる……全部、ぼくの罪だ……)
次は弁護人の番だった。
「確かに、大悟くんは“演技”をしていました。
ですが、それは〈嘘をつくため〉ではなく――
〈守るため〉の行動だったのです」
弁護人は淡々と資料をめくる。
「幼い頃の事件現場の目撃と強いショック。
その場を収めるために“記憶がない”と嘘をついたことから、
彼は“自分ではない役を演じる”癖を持つようになった」
法廷に静寂が戻る。
「その結果、“自己同一性の喪失”が進み、
殺害行為に至った時、
彼は“自分が何者として行動しているか”を
判断できる精神状態になかった可能性が高い」
弁護人は裁判官を見据えた。
「これは典型的な“解離性障害の偽装”ではなく――
“解離症状の暴走”です」
「証人、道下京平さん」
呼ばれた青年は震える足で立ち上がった。
何より苦しいのは、彼自身もまた事件の中心にいることだった。
「……俺が……大悟に頼んだんです。
“こいつを殺してくれ”って……」
傍聴席がざわめく。
「被害者に脅されてて……
大悟以外に頼れるやつ、いなかった。
俺は……俺は……大悟を追い詰めたんだ……!」
目の奥に涙を溜めながら道下は続けた。
「大悟は……あのとき、もう別人みたいだった。
演技だなんて思えなかった……
“誰かとして生きるクセ”が……
もう止められない状態だったんだ……」
裁判官は沈黙したまま、じっと彼を見つめていた。
「証人、荒道美紅さん」
母・美紅はゆっくり前へ進み、深く一礼した。
「私が……全ての始まりでした」
震える声。
それでも真っ直ぐな目。
「私が過去の事件を起こし――息子はその現場を見てしまいました。
その時、大悟は恐怖で倒れて……
私は取り乱してしまって……」
美紅は口元を手で押さえ、小さく嗚咽した。
「“覚えてない”という息子の言葉にすがったのは私なんです。
息子は……私を守るために、人格を演じるようになってしまった……
あの子は……私の罪で壊れたんです……!」
その声は痛々しく、法廷に沈痛な空気を満たした。
長い審議の後、裁判官が席に戻った。
「それでは、判決を言い渡します」
大悟は手を固く握りしめる。
道下は泣きながら祈るように見つめる。
美紅は両手を胸に当て、震えていた。
「被告人・荒道大悟。
あなたが殺人行為を行った事実は間違いありません」
深い静寂。
「しかし――
行為時の精神状態は著しく正常を欠き、
自己同一性の判断が不能であったと認定します」
大悟の胸が締め付けられる。
裁判官は続けた。
「よって、刑事責任能力は“なし”。
被告人を――無罪とします」
傍聴席がざわめき、数名が息を呑む声が響く。
大悟は顔を上げられなかった。
(無罪……?
ぼくが……人を殺したのに……?)
そのとき、裁判官が最後に付け足す。
「ただし。
荒道大悟を医療施設に収容し、
治療と監督下での生活を義務づける」
それは自由ではなく、
“償い”としての終わりだった。
法廷の外。
大悟は手錠を外され、医療施設へ送られる準備をしていた。
道下が駆け寄ってくる。
「大悟……本当に、ごめん……」
大悟はゆっくり首を振る。
「京平のせいじゃないよ。
ぼくが……止められなかっただけ」
そこに“人格の声”はもうない。
大悟だけの声だった。
美紅が涙を浮かべて抱きしめる。
「大悟……必ず、戻ってきて。
今度こそ私が……あなたを守るから……」
大悟は、母の手をそっと握った。
「ありがとう、母さん」
その手の温もりだけが、
大悟がやっと手にした“現実”だった。
――こうして、荒道大悟の“多重人格事件”は終わりを迎えた。
だが、この物語が語るのは
罪でも狂気でもなく、ただひとつ。
“守るためについた嘘が、人生を狂わせること”
そして、それでも人は前へ進むということだった。




