2章 過去
面会室。
荒道美紅は、両手を落ち着きなく組んだりほどいたりしていた。
五十一歳には見えないほど若々しく、しかしその表情はどこか怯えている。
扉が開き、大悟が連れられて来た。
「……母さん」
「大悟……大悟……」
美紅はガラス越しにも分かるほど震えていた。
彼女は息子を強く見つめながら言った。
「ごめんね……あの時、気づいてあげられなかった」
大悟は瞬きする。
「あの時……?」
美紅は口をつぐんだ。
視線が泳ぎ、何かを必死に押し殺そうとしているように見える。
「……言えないの?」
大悟がそう尋ねると、美紅は肩を震わせた。
「あなたは……あの日から、ずっと苦しんできた。
覚えてないのよね? あの日のこと」
大悟の胸が締めつけられた。
――“記憶がない”と言い続けてきたのは、自分だ。
しかし、美紅のその反応は、
あたかも、大悟が本当に記憶を失っているかのようだった。
(……母さんは、あの事件の“何か”を知ってる)
だが、聞こうとした瞬間、美紅は早口で遮るように言った。
「思い出さなくていいの。思い出しちゃいけないの。
あなたは悪くない。絶対に悪くないんだから」
その言葉は、優しさではなく――焦りの震えで満ちていた。
大悟は気付かない。
美紅が“真実”を隠すために、息子の嘘にしがみつくしかなかったことに。
陸斗はモニター越しに眉をひそめた。
(……何を隠している?
母親が“息子は悪くない”と繰り返すのは、
“息子の罪”を知っている時だ)
だが美紅は、あくまで大悟を“守りたいだけ”に見える。
その優しさの裏を、まだ誰も知らなかった。
夜。
大悟は独房の冷たい床に座り、天井を見つめていた。
(……あの日、何があったんだっけ)
美紅の怯えた顔が、脳裏にこびりつく。
“思い出しちゃいけない”
その言葉は、まるで催眠のように重く響いていた。
まぶたを閉じる。
すると――脳内に、不意に声が落ちてきた。
『おい、大悟。お前は覚えてるはずだろ』
暴力的人格の声ではない。
もっと深く、もっと低く……
初めて聞く“第三者の声”。
(誰……?)
問い返そうとしたが、声は続けた。
『俺はあの日、生まれた。“お前”が作ったんだよ』
「……僕が?」
『忘れたふりをするなよ』
ぞっとするほど静かな声。
大悟は思わず、壁に背中を押し付けた。
(この声……誰? こんな人格、僕は――)
呼吸が乱れる。
『お前は全部、分かってる』
「違う……僕は何も……!」
その瞬間、声はぴたりと止んだ。
暴力的人格が呆れたように言う。
「おい、何に怯えてんだよ」
幼児的な人格が鼻をすする。
「だいご、こわいの……?」
倫理的な人格が窘める。
「落ち着いて。何も起きていないでしょう」
だが、大悟は確信していた。
――今の声は、いま出てきた三人ではない。
――もっと深いところに、誰かいる。
その“誰か”は、
道下が言っていた『危ない人格』と一致していた。
大悟の中で、“真実と嘘”の境界がぼやけ始めた。
数日後、美紅は一人で警察署の廊下を歩いていた。
陸斗は彼女を見つけて声をかける。
「荒道さん。少し話を聞かせていただけますか?」
美紅は怯えたように立ち止まる。
「……大悟を責めないでください」
「責めたいわけではありません。あなたの息子が“本当に”多重人格なのか。
そのきっかけが何なのか。それを教えてほしいだけです」
美紅は唇を噛む。
「……大悟は優しい子なんです。
私が……私が悪いの。あの子を守れなかったの」
陸斗は問いを重ねる。
「守れなかったとは、どういう意味ですか?」
美紅は首を横に振り、涙を溜めた。
「言えません。それだけは……」
彼女は陸斗の目を見ない。
しかしその手には、
**爪が食い込むほど強く握られた“赤い痕”**が残っていた。
まるで――
誰かの血を洗っても落ちなかった跡のように。
その夜、大悟は再び眠れずにいた。
(母さんは、何を……)
まぶたを閉じると、脳裏に血の光景がちらつく。
床に落ちた赤、泣き叫ぶ声。
断片的で形にならない。
そしてまた、あの声がささやいた。
『思い出してる途中だな』
「……やめて」
『お前は、あの日俺を生んだ。
“忘れたふり”を続けるためにな』
声は静かに笑った。
『でもいいぜ?
いまのままじゃ、お前は自分自身が何者か分かんなくなる』
大悟は震えながら両耳を塞ぐ。
「やめろ……やめて……!」
――その姿を、独房前の監視カメラは淡々と映していた。
まるで、大悟が本当に“自分の人格たち”に追い詰められているかのように。




