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マイクロフト ―ディオゲネス・クラブに雨は降る―  作者: 双瞳猫


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第2章:女王陛下の不興(3) ― 墓前の対峙 ―

いつも応援ありがとうございます!双瞳猫です。

本作をお読みいただき、誠にありがとうございます。

 噂という名の毒は、ウィギンズの手によって巧みに、そして迅速にライムハウスの裏社会に撒かれた。阿片の煙が立ち込める薄暗い地下室で、博打打ちのテーブルで、波止場の安酒場で、それは囁かれ、増幅され、やがて確かな情報であるかのように、闇を駆け巡った。それはまるで、見えざるインクで書かれた手紙のように、知るべき者の間だけを正確に伝播していく。


 その日の深夜。私はペルメルの自室の窓から、霧雨に煙るロンドンの街を見下ろしていた。ウィギンズからの伝令が、先ほど届いたばかりだった。『狐、罠に向かう。獅子の手下も同じく』。簡潔だが、私にとってはチェスでチェックを告げたに等しい報告だった。二匹の獣が、私の用意した盤上で、ついに出会う。


 私は重いツイードのコートを羽織り、誰にも告げずにクラブの裏口から抜け出した。辻馬車を拾い、行き先を告げる。行き先は、ホワイトチャペルのはずれにあるセント・メアリー教会。今宵、この不愉快な遊戯の幕を下ろすのは、スコットランドヤードでも、ベイカー・ストリート・イレギュラーズでもない。この私自身だ。女王陛下の勅命は、私に最終的な「処理」を求めている。それは、二匹の獣を争わせ、生き残った方を仕留めるという、冷徹な判断を伴う。


 霧雨が降りしきる墓地は、深く重い静寂に包まれていたが、その静寂は偽りだった。ぬかるんだ土を踏みしめながら進むと、ウィギンズの部下たちが潜む気配とは別に、明らかに質の違う、荒々しく貪欲な殺気がいくつか、闇の中に蠢いているのを感じた。


 目的の場所はすぐに見つかった。メアリー・アンの娘、サラの小さな墓石。その前に、一人の人影が佇んでいた。男は既に墓石の根元を掘り返し、泥にまみれた小さな木製の箱を手にしていた。彼がゆっくりと立ち上がり、私の方を振り返る。雲の切れ間から差し込んだ月明かりが、その顔をぼんやりと照らし出す。怜悧な光を宿す切れ長の目。軍人らしい、無駄のない引き締まった体躯。加藤武明大尉。


「お見事ですな、ホームズ卿」


 加藤は、驚くほど流暢なクイーンズ・イングリッシュで言った。その声には、冷たい鋼のような響きがあった。


「噂を流し、私をここへおびき寄せた。そして、自ら出向いてこられるとは。ですが、客は私だけではないようですな」


 彼の視線が、私を通り越し、背後の闇へと注がれる。


「君も、なかなかの役者だった。加藤大尉」私は応じた。「切り裂きジャックの模倣とは、大胆な偽装だった。だが、その派手な演出が、逆に私の注意を引くことになった」


 加藤は、手にした箱を愛おしむように、指先で泥を拭った。

「殺人は私の本意ではない。私はただ、我が国の至宝を取り戻しに来ただけ。ホワイトチャペルで起きた殺しは、私の動きに便乗した、あるいは私に罪をなすりつけようとした、別の誰かの仕業でしょう。あなたほどの御方なら、それも既にお見通しのはず」


 彼の言葉は、私の推理を裏付けていた。彼は殺人犯ではない。だが、私はその事実を認めるわけにはいかない。


「言い訳は法廷で聞こう。その箱は、今や大英帝国の国益に関わる重要物件となった。それをみすみす君に渡すことは、女王陛下への裏切りに他ならない」


 私がそう言い放った瞬間、背後の闇から複数の人影がぬっと姿を現した。先頭に立つのは、見覚えのある大柄な男。公爵家の執事と接触していた、あの辻馬車の男だ。その手には、鈍く光る鉄棍が握られている。


「そいつを渡してもらおうか、旦那方」


 辻馬車の男が、下卑た笑いを浮かべて言った。その目は、加藤が持つ箱だけに注がれている。


「それは、我らが『公爵様』がお探しの品だ。日本の猿にも、政府の犬にも、渡すわけにはいかねえんでな」


 その言葉に、加藤の目が鋭く光った。彼は、自分が二重の罠にかかっていたことを悟ったのだ。


「なるほど。そういうことでしたか、ホームズ卿。私とこの者共をぶつけ、漁夫の利を得る算段でしたか」


 加藤はゆっくりと箱を懐にしまうと、上着の内に手を入れた。そこから現れたのは、短刀だった。月光を浴びて、その濡れた刃が妖しく輝く。


「ならば、力ずくで道を切り開くまで」


 彼の身体から、兵士だけが持つ純粋で冷徹な闘気が立ち上る。彼は私ではなく、眼前の脅威である辻馬車の男たちへと向き直った。三つ巴の睨み合い。ウィギンズの部下たちが、私の合図を待って息を潜めている。


「無駄なことだ」と私は静かに告げた。「この墓地は、完全に包囲されている。誰一人として、ここから生きて出ることはない」


 それは、加藤に、そして公爵の手下たちに向けた、最終通告だった。


 私はコートのポケットの中で、護身用に仕込んであるステッキの柄を、指の関節が白くなるほど強く握りしめた。どの駒を、どの順番で盤上から取り除くか。冷たい雨の中で、私は思考を巡らせていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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