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マイクロフト ―ディオゲネス・クラブに雨は降る―  作者: 双瞳猫


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第2章:女王陛下の不興(2) ― 影の名は「KATO」 ―

いつも応援ありがとうございます!双瞳猫です。

本作をお読みいただき、誠にありがとうございます。

 ペルメルにあるディオゲネス・クラブの自室に戻った私は、深く沈み込むような革張りのアームチェアに身を預け、暖炉で赤々と燃える石炭を見つめていた。窓の外では、秋の冷たい雨が執拗にガラスを叩いている。この部屋だけが、ロンドンの喧騒と湿気から完全に切り離された、思考のための聖域だった。女王陛下の勅命。その言葉の重みが、暖炉の熱とは裏腹に、私の背筋を冷たく這い上がってくる。クレイトン公爵の名を伏せ、日本の密偵のみを断罪せよという暗黙の命令。これはもはや、私の知的好奇心を満たすための精緻なパズルではない。大英帝国の威信を賭けた、血の匂いがする実戦へと移行したのだ。


 思考を、冷徹なまでに整理する必要があった。

 この巨大なチェス盤の上で、レストレード警部率いるスコットランドヤードは、盤上を駆け回るポーン(歩兵)に過ぎない。彼らが加藤大尉という「表の敵」を大声で追いかけることで、真の敵――クレイトン公爵――の注意を引きつけ、その目を曇らせる。彼らは有用な陽動部隊だ。

 一方、ウィギンズ率いるベイカー・ストリート・イレギュラーズは、盤外から敵陣を脅かすナイト(騎士)だ。彼らはロンドンの裏社会に張り巡らされた蜘蛛の巣を自在に動き、公爵家の執事が落とす金の流れさえも掴み、私の指示に基づき非合法な実力行使さえも行う。

 そして私、マイクロフト・ホームズは、この二つの駒を操り、盤上と盤外の全てを支配するプレイヤー。このゲームのルールそのものだ。


 私が思考の海に深く沈み込んでいると、老執事が音もなく歩み寄り、銀の盆に乗せた内線電話の受話器を恭しく差し出した。外務省の極東課長からだった。私が事前に投じておいた小石が、ようやく水面に確かな波紋を広げ始めたのだ。


「ホームズ卿。ご依頼の件です」


 ワイヤーを通して濾過された、抑揚のない事務的な声が耳に届く。


「先日来、日本大使館が内々に、一人の随行員の行方を捜しております。表向きは病気療養のための急な帰国となっていますが、その形跡はない。我々の情報網によれば、彼は大使館を離れ、単独で行動している模様です」


「その男は、加藤武明大尉。陸軍参謀本部第二部所属の諜報員。専門は暗号解読と回収。そうだろう?」


 私は静かに確認した。電話の向こうで、課長がわずかに息を呑む気配がした。


「…その通りです。さすがはホームズ卿。彼の世代の軍人にしては、英語にも極めて堪能だとか」


「ご苦労。引き続き、大使館の動向を厳重に監視するように」


 礼を述べ、重い受話器を置く。加藤の存在は、この事件における重要なミスリードの駒だ。彼が血眼になって探す『箱』は、おそらく日本の国家機密に関わる暗号媒体。だが、その箱を巡るもう一人のプレイヤー、クレイトン公爵の動機は、国家のためではない。遥かに個人的で、それゆえに予測不能な欲望に根差しているはずだ。


 私が新たな情報に思考を巡らせていると、部屋の隅の影が不意に揺らぎ、まるで闇そのものが人の形をとったかのように、ウィギンズが音もなく姿を現した。そのくたびれたコートには、ライムハウスの湿った石炭の匂いと、テムズ川のよどんだ空気が染みついている。


「旦那様。ご指示通り、墓地を見張らせておりますが、狐はまだ巣穴から出てこないようです」


「だろうな。彼はまだ、獲物の本当の隠し場所に気づいていない」私は椅子に座ったまま応じた。「それより、獅子の方はどうだ?」


「へい。公爵家の執事が、今夜もまたライムハウスの阿片窟に現れました。例の辻馬車の男と接触していたようです。どうやら、連中も『箱』の行方を掴みかねている様子で」


 ウィギンズの報告は、私の推測を裏付けた。公爵は自らの手を汚さず、裏社会の人間を使って『箱』を捜させている。加藤というプロの諜報員と、公爵が雇ったロンドンの下衆。二つの勢力が、同じ獲物を追って互いの存在に気づかぬまま、闇の中を彷徨っている。滑稽な構図だ。


 ならば、こちらから舞台を整えてやるまでだ。狩人が、罠のある場所まで獣の好物を点々と置いておくように。


「ウィギンズ」


 私はゆっくりと立ち上がり、暖炉の炎が映るマントルピースに片肘をついた。


「君の部下で、最も口が達者で、嘘を真実らしく語れる者を一人、ライムハウスの阿片窟に送り込め。そして、こう噂を流させるのだ。『切り裂き魔に殺された女は、大層な宝を持っていて、それを自分のガキの墓に隠していたらしい』と。噂は鳥の翼を持つ。公爵の耳にも、そして警戒深い狐の耳にも、必ず届くだろう」


「……なるほど。二匹の獣を、同じ罠に誘い込むのですね」


 ウィギンズの目に、悪戯っぽい光が宿った。彼はこの種の、盤上をかき乱すような狡猾な策略を何よりも好む。


「そうだ。二匹が鉢合わせすれば、どうなるか。互いを『箱』を奪いに来た敵とみなし、潰し合うだろう。我々は、その結果を静かに待てばいい。女王陛下は、これ以上待つことをお望みではない。我々が、この遊戯の主導権を完全に握るのだ」


「へい、承知いたしました。すぐに最高の役者を向かわせます」


 ウィギンズは満足げに一礼すると、再び影の中へと溶けるように消えていった。


 部屋には再び、荘重な置き時計の秒針の音と、暖炉で薪がはぜる音だけが響いた。私は書斎机の脇に置かれたチェス盤の前に座り、白のキングと黒のナイトを交互に指でなぞった。クレイトン公爵と加藤大尉。君たちがどれほど自らの力を信じていようと、ここはロンドンだ。私の庭だ。そして、この庭では、私がルールを決める。


 不愉快な雨が、夜の訪れを告げるように、窓ガラスを一層強く叩き始めていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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