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マイクロフト ―ディオゲネス・クラブに雨は降る―  作者: 双瞳猫


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第2章:女王陛下の不興(1) ― 黒衣の女王 ―

いつも応援ありがとうございます!双瞳猫です。

本作をお読みいただき、誠にありがとうございます。

 私がウィギンズと共に、ホワイトチャペルの墓地へ直接向かわなかったのには理由がある。狐を罠にかけるには、まず狩り場全体を見渡せる高台に登らねばならない。私の高台とは、薄汚れた墓石の上ではなく、この大英帝国の権力の中枢そのものだ。そして、その頂点に君臨する人物からの召喚が、昨夜のうちに下されていた。クレイトン公爵の名を捜査線上に浮かび上がらせた以上、避けては通れない謁見だった。


 バッキンガム宮殿。その壮麗な建物は、帝国の威光を象徴する一方で、私にとっては巨大で複雑な官僚機構の頂点を示す、一つの職場に過ぎない。磨き上げられた長い廊下を、私は淀みない足取りで進む。私の前を行く侍従の背中には、これから始まる謁見の重圧が滲み出ているようだった。


 案内されたのは、公的な謁見の間ではなく、女王陛下が私的な執務に用いる小部屋だった。部屋の空気は、薔薇の香と、古いインクの匂い、そして何よりも、一人の人間の揺るぎない意志の力で満たされていた。


 部屋の奥、大きな窓を背にして、黒衣の婦人が座っていた。ヴィクトリア女王陛下。アルバート公を亡くして以来、その身から黒が消えることはない。彼女は手元の書類から顔を上げ、その深い青色の瞳で私を射抜いた。その視線には、長年の統治者だけが持つ、人の内奥まで見透かすような鋭さがあった。


「マイクロフト。私の耳には、実に不愉快な噂が届いています。あなたの弟が生きていた頃にロンドンを震撼させた、あの忌ましい亡霊が、再び巷を彷徨っているとか。これは、一体どういうことかしら?」


 女王の言葉は静かだったが、その底には氷のような怒りが含まれていた。彼女にとって、ロンドンの秩序は、そのまま大英帝国の威信に繋がる。


「陛下。巷の噂は、事実とは異なります」


 私は恭しく頭を下げ、事実のみを簡潔に、そして意図的に情報を操作しながら述べ始めた。


「現在ホワイトチャペルで起きている事態は、過去の切り裂きジャックの亡霊によるものではございません。その名を騙る、狡猾な偽装工作です」


「偽装…? では、真の目的は何ですの?」


「ある『品』の捜索と、それに伴う口封じです。犯人は日本から来た密偵、加藤大尉と見られ、彼は自国にとって極めて重要な『何か』を取り戻すために、ロンドンの裏社会で暗躍しております」


 私の報告に、女王の細い眉がわずかに動いた。彼女の関心は、ロンドンの治安問題から、より大きな国際問題へと移った。


「日本…? あの、極東の小さな島国が、我が帝都でそのような狼藉を働いていると? それで、その『何か』とは?」


「『古びた小さな箱』。それが、現在までに判明している全てでございます。しかし、その箱の出所が問題なのです。どうやら、クレイトン公爵家から何らかの形で流出した品である可能性が濃厚でして」


 その名を口にした瞬間、部屋の空気が凍りついた。女王の表情は変わらない。だが、その瞳の奥に、一瞬だけ、硬質な光が宿ったのを私は見逃さなかった。彼女は私の言葉を遮るでもなく、肯定するでもなく、ただ沈黙した。その沈黙こそが、何より雄弁な答えだった。


 ややあって、女王はゆっくりと口を開いた。その声には、先ほどまでの不興とは質の違う、冷たい決意が宿っていた。


「…マイクロフト。その日本の密偵の件、あなたに一任します」


 クレイトン公爵の名は、まるで初めから存在しなかったかのように、会話から消し去られた。


「は。スコットランドヤードには、引き続き偽装された殺人事件の捜査を継続させ、日本の密偵の注意をそちらに引きつけておきます。その間に、我々は…」


「いいえ」


 女王は私の言葉を遮った。


「警察の捜査とは別に、です。これはもはや、ロンドンの殺人事件ではない。大英帝国の威信に対する、許しがたい挑戦です。スコットランドヤードの規則に縛られる必要はありません。あなたの権限において、あらゆる手段を用い、その『箱』を確保し、不埒な密偵を『処理』なさい。我が帝都で起きた火種は、我々の手で消し止めねばなりません」


 それは、勅命だった。法の枠組みを超えて行動することを許可する、暗黙の、しかし絶対的な命令。そして、その命令の真の対象が、日本の密偵だけではないことを、私と陛下は暗黙のうちに理解していた。


「御意のままに、陛下」


 私は深く一礼し、静かに部屋を退出した。


 宮殿の廊下を戻りながら、私はパズルの最後のピースがはまったような確信を得ていた。女王はすべてを察している。そして、王家の縁戚であるクレイトン公爵の醜聞が表沙汰になることを、何よりも恐れている。私に与えられたのは、日本の密偵を排除する権限ではない。この事件そのものを、いかなる手段をもってしても歴史の闇に葬り去るための、絶対的な権限だ。


 辻馬車に乗り込み、ペルメルの自室へ向かうよう指示する。馬車が走り出すと、私はポケットから小さなメモ帳を取り出し、ペンを走らせた。ウィギンズへの新たな指示だ。


『墓地の狐の監視は続けよ。だが、本当の狩りは別の場所で始まる。獅子の巣穴の扉を開ける準備をしろ』


 この事件の結末は、もはやロンドンの新聞の一面を飾ることはないだろう。それこそが、女王陛下が望み、そして私が遂行すべき、本来の仕事なのだから。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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