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エピローグ:雨上がりのクラブ(2) ―最終話: 再び点る灯のために ―

いつも応援ありがとうございます!双瞳猫です。

本作をお読みいただき、誠にありがとうございます。

 アイリーン・ノートンの姿がロンドンの雑踏に完全に溶けて見えなくなった後も、私はしばらくその場に佇んでいた。テムズ川の湿った風が、事件の熱と興奮で火照っていた思考を、ゆっくりと冷ましていく。やがて私は、まるで長い夢から覚めるかのように踵を返し、拾っておいた辻馬車に乗り込んで、ただ一言「ポール・モールへ」と告げた。


 馬車の窓から流れていく雨上がりの街並みは、いつもと何ら変わらないように見えた。行き交う人々、慌ただしく荷を運ぶ馬車、ショーウィンドウに飾られた目新しい商品。クレイトン公爵という巨大な悪徳が一つ消え去ったところで、この巨大な都市の営みは、何一つ変わることなく続いていく。人々は彼の栄光も、その破滅も、やがては忘れ去るだろう。それが、私が望んだ結末そのものだった。大英帝国という船は、船底に開いた穴が人知れず塞がれ、何事もなかったかのように航海を続けるのだ。


 ディオゲネス・クラブの重厚な扉を抜け、慣れ親しんだ静寂の中を歩く。そこは、私の思考の聖域であり、孤独の城だ。いつもの窓際の、深く沈み込むような革張りの椅子に腰を下ろすと、身体の芯から、ずしりと重い疲労感が滲み出してくるのを感じた。それは、連日の情報操作や心理戦による精神的な消耗だけでなく、数年ぶりに己の肉体を極限まで使ったことによる、心地よいとさえ言える物理的な疲労でもあった。


 窓の外では、雲の切れ間から差し込む午後の日差しが、先ほどまでの雨で濡れた街路を黄金色に染めていた。窓ガラスに残ったいくつかの雨粒が、レンズのように光を集め、小さな虹色のスペクトルを描いている。世界は、何も変わらない。だが、その変わらない世界を見る私の内面は、この数週間で、確実に何かが変わってしまっていた。


 私は、弟が背負っていた重荷の、ほんの一端を担いだに過ぎない。彼が対峙したモリアーティという巨悪の深淵、その残党が張り巡らせた蜘蛛の巣の複雑さに比べれば、今回の事件は、後始末の一つでしかなかっただろう。だが、その一端に触れたことで、私は初めて、弟の孤独の質を、本当の意味で理解した気がした。


 彼は、ただ謎を解く快楽のために動いていたわけではない。彼は、この街の光だけでなく、その最も暗く、醜い闇の部分までをも、その細い双肩に背負っていたのだ。そして、その重荷を、兄である私にさえ見せることなく、独りで抱え込み、ライヘンバッハの激流へとその身を投じた。そのことを思うと、今でも胸の奥に、誇らしさと、どうしようもない怒りと、そして深い寂寥感が、熱い塊となって込み上げてくる。


 不意に、アイリーン・ノートンの最後の言葉が脳裏に蘇った。

『次の手は、私から。どうぞ、退屈なさらないで、ミスター・ホームズ』

 私は、無意識に口元に微かな笑みを浮かべていた。あの女は、私の孤独の城に、土足で踏み込んできた唯一の人間だ。そして、あろうことか、その城の主に向かって、新たなゲームを挑んできた。国家の安寧という、重く、色のない責務だけが全てであった私の世界に、彼女は、危険で、予測不可能で、そして何よりも鮮やかな色彩を持った「個人的なゲーム」を持ち込んだのだ。


 それは、私の人生にとって、果たして毒なのだろうか。それとも、薬なのだろうか。

 おそらくは、その両方だ。だが、確かなことは一つある。彼女の存在が、これから先の私の人生における、退屈という名の最大の敵に対する、最も有効な処方箋になるであろうということだ。


 私は、ゆっくりと目を閉じた。

 思考の海が、静かに広がっていく。

 その海の向こうに、私は一つの情景を思い描いていた。


 数年後、あるいは、もっと先になるかもしれない。

 遠い異国の地で、ジェームズ・モリアーティが遺した最後の残党までを狩り尽くした私の弟が、全ての役目を終え、このロンドンに帰ってくる日。その日、ベーカー街221Bの窓には、再びあの懐かしい灯が点るだろう。バイオリンの不協和音が響き、化学実験の異臭が漂い、ワトソン医師の呆れたような、それでいて嬉しそうな声が聞こえる、あの混沌とした、生命力に満ちた部屋が蘇るのだ。


 その日が来るまで、私は、私の戦いを続けなければならない。

 この大英帝国を、このロンドンという街を、彼が帰ってくるにふさわしい舞台として、完璧な状態で維持し続けること。次に現れるであろうクレイトン公爵のような癌細胞を、彼が手を煩わせるまでもなく、静かに、そして確実に取り除き続けること。それが、兄として、そして「大英政府そのもの」として、私に課せられた新たな、そして永遠に終わることのない責務なのだ。


 弟が光の世界でその天才を存分に振るうのであれば、私は、影の世界で、その舞台を守り続ける。それでいい。それが、我々ホームズ兄弟の、あるべき姿なのだろう。


 深い静寂の中、私は、確かな手応えを感じていた。

 弟が不在のロンドンで、私は確かに、一つの仕事をやり遂げた。そして、生涯でただ一人、対等と認めうるゲームの相手を見つけた。私の世界は、もはや完全な灰色の静寂ではない。そこには、次なるゲームの始まりを告げる、微かな緊張の響きと、未来への静かな期待が生まれていた。


 私は、ゆっくりと目を開けた。

 窓の外の日差しは、先ほどよりも少しだけ、力を増しているように見えた。

 世界は何も変わらない。

 だが、それでいい。

 変わらない日常を守り続けることこそが、私の戦場なのだから。


 私は再び目を閉じ、思考の最も深い場所へと沈んでいった。

 数年後にベーカー街の灯が再び点る、その日を待ちながら。

 そして、それまでに私が為すべき、無数の仕事に思いを馳せながら。


 物語は、まだ終わらない。

 本当のゲームは、まだ始まったばかりなのだ。


【了】


最後までお付き合いいただき、誠にありがとうございました。


本作では、かの名探偵の印象深い兄と「あのひと」がもし手を組んだなら、という想像を形にしたいと考えました。


互いの知性を認め合い、危険なゲームを共に楽しむ二人の姿を描けていれば幸いです。ロンドンを覆う『蜘蛛』の巣は、まだ完全には払われていません。


マイクロフトの物語は、これからも続いていきます。

またいつか、ディオゲネス・クラブの扉が開かれる日にお会いしましょう。

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