表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
62/63

エピローグ:雨上がりのクラブ(1) ― テムズの岸辺にて ―

いつも応援ありがとうございます!双瞳猫です。

本作をお読みいただき、誠にありがとうございます。

 事件が終結してから、三日目の午後だった。

 数日間にわたってロンドンを覆っていた冷たい霧雨は、その日の昼前にようやく上がり、空には久しぶりに、弱々しいながらも確かな陽光が戻ってきていた。雲の切れ間から差し込む光は、濡れた石畳や建物の屋根を銀色に輝かせ、街全体がまるで洗い清められたかのような、静謐な空気に満ちている。


 私は、ディオゲネス・クラブの窓からではなく、自らの足で、その雨上がりの空の下に立っていた。場所は、テムズ川に沿って伸びるヴィクトリア・エンバンクメント・ガーデンズ。人影はまばらで、聞こえるのは、濡れた芝生の匂いを運ぶ湿った風の音と、遠くで響く船の汽笛、そして川の水が岸辺を洗う、単調で規則的なリズムだけだった。


 私の手にした『タイムズ』紙の社会面には、もはやクレイトン公爵の名前は、ごく小さな扱いでしか掲載されていない。公衆の面前での殺人未遂と、それに伴う精神錯乱。彼の名は、一夜にして栄光の頂から狂人の烙印へと転落し、今や世間の興味は、次に起こるであろう別のスキャンダルへと移ろいでいた。彼の所有していた鉱山会社は破産処理が進み、その政治的派閥は霧散し、彼の存在そのものが、まるで初めから存在しなかったかのように、ロンドンの風景から綺麗に消去されつつあった。全ては、私の描いた設計図通りに、音もなく、血を流すことなく完了した。


 大英帝国という巨大な機械は、軋みを立てていた歯車の一つが取り除かれ、再び滑らかに回転を始めている。私の仕事は、終わったのだ。だが、その完璧な結末の後に残されたのは、勝利の昂揚感ではなく、深い井戸の底にいるかのような、静かで、どこまでも広がる空虚感だった。私は、国家の安寧という大義のために、一人の人間を社会的に抹殺した。その行為の正当性を、私は誰よりも理解している。だが、理解していることと、納得していることの間には、埋めがたい溝が存在することもまた、事実だった。


 弟、シャーロックならば、この結末をどう評するだろうか。

 彼は、この「静かなる戦争」を、ただの冷酷な計算だと断じるだろうか。あるいは、彼が遺した「蜘蛛の巣」の後始末としては、上出来だと皮肉めいた賛辞を寄越すだろうか。ライヘンバッハの滝壺に消えた彼の不在が、これほどまでに重く、現実的な質量をもって私の肩にのしかかってきたことはなかった。


 不意に、背後で砂利を踏む、軽い足音が聞こえた。

 振り返るまでもなく、それが誰であるかは分かっていた。約束の時間通りだった。


「雨上がりの公園とは、あなたにしては、少し感傷的な場所選びですこと」


 静かで、しかし凛とした声。アイリーン・ノートンが、私の数歩後ろに立っていた。

 彼女は、オペラハウスで見せた夜の闇のようなドレスでも、ホワイトチャペルに潜入した際の貧しい労働者の服装でもなかった。上質だが華美ではない、チャコールグレーの旅行着に身を包み、小さな帽子を被っている。それは、いかなる役割も演じていない、素の彼女に最も近い姿なのかもしれなかった。事件の渦中にあった時よりも、むしろその瞳は深く澄み渡り、内側から発光しているかのような、知的な輝きを湛えている。


「感傷ではない。ただの確認だ」と私は答えた。「汚物が洗い流された後の街の空気が、正常なものであるかどうかを、この目と鼻で確かめていただけだ」


「まあ、相変わらずですのね」

 彼女はくすりと笑い、私の隣に並んで、川面へと視線を向けた。二人の間に、心地よい沈黙が流れる。それは、互いの知性を探り合うような緊張を孕んだものではなく、困難な仕事を共にやり遂げた者だけが分かち合える、静かな敬意と信頼に満ちた沈黙だった。


「あなたのやり方は、どんな暗殺者の刃よりも冷たく、そして美しい。血を一滴も流さずに、人の魂だけを的確に殺すのですもの。クレイトン公爵は、今頃サナトリウムの窓から、自分が失った世界の幻影でも見ているのでしょう」

 彼女の声には、非難の色はなかった。むしろ、ある種の芸術作品を鑑賞するかのような、純粋な感嘆の響きがあった。


「彼は、自ら破滅を選んだ。私がしたことは、彼が歩むべき道を、少しだけ照らしてやったに過ぎん」私は淡々と応じた。「そして、その道筋を誤らせなかったのは、君という、極めて優秀な道標があったからだ」


 それは、私に可能な、最大限の賛辞だった。

 彼女は、私の言葉を真正面から受け止め、わずかに微笑んだ。

「光栄ですわ。おかげで、退屈とは無縁の、スリリングな数週間を過ごさせていただきました。報酬として頂いた“衣装代”は、次のゲームのための軍資金として、大切に使わせていただきますわ」

 彼女はそう言って、コートの胸元を軽く押さえた。その内ポケットに、あの巨大なダイヤモンドが眠っているのだろう。彼女にとって、それはもはや富の象徴ではなく、次なる冒険への切符となっていた。


 しばらくの間、我々は言葉もなく、ゆっくりと流れるテムズ川の濁った水面を眺めていた。川面には、灰色の雲と、その隙間から覗く青空がまだらに映り込んでいる。それはまるで、光と影が複雑に絡み合った、このロンドンの縮図のようだった。


 やがて、彼女が、ふと、独り言のように呟いた。

「彼も…あなたの弟君も、この結末を望んだのでしょうか」


 その問いに、私は答えなかった。答える言葉を持たなかった。シャーロックの真意は、彼自身にしか分からない。私が推測できるのは、彼が、この国の心臓部に巣食う癌の存在に気づき、それを白日の下に晒すことの危険性を理解した上で、自ら闇に潜る道を選んだということだけだ。彼は、兄である私にさえ、その重荷を分かち合おうとはしなかった。


 私の沈黙を、彼女は肯定と受け取ったのだろう。彼女は、私の横顔をじっと見つめると、はっきりとした口調で言った。その言葉は、まるで遺言のように、私の心の奥深くに刻み込まれた。


「あなたの弟君が、いつか、遠い国の霧の中から帰っていらしたら…どうか、よろしくお伝えになって」

 彼女はそこで一度言葉を切り、再び川面に視線を戻した。

「彼が遺した、実に厄介な蜘蛛の巣を綺麗に掃除したのは、彼の偉大なる兄君と…そう、ただの、“あの女”だった、と」


 “あの女(The Woman)”。

 シャーロックが、生涯でただ一度、敗北を認め、敬意を込めて与えた称号。その言葉を、彼女自身が、今、私との関係性の中で口にした。それは、過去の思い出への感傷ではない。彼女が、シャーロック・ホームズという伝説の一部であった自分自身と決別し、マイクロフト・ホームズという、また別のゲームの対等なプレイヤーとして、ここに立っているという、静かな、しかし絶対的な宣言だった。


 私は、彼女の方を見ずに、ただ前を見据えたまま、小さく頷いた。

「…ああ、必ず伝えよう」


 その短い返事だけで、彼女には全てが伝わったはずだ。

 彼女は、満足したように小さく息をつくと、私に背を向け、公園の出口に向かってゆっくりと歩き始めた。上質なコートの裾が、湿った風に静かになびいている。


 私は、彼女を呼び止めなかった。

 我々の間には、もはやありふれた別れの言葉は必要ない。

 彼女の背中が、数本の木々の向こうに消えようとした、その時。彼女は足を止め、しかし、こちらを振り返ることはなく、澄んだ声だけをこちらに届けてきた。


「次の手は、私から。どうぞ、退屈なさらないで、ミスター・ホームズ」


 それは、挑戦の予告であり、再会の約束だった。

 彼女の姿が、雨上がりのロンドンの街並みの中に完全に溶け込んで見えなくなるまで、私はその場を動くことができなかった。テムズ川の冷たい風が、私の頬を撫でていく。それは、孤独な王座に吹き付ける風とは、どこか違う、微かな熱を帯びているように感じられた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

いかがでしたでしょうか? 面白いと感じていただけましたら、ぜひブックマークや評価【☆☆☆☆☆】で応援をお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ