第1章:二度目のジャック(4) ― 盤上の駒、盤外の駒 ―
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その日の夜、私の部屋の扉を叩いたのは、執事ではなく、影そのものだった。音もなく現れ、音もなく室内に滑り込んできた少年は、ベイカー街の擦れっ辛いチンピラの仮面を脱ぎ捨てていた。その目にはライムハウスの淀んだ空気を吸い込んだ者だけが持つ、老獪ともいえそうな光が宿っている。ウィギンズだ。
「旦那様。狐は、思ったよりも深い巣穴に、そして意外な場所にも潜んでいました」
彼は上着についた煤を払うこともせず、私の目の前に立った。その小さな身体から発せられる情報の密度は、スコットランドヤードの分厚い報告書の束を凌駕していた。
「まず、日本の狐について。ライムハウスの裏社会では、日本の組織が『古い箱』を探して暗躍していると噂が広まっています。彼らは『影』と呼ばれる密偵を使っているらしく、加藤大尉もその一員と見られています。メアリー・アンは、彼らのために動いていたようです」
日本の組織。加藤大尉。レストレードが聞けば飛びつきそうな情報だ。だが、ウィギンズの報告はそこで終わらなかった。
「ですが、奇妙な話も。波止場近くの情報屋が、数日前、クレイトン公爵の執事と密会していたと。さらに別の筋からは、辻馬車の目撃証言にあった『シルクハットにマントの男』が、ライムハウスの阿片窟の裏口で、ある男に金の入った封筒を渡していた、という話も。その男の横顔が、公爵本人に酷似していた、と」
クレイトン公爵が、自らライムハウスの闇に足を踏み入れている。私の脳内で、二つの巨大な影――日本の軍部と大英帝国の貴族――が、一つの獲物を巡って対峙する構図が完成した。
私がウィギンズの報告を吟味していると、部屋の電話がけたたましく鳴り響いた。執事が受話器を取り、私に繋ぐ。相手はレストレード警部だった。その声は、興奮と混乱で上ずっている。
「ホームズ様! ご報告が! メアリー・アンの足取りを追ったところ、ライムハウスの骨董商に行き着きました! しかし…!」
「その店の主人が、死体で発見された。そうだろう、警部」
私が静かに告げると、電話の向こうでレストレードが息を呑む音が聞こえた。
「な…なぜそれを…! はい、その通りです。今朝、店の奥で冷たくなっているのが見つかりました。検死官によれば、毒殺。昨夜のうちに殺害されたものと。部屋はひどく荒らされており、我々は、日本の組織が口封じのために…」
「少し違うな」と私は遮った。「犯人はまだ『箱』を手に入れていない。骨董商は、箱の在り処を知っていた最後の人間だったのだろう。だから殺された。犯人は情報を得るために彼に近づき、用が済んだか、あるいは抵抗されたため、彼を殺して店を荒らした。だが、結局、箱は見つからなかったのだ」
私の言葉は、レストレードの性急な結論を粉々に打ち砕いた。彼はしばらく絶句していたが、やがて絞り出すような声で言った。
「では…犯人は、今も『箱』を探して…」
「そうだ。そして、我々は犯人よりも先にそれを見つけ出さねばならん。ご苦労だった、警部。引き続き、加藤大尉の監視と、骨董商の周辺捜査を頼む」
私は一方的に電話を切り、受話器を置いた。そして、部屋の中央に立つウィギンズに向き直る。
「聞いた通りだ、ウィギンズ。舞台は整った。日本の『影』、英国の『公爵』、そして行方知れずの『箱』。三者の鬼ごっこだ」
「旦那様は、その箱の在り処に、もう見当がおつきで?」
ウィギンズの目が、探るように私を見つめる。
「完全ではない。だが、可能性は絞られた」
私は机の上に広げられたロンドンの詳細な地図の上に、指を滑らせた。ホワイトチャペルの犯行現場。ライムハウスの骨董店。それらを結ぶ線。そして、メアリー・アンの行動範囲。
「プロの諜報員や、老獪な貴族は、合理的に物事を考える。だが、彼らは娼婦メアリー・アンの心を読めなかった。彼女が『箱』を二つの勢力から隠したとすれば、それは彼女にとって最も安全で、最も個人的な場所のはずだ」
私の指が、地図上の一点で止まった。そこは、ホワイトチャペルのはずれにある、小さな教会の墓地だった。記録によれば、メアリー・アンは数年前に幼い娘を病で亡くし、その墓に今でも頻繁に花を供えに行っていたという。警察が見過ごした、取るに足らない情報。
「人は、最も大切なものを、最も大切な思い出の場所に隠す。特に、他に頼るもののない人間はな」
「娘の墓…」ウィギンズが呟いた。
「そうだ。犯人たちは、互いの腹を探り合うことに夢中で、被害者の個人的な背景まで深く探るという発想がなかった。彼らの計算にも、僅かな隙があったというわけだ」
これで、第1章の幕は下りた。切り裂きジャックの亡霊は消え去り、その背後に隠れていた国際的な陰謀の輪郭がはっきりと姿を現した。これはもはや、ロンドン警視庁が扱うべき事件ではない。大英帝国の国益に関わる、私の「仕事」だ。
私はウィギンズに鋭い視線を向けた。
「ウィギンズ。君の部下を数名、その墓地へ向かわせろ。ただし、決して動くな。罠にかかるのが日本の狐か、英国の獅子か、静かに見極めさせるんだ。そして君は、私と共に来る。我々には、彼らが罠にかかる前に、済ませておくべきことがある」
「へい、旦那様。何なりと」
ウィギンズは、まるでこれから始まる危険な遊戯を楽しむかのように、にやりと笑った。
私は窓の外に広がる、霧に沈むロンドンの夜景を見つめた。盤上の駒は、すべて配置された。だが、私は盤上で駒を動かすだけの退屈な遊戯は好かん。
「クレイトン公爵に、会いに行く」
盤外から、キングに直接王手をかける。不愉快な遊戯は、いよいよ佳境を迎えようとしていた。
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【次回予告】
次回、「第2章:女王陛下の不興」。
どうぞお楽しみに!




