第13章:王のチェックメイト(1) ― 灰色の処刑宣告 ―
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時刻は、午前三時をわずかに回ったところだった。
ディオゲネス・クラブの、私の私室は、墓場のような静寂に包まれている。窓の外では、数時間前までロンドンを支配していた濃霧が嘘のように晴れ、冷たく澄んだ月光が、ペルシャ絨毯の上に幾何学的な模様を描き出していた。先ほど、クラブへの帰路で私を襲った暗殺者たちの痕跡は、すでに私の配下の手によって、ロンドンの闇から綺麗に消し去られているだろう。まるで、何も起こらなかったかのように。
私は、肘掛け椅子に深く身を沈め、指先でこめかみをゆっくりと揉みほぐしていた。クレイトン公爵との対峙、そしてその後の襲撃。肉体的な疲労はほとんどない。鍛錬は欠かしたことがないし、あの程度のチンピラは、私の日常における計算外の変数にすら入らない。問題は、精神的な疲労だ。この事件の根が、私が守るべき大英帝国の、まさに中枢にまで食い込んでいたという事実。そして、その腐敗を、私の弟が、たった一人で嗅ぎつけ、対処しようとしていたという事実。その二つが、鉛のように重く、私の思考にのしかかっていた。
さて、どう始末をつけるか。
クレイトン公爵という、この国を蝕む癌細胞を、どう摘出するか。
通常の思考回路であれば、答えは単純だ。スコットランドヤードに全ての証拠を引き渡し、彼を逮捕させ、法廷の場で裁かせる。レストレード警部あたりは、大貴族を逮捕するという大手柄に、狂喜乱舞するだろう。世間は、正義が成されたと喝采を送り、新聞は数週間にわたって、この世紀のスキャンダルを書き立てるに違いない。
だが、それは「野蛮」だ。あまりにも、野蛮で、非効率的で、そして危険な選択肢だった。
公爵を法廷に引きずり出すということは、彼が犯した罪の全てを、白日の下に晒すということだ。それは、単なる殺人事件の公判には留まらない。数年前のジャック・ザ・リッパー事件における、政府と警察の失態と隠蔽工作。王室周辺にまで及んだ疑惑。そして、モリアーティ教授が、その情報を手にして、英国政府そのものを脅迫していたという、国家の根幹を揺るがす事実。それら全てが、法廷という舞台の上で、無防備に暴露されることになる。
結果はどうなる?
国民は、政府に、王室に、そしてこの国を治める全てのシステムに対して、深刻な不信感を抱くだろう。政権は転覆し、国内は混乱に陥る。諸外国は、大英帝国の威信が失墜したと見て、植民地や国際関係において、ここぞとばかりに攻勢をかけてくるだろう。一つの駒――たとえそれがどれほど邪悪なキングであったとしても――を盤上から取り除くために、チェス盤そのものを叩き割るような愚行は、私には到底許容できない。
弟、シャーロックならば、どうしただろうか。
おそらく彼は、真実の完全なる解明を優先しただろう。社会がどうなろうと、国家の威信がどうなろうと、彼は事件の論理的な帰結として、犯人が法の下で裁かれることを選んだかもしれない。彼にとって、世界とは、解き明かすべき謎と、解決すべき事件の集合体だ。その純粋さが、彼の強みであり、同時に、危うさでもあった。
だが、私は違う。
私は、マイクロフト・ホームズだ。私にとって、世界とは、維持し、管理し、安定させなければならない、巨大で複雑な機械装置に他ならない。一つの歯車が狂えば、全ての機能が停止する。私の役割は、その歯車が狂わぬよう、油を差し、調整し、時には、摩耗した部品を、誰にも気づかれぬように交換することだ。
クレイトン公爵は、もはや修復不可能なほどに摩耗し、周囲の歯車を破壊し始めた、危険な部品だ。ならば、交換するしかない。ただし、機械全体を止めることなく、静かに、そして完全に取り除くのだ。
私は、ゆっくりと立ち上がると、重厚なマホガニーのデスクに向かった。
これから行うのは、裁判ではない。処刑だ。法廷ではなく、情報という名のギロチン台で行う、静かなる社会的処刑。公爵を、生きたまま、社会的に「死体」へと変えるのだ。
私は、引き出しの奥から、数冊の分厚い手帳を取り出した。それらは、私が長年にわたって蓄積してきた、英国の主要人物に関する「非公式」な記録だ。その中の一冊、クレイトン公爵のページは、インクの染みと走り書きで、黒々と埋め尽くされていた。
――インド総督府時代の不正蓄財。現地の王族から不当に巻き上げた宝石のリスト。
――南アフリカのダイヤモンド鉱山における、非人道的な労働環境の黙認と、そこから得られる莫大な利益。
――政敵を失脚させるために、彼が仕掛けた数々のスキャンダルと、その証拠となる手紙の写し。
――彼の派閥に属する議員たちの、公にできない醜聞の数々。
――そして、彼の妻が、精神を病んで療養所に入るに至った、家庭内の冷酷な仕打ち。
これらの情報は、それぞれが強力な爆弾だ。だが、一度に全てを爆発させては、爆風がこちらにも及ぶ。重要なのは、タイミングと、投下する場所だ。
私はペンを手に取り、一枚の白紙に、蜘蛛の巣のような図を描き始めた。中心に「クレイトン公爵」と記し、そこから何本もの線を伸ばしていく。線の先には、様々な名前と組織が書き込まれていった。
『タイムズ』紙の、野心的な若手政治記者。彼には、公爵の政治資金に関する、ほんの僅かな、しかし致命的な矛盾点を。匿名の手紙で、調査のきっかけだけを与えればいい。彼は、スクープの匂いを嗅ぎつけ、自ら獲物を追い詰めるだろう。
シティで最も貪欲なことで知られる、とある金融ブローカー。彼には、公爵が投資している企業の、偽りのない財務状況を。公爵の資産が、砂上の楼閣であることを示唆するだけで、彼は我先にと資金を引き上げ、市場にパニックの火種をばらまくに違いない。
下院で、公爵と常に対立している、清廉潔白を売り物にする改革派の議員。彼には、公爵が植民地で犯してきた非人道的行為に関する、元役人からの「良心の告発」という形をとった手記を。彼は、議会でこれを正義の剣として振りかざすだろう。
そして、ゴシップで成り立っている大衆紙の編集長。彼には、公爵家の家庭内の不和という、大衆が最も喜ぶ甘い蜜を。
私は、それぞれのターゲットに、最も効果的な情報を、最も自然な形で届けるための筋書きを、冷徹に組み立てていった。情報源は、決して私に繋がらないように、幾重にも偽装を施す。私は、ただ、ドミノの最初の牌を、指で軽く押すだけだ。あとは、牌が勝手に、壮大な崩壊の絵図を描いてくれる。
全ての計画を練り上げた時、窓の外が、わずかに白み始めていた。
ロンドンの街が、新たな一日を始めようとしている。だが、クレイトン公爵にとって、今日という日は、彼の人生の終わりの始まりとなるだろう。彼は、朝、新聞を手に取った瞬間から、自分が築き上げてきた世界が、足元から静かに崩れ落ちていく音を聞くことになる。友人だと思っていた者たちが、手のひらを返して彼を非難し、彼が信じていた権力が、彼を見捨てていく。彼は、自分が巨大な網に絡め取られたことに気づくが、その網を仕掛けた者の姿は、決して見ることはできない。
最後に、一つだけ、残された変数がある。
アイリーン・ノートン。そして、最後の抵抗を試みるであろう、追い詰められた公爵本人だ。
公爵は、自らの破滅を悟った時、必ずや、その元凶と信じる者を道連れにしようとするだろう。その矛先は、私か、あるいは、より狙いやすいアイリーン・ノートンに向かうはずだ。
私は、彼女を危険に晒すつもりはない。だが同時に、彼女には、この芝居のフィナーレを、特等席で鑑賞してもらう必要がある。いや、彼女自身が、この芝居を締めくくる、最後の重要な「舞台装置」となってもらわねばならない。
私は、電信用の用紙を取り寄せると、ごく短い文面を書き記した。
『今宵、オペラハウスへ。演目はカルメン。ロイヤルボックスにてお待ちしております。最高の席をご用意いたしました。 M.H.』
このメッセージを受け取った彼女なら、その真意を即座に理解するだろう。それが、彼女の安全を確保するための招待状であると同時に、自らを囮として、最後の狂気に駆られた獣を、公衆の面前へとおびき出すための、残酷な罠への招待状であることを。
私は、部下を呼び、書き上げた複数の指示書と電信文を、それぞれの宛先へ、迅速かつ極秘に届けるよう命じた。
全ての手は、打たれた。
私は再び肘掛け椅子に戻り、目を閉じた。頭の中では、チェス盤が鮮明に浮かび上がっている。黒のキング(公爵)は、四方を私の駒に囲まれ、もはや逃げ場を失っている。彼はまだ、自分がチェックメイト寸前であることに気づかず、盤上を虚しく動き回っているだけだ。
「チェックメイトだ、公爵」
私は、誰に言うともなく、静かに呟いた。
その声は、白み始めたロンドンの空に、静かに溶けて消えていった。これから始まるのは、血の流れない、しかし、何よりも残酷な処刑なのだ。
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