第12章:最後の駒(5) ― キングの終焉 ―
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ハロルド・クレイトン公爵は、自邸の書斎で、夜明けの光がステンドグラスを通して、血のように赤い模様を床に描き出すのを、ただ無感動に眺めていた。彼の顔は、この数時間で十年は老け込んだかのように、深い疲労と絶望の色に染まっていた。手にしたブランデーグラスは、震える指から滑り落ちそうになっている。
失敗だ。完全な、そして屈辱的な失敗だった。
マイクロフト・ホームズ。あの忌々しい役人風情の男は、こちらの襲撃を完璧に予測し、まるで子供をあやすかのように、いともたやすく返り討ちにした。戻ってきた手駒の報告は、支離滅裂だった。曰く、杖の一撃で膝を砕かれた。曰く、闇の中から飛んできたナイフに腕を貫かれた。まるで伝説の剣士か何かのような描写に、公爵は報告者を殴りつけたい衝動を必死で抑えた。
そして、アイリーン・ノートン。あの女狐。
彼女の隠れ家を襲撃した者たちからは、何の連絡もない。おそらく、彼らもまた、無様に返り討ちに遭ったのだろう。あるいは、最悪の場合、あの女に捕らえられ、何かを喋ってしまった可能性すらある。
公爵は、自分が蜘蛛の巣に絡め取られた蠅であることを、ようやく悟った。マイクロフト・ホームズが張り巡らせた、見えざる法と権力の網。そして、アイリーン・ノートンが編み上げた、情報と策略の罠。その二重の網に、彼は完全に囚われてしまったのだ。
マイクロフトが提示した「慈悲」――監視下での引退――が、今となっては、抗いがたいほど魅力的な選択肢に思えた。だが、彼のプライドが、それを許さない。ホームズ兄弟と、あの女に、完全な敗北を認めることなど、死んでもできなかった。
ならば、どうする?
このまま、全てを失い、歴史の闇に葬り去られるのを待つのか?
いやだ。
断じて、いやだ。
公爵の目に、狂気の光が宿った。
チェスで、キングが追い詰められた時、盤上の駒が全て失われた時、最後に何が残る? キング自身だ。キングは、自らが駒となって、最後の抵抗を試みることができる。たとえ、それが相打ちを狙った、破滅的な一手だとしても。
「道連れだ…」
公爵は、うわごとのように呟いた。
マイクロフト・ホームズは、政府という巨大な城壁に守られている。今からでは、手出しは不可能だ。だが、アイリーン・ノートンは違う。あの女は、今もロンドンのどこかにいる。まだ、手が届く。
彼女を、この手で殺す。
自らの破滅と引き換えに、あの女だけでも、地獄へ引きずり込む。それが、彼に残された、最後のプライドの表明方法だった。
公爵は、震える手で、デスクの引き出しを開けた。その奥に隠されていたのは、ベルギー製の、ずしりと重いリボルバーだった。彼は、その冷たい鉄の感触を確かめるように、ゆっくりと銃を握りしめた。
問題は、どうやって彼女を見つけ出すかだ。
彼女は、すでに隠れ家を移しているだろう。ロンドンの広大な街の中から、一人の女を見つけ出すのは、不可能に近い。
だが、公爵には、一つだけ心当たりがあった。
それは、彼が彼女に初めて会った場所。彼女が、その類稀なる美貌と歌声で、ロンドンの社交界にその名を轟かせた、始まりの場所。
コヴェント・ガーデンのロイヤル・オペラ・ハウス。
今夜、そこでは、彼女がかつて主役を務めた演目『カルメン』が上演されることになっていた。もちろん、主役は別の歌手に代わっている。だが、あの女ならば、自らが演じた舞台に、何らかの感傷を抱いているかもしれない。あるいは、最も目立つ場所にこそ、最も安全な隠れ場所がある、と考えるかもしれない。それは、賭けだった。だが、今の彼には、その万に一つの可能性に賭けるしか、残されていなかった。
公爵は、よろめくように立ち上がった。
彼は、壁にかかった鏡に映る自分の姿を見た。やつれ、目に狂気を宿した、見る影もない老人の姿。これが、かつて大英帝国を裏から操ってきた男の、末路か。
「だが、まだ終わらん…」
彼は、リボルバーをコートの内ポケットに深くしまい込むと、誰に言うともなく、そう吐き捨てた。
彼は、誰にも告げず、使用人たちの目を盗んで、裏口から屋敷を抜け出した。霧はほとんど晴れ、空は鉛色の雲に覆われている。彼は、自らハンサムキャブを拾うと、震える声で、ただ一言、行き先を告げた。
「オペラ・ハウスへ」
馬車が、石畳の上を走り出す。
その車窓から見えるロンドンの街並みは、彼には、まるで色を失った灰色の絵画のように見えた。彼の心の中では、すでに、幕が下りようとしていた。自らの人生という、長く、傲慢で、そして孤独だった舞台の、最後の幕が。
その結末が、血塗られた悲劇になることを、彼は望んでいた。
そして、その悲劇の舞台に、アイリーン・ノートンというプリマドンナを、無理矢理にでも引きずり下ろすことだけを、考えていた。
彼は知らなかった。
彼が最後の賭けに出たその行動こそが、マイクロフト・ホームズが予測し、アイリーン・ノートンが待ち望んでいた、フィナーレの始まりであったことを。
彼を乗せた馬車がオペラ・ハウスへと向かう、その全ての動きが、マイクロフトの張り巡らせた監視網によって、逐一、ディオゲネス・クラブの静かな書斎へと報告されていることを。
そして、そのオペラ・ハウスの最も豪華なボックス席で、アイリーン・ノートンが、まるで女王のように観客を見下ろしながら、彼の到着を静かに待ち構えていることを。
クレイトン公爵という「最後の駒」は、自らの意思で、盤上の中央へと進み出た。
そこが、敵のキングとクイーンが待ち構える、チェックメイトのマスであることにも気づかずに。
ロンドンの空の下、最後の円舞曲が、始まろうとしていた。それは、権力者の断末魔の叫びと、一人の女の勝利の歌声が交錯する、壮絶なフィナーレとなるだろう。
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