第12章:最後の駒(4) ― 女王の反撃 ―
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ブルームズベリーのアパルトマンに漂っていた硝煙と血の匂いは、アイリーン・ノートンが窓という窓を全て開け放ったことで、夜の冷たい霧と共にゆっくりと薄れていった。床に転がっていた三人の男たちは、すでに存在しない。彼女は、彼らを縛り上げ、猿轡を噛ませた後、このアパルトマンのもう一つの秘密の出口――使用人用の階段に偽装された、裏通りへと直接通じる脱出路――から、文字通り「ゴミのように」放り出したのだ。
彼らがクレイトン公爵のもとへ這い戻るか、あるいは、巡回中の警官に発見されるか。どちらに転んでも、彼女には関係のないことだった。重要なのは、彼らが持ち帰るであろう「失敗」という報告と、マイクロフト・ホームズに送った「反撃」の狼煙だ。
アイリーンは、割れたガラスのドアノブの残骸を無造作に片付けながら、先ほどのマイクロフトからの返信を反芻していた。
『…結構。舞台装置は、こちらで用意する。主役の登場を待つ…』
彼女の唇に、満足げな笑みが浮かぶ。あの男は、理解が早い。彼女がただの駒でいることをやめ、自らゲームのプレイヤーとなることを宣言した時、彼はそれを阻止するのではなく、むしろ歓迎した。彼は、予測可能な駒よりも、予測不可能な協力者を好む。その点において、ホームズ兄弟は驚くほど似通っていた。
「舞台装置、ね…」
マイクロフトが用意する「装置」が、単なる情報や金銭でないことは、彼女にも分かっていた。それは、国家権力という、最も強力で、最も無慈悲な機構そのものだろう。彼女がクレイトン公爵という巨大な熊に最後の一撃を加える時、その背後には、大英帝国という巨大な狩人が控えている。これほど心強いバックアップはない。
だが、アイリーンは、全てをマイクロフトに委ねるつもりは毛頭なかった。彼女は、彼女自身のやり方で、このフィナーレを演出する。それは、力と権力による圧殺ではない。もっと優雅で、もっと残酷な、彼女ならではのやり方だ。
彼女は、襲撃で乱れた部屋を見渡した。ペルシャ絨毯には土足の跡がつき、壁にはもたれかかった男の脂汗が染み付いている。この隠れ家は、もはや安全ではない。公爵は、今夜の失敗に学び、次はもっと大規模な、あるいはもっと狡猾な手段で彼女を消しに来るだろう。同じ場所に留まるのは愚策だ。
アイリーンは、寝室のワードローブから、簡素だが仕立ての良い旅行用のスーツを取り出した。それは、目立たず、しかしどんな場面でも品位を失わない、彼女が「変装」のためではなく、「素の自分」でいる時に好んで着る服だった。彼女は手早く着替えを済ませると、必要最小限のものを小さな旅行鞄に詰め込み始めた。
数カ国の偽造パスポート、数種類の通貨、そして、小さな化粧ポーチ。そのポーチの中には、紅や白粉に紛れて、青酸カリを詰めたカプセルや、即効性の睡眠薬、相手を数時間錯乱させる幻覚剤などが、美しい小瓶に収められている。それは、彼女が世界中を渡り歩く中で手に入れた、生き抜くための「お守り」だった。
そして、鞄の底に、彼女は一冊の古びた革表紙の本を滑り込ませた。シェイクスピアのソネット集。マイクロフトとの暗号通信に使った、あのブックコードの原本だ。だが、彼女がこの本を手放さない理由は、それだけではなかった。
本の見返し部分に、走り書きのような、しかし力強い筆跡で、一つのイニシャルが記されている。
『S.H.』
シャーロック・ホームズ。
その名を思い浮かべた瞬間、アイリーンの胸に、チリリとした微かな痛みが走った。それは、感傷とは違う、もっと複雑な感情だった。好敵手に対する敬意、彼の知性への賞賛、そして、彼を出し抜いた瞬間の、あの忘れがたい高揚感。
ライヘンバッハの滝での彼の「死」を、彼女は信じていなかった。あの男は、モリアーティという巨大な蜘蛛の巣を破壊するために、自らもまた死を偽装し、世界のどこかで息を潜めているに違いない。いつか、ロンドンの霧の中から、ひょっこりと姿を現すだろう。まるで、何もなかったかのように。
「あなたなら、どうするかしら、シャーロック…」
彼女は、無意識のうちに、そう呟いていた。
もし、このゲームのパートナーが、マイクロフトではなく、シャーロックだったら。
彼は、もっと奇抜で、もっとドラマティックな方法で、クレイトン公爵を追い詰めたはずだ。犯罪を芸術と見なすあの男ならば、この事件を、ロンドン中を巻き込む壮大な劇場犯罪に仕立て上げたかもしれない。
そして、彼女の役割は?
彼はおそらく、彼女を駒として使うことなど考えもしなかっただろう。彼は、彼女を敵として、あるいは、対等なプレイヤーとして、盤上に招き入れたはずだ。そして、互いの知性の全てを賭けて、火花散るような頭脳戦を繰り広げたに違いない。
その想像は、アイリーンの心を、危険なほど甘美な興奮で満たした。マイクロフトとの連携は、効率的で、確実だ。だが、そこには、シャーロックと対峙した時のような、魂が震えるほどのスリルが欠けている。
アイリーンは、かぶりを振って、その感傷を追い払った。今は、過去を懐かしんでいる時ではない。彼女が生き延び、そして勝利するためには、感傷は最も不要な感情だ。
彼女は、最後の準備に取り掛かった。
書斎の机の引き出しの奥、隠し底になっていた部分から、一枚の古い写真を取り出す。それは、十年以上前に、パリの社交界で撮られたものだった。若き日のクレイトン公爵が、ある美しいバレリーナと親密そうに腕を組んでいる。そのバレリーナは、数年後、謎の投身自殺を遂げたことになっていた。だが、アイリーンは、その裏にある真実を知っていた。彼女は、公爵の闇のキャリアにおける、最初の犠牲者の一人だったのだ。
この写真は、それだけでは決定的な証拠にはならない。だが、「舞台装置」としては、極上の小道具になり得る。
さらに、彼女は小さな封筒を数枚用意し、それぞれに異なる宛名を書いた。タイムズ紙の編集長、スコットランドヤードのレストレード警部、そして、野党の有力議員。彼女は、それぞれの封筒に、クレイトン公爵の不正を示唆する、断片的な、しかし興味をそそるような匿名の告発文を書き上げた。
これらは、すぐには投函しない。これらは、彼女が仕掛けるフィナーレの、序曲となるべきものだ。公爵が、自らの破滅を悟った時、これらの手紙が同時にそれぞれの宛先に届くように手配する。彼の社会的生命に、時間差で、多方面から、同時にとどめを刺すための布石だった。
全ての準備を終えた時、東の空が、わずかに白み始めていた。
アイリーンは、開け放たれた窓辺に立ち、朝の冷たい空気を深く吸い込んだ。霧は晴れ始め、ロンドンの街が、その灰色の輪郭を現しつつある。
彼女は、もうこのアパルトマンには戻らないだろう。
次の隠れ家は、すでにいくつか目星をつけてある。ロンドンの喧騒に紛れ、再び彼女という存在を霧の中に溶け込ませるのだ。
「さあ、ショーの始まりよ」
アイリーン・ノートンは、誰に言うともなく囁いた。
その瞳は、夜明けの光を受けて、まるで獲物を見つけた肉食獣のように、冷たく、そして美しく輝いていた。彼女の反撃は、もう始まっている。クレイトン公爵が、自らの足元で、蜘蛛の糸よりも巧妙で、鋼鉄のワイヤーよりも強靭な罠が、静かに編み上げられていることに気づくのは、まだもう少し先のことになるだろう。
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