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マイクロフト ―ディオゲネス・クラブに雨は降る―  作者: 双瞳猫


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第11章:灰色の謁見(4) ― 兄の裁き ―

いつも応援ありがとうございます!双瞳猫です。

本作をお読みいただき、誠にありがとうございます。

「取引、ですって?」


 私の口から漏れた言葉は、自分でも驚くほど冷たく、そして静かだった。だが、その静けさこそが、私の内心で燃え盛る、絶対的な侮蔑の炎を最も正確に表していた。目の前の男は、私を、自分と同じ泥の中に引きずり込もうとしている。彼が生きる、自己欺瞞と権力欲にまみれた腐臭漂う世界へ。


 私は、彼の肩に置かれようとしていた馴れ馴れしい手を、黒檀の杖の先で、まるで汚物でも払いのけるかのように、そっと押し返した。公爵は、その予期せぬ冷たい感触に、びくりと身体を震わせた。


「閣下。あなたは、致命的な誤解をされている」

 私は、彼から一歩下がり、安全な距離を取った。

「あなたと私が、同じ種類の人間であると? とんでもない。あなたは、国家というシステムに寄生し、その血を啜って生きる寄生虫だ。一方、私は、この国を守るため、私自身がシステムそのものになることを選んだ。私の血管には血の代わりにインクが流れ、私の心臓は法律の条文で鼓動している。あなたのような私利私欲の感情が入り込む隙間など、どこにもありはしない」


 私の言葉は、一語一語が氷の礫となって、彼の作り物の笑みを打ち砕いていった。買収が失敗したことを悟った彼の顔に、再び焦りの色が浮かぶ。そして、追い詰められた獣が最後の牙を剥くように、彼は最も卑劣で、そして最も愚かな脅しを口にした。


「…そうか。ならば、君が守ろうとしているその『システム』とやらが、どれほど脆いものか、思い知らせてやろう」

 彼の声は低く、脅迫の色を帯びていた。「この秘密を公にすれば、王室だけでなく、君の愛する弟、あの高名なシャーロック・ホームズの名誉にも、拭い去れぬ傷がつくことになるぞ」


 その瞬間、私の思考は一瞬停止した。

 シャーロック。

 その名を、この男の汚れた口から聞くことになるとは。

 私の内側で、これまで完璧に制御されていた何かが、音を立てて軋んだ。杖を握る指先に、自分でも気づかぬうちに力がこもり、骨が白く浮き出る。書斎の空気が、まるで密度を増したかのように重く私の全身にのしかかってきた。


 公爵は、私の微かな変化を、好機と捉えたようだった。彼は、さらに言葉を続けた。

「彼は、モリアーティと刺し違えた英雄として、伝説の中に生きるのかも知らん。だが、その英雄が、この腐敗したスキャンダルの真相を知りながら、なぜかそれを公表せずに姿を消したとしたら? 世間はどう思うだろうな? 英雄の死の裏に、何か不都合な真実があったのではないかと、人々は疑い始めるだろう。英雄シャーロック・ホームズは、一転して、国家の醜聞を隠蔽した共犯者として、歴史に名を刻むことになるやもしれん。君は、それに耐えられるのかね、マイクロフト君?」


 それは、彼が放つことのできる、最後の、そして最悪の一手だった。だが、彼は知らなかったのだ。その一手こそが、彼自身の詰みを確定させる、自殺行為であったことを。


 私は、ゆっくりと顔を上げた。私の表情に、怒りの色はなかっただろう。ただ、絶対零度の無があったはずだ。

「弟の名を」

 私の声は、自分でも驚くほど静かだった。だが、その静けさは、嵐の前の不気味な静寂に似ていた。

「二度と、その汚れた口にするな」


 私は杖の石突きで、大理石の床を一度、コツリと鳴らした。それは、判事が判決を言い渡す際に木槌を鳴らす音に似ていたかもしれない。

「あなたは、何も理解していない。弟がなぜ、自らの名声も、その命さえも投げ打って、モリアーティと共に闇に消えたのか。それは、あなたのような人間が、この国の心臓部で腐敗の巣を広げていることに、彼が誰よりも早く気づいていたからだ。彼は、法やシステムといった盤上のルールでは、あなた方のような存在を断罪できないと悟った。だからこそ、彼は自ら盤を降り、盤外の亡霊となって、モリアーティという悪の根源を断ち切る道を選んだのだ」


 私の言葉は、もはや彼への説得ではなかった。それは、裁きの宣告だった。

「彼が守ろうとしたのは、あなた方が汚した王室の名誉でも、腐った貴族の既得権益でもない。彼が命を懸けて守ろうとしたのは、この国の魂そのものだ。そして、あなたのその下劣な脅迫は、彼の崇高な犠牲を汚す、最も許しがたい冒涜だ」


 私は、彼の目の前まで歩み寄った。彼は、私の気迫に圧され、思わず後ずさった。

「あなたは、私に選択を迫ったつもりだろうが、選択の余地など、もとより存在しない。あなたの脅しは、私の決意を揺るがすどころか、むしろ、あなたという癌細胞を、いかにして跡形もなく、そして静かに切除すべきかという、最後の確信を与えてくれた」


 私は、彼に背を向け、暖炉の方へと歩きながら、最終的な処方箋を告げた。

「あなたを法廷に引きずり出すことはしない。それは、私が最初に言ったように、乱暴なメスだ。患者である国家そのものに、無用な苦痛を与えることになる。それでは、弟の犠牲が無駄になってしまう」


 私は暖炉の前に立ち、燃えさしの炎を見つめた。

「だが、私がこの数週間で集めた証拠――サマーズ医師が死の直前に残した告白録の写し、あなたとモリアーティの間で交わされた金の流れを示す帳簿、そして、今回の哀れな模倣犯を殺害するためにあなたが雇った者たちの、宣誓供述書。これらが、私の手の中にある」


 私は振り返り、完全に顔面蒼白となった公爵を見据えた。

「あなたに、二つの道を与えよう。一つは、私がこれらの証拠の写しを、タイムズ紙の編集長、スコットランドヤードの次期警視総監候補、そして野党の党首の机に、静かに置くのを待つこと。そうなれば、あなたの社会的生命は終わる。公爵の地位は剥奪され、財産は没収され、あなたは歴史上、最も愚かで卑劣な売国奴として、永遠に記憶されるだろう」


 彼の膝が、がくりと折れそうになるのが見えた。

「そして、もう一つの道」

 私は、わずかな間を置いた。それは、死刑囚に与える、最後の慈悲の時間だった。

「明日、あなたは『重い心臓の病』を理由に、全ての公職からの引退を発表する。そして、二度とロンドンの土を踏むことなく、スコットランドの辺鄙な領地へ隠遁する。そこでのあなたの生活は、私の部下によって、生涯にわたり『見守られる』ことになるだろう。表向きは、病に倒れた老貴族の、穏やかな余生だ。だが、事実上、それは壁のない牢獄での終身禁固に他ならない」


 私は、彼の震える瞳を、冷ややかに見つめ返した。

「それが、私があなたに与える、唯一にして最大の慈悲だ。弟が守ろうとしたこの国の体面を、最低限、保つためのな」


 クレイトン公爵は、もはや立っていることもできず、近くのソファに崩れ落ちた。彼の顔には、怒りも、恐怖も、もはやなかった。ただ、全てを失った人間の、空虚な絶望だけが、抜け殻のようになったその表情に浮かんでいた。

 彼のプライド、彼の権力、彼が築き上げてきた全てのものが、このわずか数十分の間に、音もなく崩れ去ったのだ。


 書斎の暖炉の火が、まるで彼の生命力と呼応するかのように、勢いを失い、弱々しく揺らめいていた。部屋の空気は、墓石のように冷え切っていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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