第11章:灰色の謁見(3) ― 悪魔との契約書 ―
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ジェームズ・モリアーティ。
その名が私の口から放たれた瞬間、クレイトン公爵の顔から、最後の血の気が引いていくのが見て取れた。それは、単なる驚きや狼狽ではなかった。まるで、忘れていたはずの悪夢の登場人物が、現実の目の前に姿を現したかのような、根源的な恐怖。彼の全身が、目に見えない氷の手に掴まれたかのように硬直し、その呼吸は浅く、速くなった。椅子に崩れ落ちた彼の身体は、威厳ある公爵ではなく、ただ死の宣告を待つ、哀れな老人にしか見えなかった。
書斎の空気は、もはや冷たいというよりは、真空に近いほどの静寂に支配されていた。暖炉の炎の揺らめきさえもが、この異様な緊張感の中では、まるでスローモーションのように緩慢に見える。
「…なぜ、その名を…」
公爵が絞り出した声は、ひび割れたガラスのような音を立てた。彼は、私が彼の罪を知っていることよりも、私がモリアーティの存在にまで辿り着いたという事実に、より深く打ちのめされているようだった。それはそうだろう。モリアーティは、彼にとって国家の危機を乗り切るための「手段」であると同時に、自らの魂を売り渡した相手であり、決して他人に知られてはならない、最も暗く、最もおぞましい秘密そのものだったのだから。
「なぜ、ですって?」
私は、彼の絶望を観察することに、ある種の冷たい喜びを感じながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「閣下、あなたは大きな過ちを犯した。あなたは、悪魔と取引をした。そして、その悪魔が、私の弟によってライヘンバッハの滝壺に葬られたことを、まだご存じないようだ」
私の言葉は、彼にとって二重の衝撃だったに違いない。モリアーティの死、そして、その実行者が、私が「弟」と呼んだ人物であるという事実。公爵の目は大きく見開かれ、その中で混乱と恐怖が渦を巻いていた。彼は、自分が足を踏み入れたゲームの盤面が、想像を絶するほど広大で、複雑であったことを、今、この瞬間にようやく理解したのだ。
絶望の淵に突き落とされた人間が次にとる行動は、予測がつきやすい。それは、自己破壊か、あるいは、開き直りだ。そして、クレイトン公爵という男は、後者を選ぶ種類の人間だった。
数秒間の死のような沈黙の後、彼の顔に、奇妙な、そして不気味な変化が現れた。恐怖に歪んでいた表情が、徐々に尊大な傲慢さへと戻っていく。青ざめていた顔には、病的な紅潮が差し始めた。彼は、ゆっくりと、そしてわざとらしく、息を深く吸い込んだ。
「…そうか。そうだったのか」
彼は、まるで独り言のように呟いた。そして、私を真っ直ぐに見据えた。その目には、先ほどまでの怯えはなく、代わりに、狂信者のそれにも似た、歪んだ光が宿っていた。
「いかにも、その通りだ、ホームズ君。私は、モリアーティ教授の力を借りた。認めよう。だが、それは全て、この大英帝国を守るためだったのだ!」
彼は、壊れたダムから水が溢れ出すように、堰を切ったように語り始めた。その声は次第に熱を帯び、力強さを取り戻していく。
「君のような、机上の空論で国を動かしているつもりの官僚にはわかるまい! 現実の政治とは、泥にまみれ、時には悪魔とさえ手を結ばねば、この巨大な船を動かすことはできんのだ! カンバーランド公のスキャンダルが公になれば、どうなっていたと思う? 王室の権威は地に堕ち、民衆は政府を信じなくなり、アイルランドやインドの独立論者どもが勢いづく。帝国の屋台骨が、内側から崩壊するのだ! 私がやったことは、その崩壊を防ぐための、必要悪だったのだよ!」
彼の言葉は、書斎の壁に反響し、空々しく響いた。私は、彼のこの自己正当化の演説を、一切の表情を変えずに聞いていた。彼の論理は、一見すると筋が通っているように聞こえるかもしれない。だが、その根底にあるのは、醜悪な自己欺瞞と、特権階級の傲慢さに他ならなかった。
「ホワイトチャペルの娼婦数人の命と、大英帝国の安寧。どちらが重いか、君に問うまでもないだろう。私は、帝国のために、我が手を汚したのだ。モリアーティは危険な男だった。だが、彼の持つ犯罪ネットワークという名のメスは、国家という身体の深部に巣食った癌を、公式の外科医には不可能なやり方で、素早く、そして静かに切除することができた。私は、そのメスを借りたに過ぎん!」
彼は、自らの言葉に酔いしれるかのように、胸を張った。自分が、歴史の汚名を被ることも厭わない、悲劇の英雄であるとでも言いたげな口ぶりだった。
私は、彼の演説が終わるのを待って、静かに口を開いた。
「見事な演説ですな、閣下。まるで議会の答弁を聞いているかのようだ。ですが、その美辞麗句の裏にある真実を、私が知らないとでもお思いか?」
私の冷たい声に、公爵の顔が再びこわばった。
「あなたが守りたかったのは、『大英帝国の安寧』などではない。あなたが守りたかったのは、あなた自身を含む、腐敗した貴族社会の『既得権益』。そして、王室のスキャンダルが暴かれることで、自らの地位が危うくなることへの恐怖から逃れるための方便に過ぎない」
私は一歩、彼に近づいた。
「あなたは『国家』という言葉を盾にするが、あなたにとっての国家とは、このメイフェアの屋敷と、ウェストミンスターの議事堂、そしてバッキンガム宮殿だけで構成されている。ホワイトチャペルで恐怖に震える民衆も、植民地で搾取される労働者も、あなたの『国家』には含まれていない。彼らは、あなたの言う『安寧』のために、いつでも切り捨てられる駒でしかない」
私は、彼のデスクに置かれた、彼の家の紋章が刻まれた銀のインクスタンドを指さした。
「あなたは、モリアーティというメスを借りたと言った。違う。あなたは、モリアーティという悪魔に、自らの魂を売り渡したのだ。彼に弱みを握られ、彼の操り人形となり、国家の機密を渡し、彼の犯罪に目をつぶることで、束の間の安穏を手に入れた。あなたが守ったのは帝国ではない。あなたは、帝国を内側から蝕む、モリアーティという癌細胞の転移を、手助けしたに過ぎないのです」
私の言葉は、彼の最後の砦である自己正当化の壁を、粉々に打ち砕いた。公爵は、わなわなと唇を震わせ、何か反論しようとしたが、言葉にならなかった。彼の目から、先ほどの狂信的な光が消え、再び、追い詰められた獣の絶望が浮かび上がった。
もはや、彼に逃げ場はなかった。論理も、大義名分も、全てが剥ぎ取られた。残されたのは、醜い罪の核心だけだ。
そして、彼は、最後の、そして最も愚かなカードを切った。
彼は、震える手でデスクの引き出しを開け、何かを探るように動かした。拳銃か? いや、それにしては動きが芝居がかっている。やがて彼は、顔を上げた。その表情は、先ほどまでとはまた違う、奇妙な親密さを装った笑みに変わっていた。
「…わかったよ、ホームズ君。君の言う通りだ。君は、全てお見通しというわけだ。さすがは、あのシャーロック・ホームズの兄君だけのことはある」
彼は、まるで旧知の友人に語りかけるかのような口調で言った。
「ならば、話は早い。君も私も、現実主義者だ。理想論だけでは国は動かせんことを、誰よりもよく知っているはずだ。この件を公にすれば、君が忠誠を誓う政府とて、無傷では済むまい。王室の名に泥が塗られ、国民は我々指導者層に、深い不信を抱くだろう。それは、君の望むところでもあるまい?」
彼は椅子から立ち上がり、デスクを回り込んで、私のすぐそばまでやってきた。そして、声を潜めて、悪魔が囁くように言った。
「手を組まないか、マイクロフト。私と君とで。この件は、我々だけの秘密にする。私は、私の持つ全てのものを、君に提供しよう。私の政治力、貴族社会での人脈、そして、表には決して出ることのない、莫大な資金。それらを使えば、君は、この国を、君の思うがままに動かすことさえできる。我々は、同じ目的を持つ同志になれるはずだ。共に、この国の『真の安定』のために、力を合わせようではないか」
私は、彼の顔を、ただ無表情に見つめていた。彼の吐く息からは、高級なブランデーの香りと、隠しきれない恐怖の匂いが混じり合って漂ってきた。
目の前の男は、私を、自分と同じ種類の人間だと、心底信じているようだった。大義のためなら、手段を選ばず、汚濁に手を染めることも厭わない、冷徹な権力者。
その醜悪な誤解こそが、彼が犯した、最大の過ちだった。
弟が、なぜ私に全てを打ち明けなかったのか。なぜ、独りで闇に消える道を選んだのか。その答えが、今、目の前のこの男の姿の中に、明確な形となって現れていた。システムの内側にいる人間は、いとも容易く腐敗し、大義を私利私うるさくの言い訳に使う。弟は、私がこの男のようにならぬよう、私を私の世界に留め置くために、独りで去ったのだ。
この男の提案は、私の存在そのものに対する、最大限の侮辱だった。
「取引、ですって?」
私は、静かに、そして心の底からの軽蔑を込めて、呟いた。
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