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マイクロフト ―ディオゲネス・クラブに雨は降る―  作者: 双瞳猫


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第1章:二度目のジャック(3) ― ライムハウスの影 ―

いつも応援ありがとうございます!双瞳猫です。

本作をお読みいただき、誠にありがとうございます。

 翌日の午後、私はペルメルにある自室で、インド方面からの貿易収支に関する報告書に目を通していた。数字の羅列は嘘をつかない。それは人間の感情のように揺らぎも、裏切りもしない、信頼に足る世界だ。しかし、その無機質な数字の向こう側に、昨日の事件の陰惨なイメージが、インクの染みのように滲んで見えた。


 不愉快な思考を断ち切るように、執事がレストレード警部の来訪を告げた。予定通りの時刻だ。私は報告書を脇に押しやり、警部を招き入れた。彼の顔には疲労の色が濃いが、その目には昨日にはなかった微かな光が宿っている。私の指示が、暗闇の中で手探りしていた彼に、一条の道筋を示したのだろう。


「ホームズ卿。ご指示いただいた件について、ご報告いたします」


 レストレードは敬礼もそこそこに、手にしていたメモを神経質に開きながら話し始めた。


「まず、加藤信明大尉の身柄を確保し、事情聴取を行いました。日本の公使館を通じての聴取となり、極めて難航しましたが…」


「結論を言え」


「…アリバイは、ありませんでした。事件当夜、彼は『一人で市中を散策していた』と主張するのみ。行き先も同行者も、何一つ明らかにしません。非協力的で、何を考えているのか全く読めません。ただ、彼の所持品や宿舎からは、凶器や血痕など、事件に直接結びつくものは何も発見できませんでした」


「そうだろうな。それほど用意周到な男が、そのような初歩的なミスを犯すはずがない」

 私の言葉に、レストレードは「やはり彼が…」と呟いたが、私はそれを無視して先を促した。


「被害者メアリー・アンの住所録の件です。ご指摘の通り、彼女は多数の人物と接触していました。その中に、気になる名前が一つ。『クレイトン』という名です。添えられたメモには『古い箱、高値で取引』とありました。クレイトン…もしや、あのクレイトン公爵家に関係が?」


 クレイトン公爵。ヴィクトリア女王の従兄弟にして、陸軍の重鎮。その名が出た瞬間、私の脳内で警鐘が鳴った。これは、単なる殺人事件の領域を逸脱し始めている。


「続けろ」


「は、はい。そして、辻馬車の御者への聞き込みです。犯行時刻の直後、現場から二本先の通りで、一人の男を乗せた辻馬車が目撃されていました。男はシルクハットにマントという上流階級の出で立ちでしたが、顔を深く隠し、御者にもほとんど口を利かなかったと。そして、行き先は…ライムハウス方面でした」


 ライムハウス。ロンドンの東の果て、異国の匂いと阿片の煙が立ち込める、治外法権の迷宮。上流階級の男。クレイトンの名。そして、東洋の無法地帯。点と点が、奇妙な形で繋がり始める。


「警部、君はまだ気づかないかね」


 私は静かに言った。


「この事件は、二重、三重の偽装が施されている。犯人は切り裂きジャックを模倣することで、猟奇殺人という第一の偽装を施した。そして、加藤大尉という、いかにも怪しい日本人を容疑者として浮かび上がらせることで、第二の偽装を仕掛けた。我々の目がその二つの偽装に釘付けになっている間に、真の目的を達成しようとしている」


「真の目的…では、あの『古い箱』が?」


「そうだ。メアリー・アンは、何者かの依頼でその『箱』を探していた。おそらく、クレイトン公爵家に関わる何かだろう。そして、彼女はその取引の過程で、依頼人とは別の勢力――おそらくは加藤大尉、あるいは彼が属する日本の組織――に接触した。情報を高く売ろうとしたのかもしれん。だが、その結果、彼女は口を封じられた」


 私の推理に、レストレードは愕然とした表情を浮かべた。「では、加藤大尉は犯人ではないと?」


「断定はできん。彼が実行犯である可能性は依然として残る。だが、彼がこの事件の『主役』ではないことは確かだ。彼は駒の一つに過ぎん。この事件の背後には、クレイトン公爵家と日本の軍部、二つの巨大な組織の影がちらついている。そして、その『箱』こそが、両者が狙う中心点だ」


 私は立ち上がり、窓の外に広がる灰色の空を見つめた。事件は、ホワイトチャペルの薄汚れた路地裏から、国家間の諜報戦という、より広く、より深い闇へとその舞台を移そうとしていた。


「やるべきことは二つだ」と私は続けた。「一つ、加藤大尉への尋問は続けろ。だが、目的は自白ではない。彼が誰と接触し、何を話したか、その背後にある日本の組織の動きを探るためだ。彼の監視を怠るな」


「もう一つは?」


「クレイトン公爵だ。表立って動くことはできん。だが、あらゆる非公式な手段を使って、公爵家と例の『箱』について探れ。なぜ公爵家の秘密が、ホワイトチャペルの娼婦を通じて取引されようとしていたのか。その接点こそが、この事件の核心だ」


「し、しかし、公爵家を捜査するなど…」


「だからこそ、君たち警察の出番ではない。これは私の仕事だ」


 レストレードは力なく頷き、新たな指示の重さに打ちのめされた様子で部屋を辞去していった。


 一人残された部屋で、私は再び思考の海に沈んだ。

 クレイトン公爵。加藤大尉。そして、二つの勢力が狙う『古い箱』。

 その箱には、一体何が入っているというのか。日英間の軍事機密か。あるいは、王家をも揺るがしかねないスキャンダルか。


 どちらにせよ、この事件はもはやスコットランドヤードの手に余る。レストレードの公式な捜査だけでは、この狡猾な狐を追い詰めることはできまい。非公式な手段が必要になる。


 私は執事を呼び、一枚のメモを渡した。


「これを、ベイカー街のウィギンズという少年に。可及的速やかに」


 メモには、ただ一言、こう記されていた。


『ライムハウスと貴族の館、二つの狩場だ。力を貸せ』


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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