第11章:灰色の謁見(2) ― 盤上の告白 ―
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「必然、かね」
クレイトン公爵は、私の言葉を鸚鵡返しにすると、唇の端を皮肉っぽく歪めた。彼は私に椅子を勧めることすらせず、巨大なデスクを挟んで立ったまま、まるで闖入者を値踏みするかのように、全身で私を威圧しようとしていた。その態度は、彼の長年の政治家としての経験からくる、相手の出鼻をくじくための常套手段なのだろう。だが、私にとって、そのような小手先の駆け引きは、チェスの盤面における無意味な一手でしかなかった。
私は彼の視線を意にも介さず、ゆっくりと部屋の中を見渡した。壁一面を埋め尽くす、革の背表紙がずらりと並んだ書架。そこには、法律、歴史、哲学の古典が整然と収められている。だが、そのどれもが、ただの装飾品のように、一度も開かれたことのない静謐さを保っていた。この部屋の主が、書物から知識を得るのではなく、人間を駒として動かすことで世界を学んできたことを、その光景は雄弁に物語っていた。
「突然の訪問、非礼をお詫びいたします。ですが、閣下と私の間柄で、形式ばった手続きは不要かと存じます」
私は、彼のデスクの前に置かれた、客人のための豪奢な椅子には目もくれず、暖炉のそばへと歩を進めた。燃え盛る炎が、私の顔にちらちらと影を落とす。
「我々の間柄、だと? 私と君の間に、個人的な付き合いがあった記憶はないがね」
公爵の声には、あからさまな不快感が滲んでいた。彼は、私が彼の領域に土足で踏み込み、主導権を握ろうとしていることを敏感に感じ取っていた。
「個人的な付き合いは、確かにございません。ですが、我々は共に、大英帝国の安寧という、同じ目的に仕える者同士。違いますかな?」
私は暖炉に背を向け、公爵と向き直った。炎の熱を背に受けることで、私はこの冷え切った部屋の中で、唯一の熱源となったような錯覚を覚えた。
「その通りだ。だからこそ、君の今日の行動は不可解だと言っている。君の仕事場はウェストミンスターか、あるいはディオゲネス・クラブの安楽椅子の上ではなかったのかね。君が自ら動くということは、国家にとってよほどの一大事が起きたと見える」
彼は探るような視線を私に投げかける。彼の頭の中では、私の訪問理由に関するいくつもの可能性が、猛烈な速度で計算されていることだろう。政敵の陰謀か、植民地での反乱か、あるいは王室内の新たな醜聞か。
私は、彼の思考の迷路に、一本の道を指し示すことにした。
「ええ、一大事です。ですが、それは未来に起こることではなく、過去に起きたことの残響です。――数年前の、ホワイトチャペルの霧深い夜に始まった、忌まわしい事件の」
その言葉が、見えない刃となって公爵を突き刺したのが分かった。彼の顔から、老練な政治家の仮面が一瞬にして剥がれ落ち、素の人間としての動揺が露わになる。瞳孔がわずかに収縮し、完璧に整えられた口髭の下で、唇が微かに引き攣った。彼はすぐに平静を取り繕ったが、最初の反応こそが真実だった。
「…切り裂きジャックのことかね。今更、あの下劣な狂人の話が、君を私の書斎にまで運んできたと? 巷では、模倣犯が出たと騒がしいようだが、スコットランドヤードに任せておけば済むことだろう」
彼は努めて冷静な声で言ったが、その声色には、隠しきれない硬さが混じっていた。
「ええ、表向きは。ですが、閣下も私も、物事の真相が、常にその『表向き』の裏側にあることを知っております」
私はゆっくりとデスクに近づいた。そして、彼が先ほどまで目を通していた書類――どこかの植民地からの収支報告書らしきもの――の上に、そっと指を置いた。
「例えば、この数字の裏にも、搾取された労働者の汗と涙があるように。我々が生きるこの社会は、無数の嘘と隠蔽の上に成り立っている」
私の指が触れたことに、公爵は侮辱されたかのように顔をしかめた。
「一体、何が言いたいのだ、ホームズ君。回りくどい言い方はよせ」
「では、単刀直入に申し上げましょう」
私は指を離し、彼の目を真っ直ぐに見据えた。
「数年前の切り裂きジャック事件。あれは、単なる狂人の起こした連続殺人事件ではなかった。その真相は、ある高貴な血筋の若者の愚行と、それを隠蔽しようとした者たちの、国家を巻き込んだ壮大な犯罪計画でした」
部屋の沈黙が、張り詰めた弦のように震えた。暖炉の薪がはぜる音だけが、やけに大きく響く。
公爵は何も言わなかった。ただ、その顔は青ざめ、石のように固まっていた。
私は、彼の沈黙を肯定と受け取り、言葉を続けた。それはもはや尋問ではなく、私が脳内で完璧に組み上げた事件という名の絵画を、一枚ずつ解説していく作業に近かった。
「カンバーランド公爵の、ホワイトチャペルの娼婦との倒錯した関係。それを嗅ぎつけた脅迫者たち。そして、王室のスキャンダルが白日の下に晒されることを恐れたあなたは、『国家の安寧』という大義名分を掲げ、この計画を主導した」
「…憶測に過ぎん」
ようやく、公爵が絞り出した声は、ひどくかすれていた。
「憶測、ですって?」
私は、心の底から意外であるかのように、わずかに首を傾げた。
「では、続けましょう。あなたは、スコットランドヤードの捜査に圧力をかけ、捜査を意図的に混乱させた。そして、あなたの忠実な駒であったサー・ロデリック・グレイ内務次官を通じて、脅迫者たちを『ジャックの新たな犠牲者』に見せかけて始末する計画を立てた。実行犯として選ばれたのは、サマーズ医師。彼は、カンバーランド公爵の主治医であり、弱みを握られていたが故に、この血塗られた計画に加担せざるを得なかった」
私は、一語一語、事実という名の杭を、彼の心臓めがけて打ち込んでいく。
「サマーズ医師は、最初の数件はあなたの指示通りに実行しました。ですが、彼の良心は、その罪の重さに耐えきれなかった。彼は、最後の標的を殺害した後、自らの命を絶つことで、この連鎖を断ち切ろうとした。――しかし、彼は死ぬ前に、ある人物に全てを告白していた。その告白こそが、今回の模倣犯事件の引き金となったのです」
「…何を…」
「今回の被害者は、サマーズ医師が最後に殺害した女の、たった一人の息子でした。彼は、母親の復讐を誓い、数年の時を経て、あなたの周辺を嗅ぎまわり始めた。あなたにとって、それは過去の亡霊の再来だった。あなたは、彼を黙らせる必要があった。そこであなたは、再び『ジャック』をロンドンの街に蘇らせた。彼をジャックの犠牲者に見せかけて殺害し、捜査を混乱させることで、自らへの追及の目を逸らそうとしたのです」
そこまで語り終えた時、公爵は、まるで糸の切れた人形のように、ゆっくりと椅子に崩れ落ちた。彼の顔には、もはや何の表情もなかった。ただ、深い絶望の色だけが、その瞳の奥に淀んでいた。
彼は、私が全てを知っていることを、完全に理解したのだ。
「…どうやって、それを…」
彼の声は、もはや囁きに近かった。
「私がどうやって知ったかは、重要ではございません。重要なのは、私が知っているという事実。そして、その知識を、私以外の人間もまた、共有しているという事実です」
私は、彼のデスクの上に置かれていた、精巧な作りのペーパーナイフを手に取った。その銀の輝きを眺めながら、私は最後の、そして最も重要なピースを、盤上に置いた。
「ですが、閣下。私が今日ここに来たのは、あなた個人の罪を問うためではありません。私が興味を持っているのは、もっと大きな謎です。――なぜ、あなたは、これほど巨大な秘密を、数年もの間、完璧に封じ込めることができたのか。あなた一人の力では、到底不可能なはずだ」
私はペーパーナイフを置き、再び彼の目を見た。その瞳の奥に、新たな恐怖の色が浮かび上がるのを、私は確かに見た。それは、自らの罪が暴かれることへの恐怖とは、質の異なる、もっと根源的で、巨大な存在に対する畏怖の色だった。
「あなたには、協力者がいた。いや、『支配者』と言うべきでしょうか。あなたの秘密を共有し、それを盾に、あなた方を裏から操っていた存在が。――犯罪界のナポレオン、ジェームズ・モリアーティ教授。違いますかな?」
その名を口にした瞬間、書斎の空気が、凍りついた。
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