第10章:ライヘンバッハの影(4) ― 兄の務め ―
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暖炉の火が、サー・ロデリックの告白録を灰に変えていく。紙は赤く熾り、インクで綴られた罪と恐怖は、黒い煤となって煙突の闇へと消えていった。証拠物件としては、私の記憶こそが最も安全な保管庫だ。これで、この文書が誰の目に触れることもなくなった。
私は、数時間前にたどり着いた結論――弟シャーロックが死を偽装した真の理由、そして彼が独りで背負い込んだ宿命――を、脳内で静かに反芻していた。
あの忌まわしい滝壺で、彼はモリアーティという犯罪界の王を葬った。だが同時に、その王が手中に収めていた「国家の心臓を止める爆弾」の存在を知ったのだ。そして彼は、その爆弾が二度と誰の手にも渡らぬよう、自ら亡霊となる道を選んだ。法の外から、この国の最も暗い秘密を守るために。
最初に胸を焼いた怒りと孤独の熱は、既に冷たい鋼のような決意へと変わっていた。
弟は、私を信頼しなかったわけではない。むしろ、その逆だ。彼は、私という存在が「英国政府そのもの」であることを、誰よりも正確に理解していた。だからこそ、法の外での活動が必要となるこの任務に、私を巻き込むわけにはいかなかった。システムの内側にいる私には、決して越えられない一線がある。彼は、私を私の役割に縛り付けたままにするために、独りで闇に消えたのだ。
それは、彼なりの、兄に対する最大限の敬意であり、そして残酷なまでの信頼だった。
ならば、私の務めは何か。
このディオゲネス・クラブの安楽椅子に座り、ヨーロッパ大陸で暗躍する弟の安全を祈り、送金を続けることか? 彼の不在によって生じたロンドンの空白を、ただデータとして眺めていることか?
違う。断じて違う。
弟が盤外から、孤独な戦いを続けているというのなら、私は盤上から、彼が戦う必要のある敵そのものを排除する。彼が外壁の綻びを塞ぐことに専念できるよう、私は内側から、建物を腐らせる癌細胞を、根こそぎ切除するのだ。
私の思考は、クレイトン公爵へと収斂する。
彼こそが、この腐敗の根源だ。モリアーティという悪魔に魂を売り、その庇護の下で安穏を貪り、主が消えた今、自らの罪を隠すために新たな殺人を繰り返す愚かな男。彼を生かしておくことは、弟が命がけで守ろうとしている均衡を、内側から破壊する行為に他ならない。
どう処理すべきか。
スコットランドヤードに突き出すのは、最も愚かな選択だ。公爵の口から王室の名が出た瞬間、大英帝国は計り知れないダメージを受ける。それは、弟の自己犠牲を無に帰す行為だ。
では、暗殺か? 霧の夜に、事故に見せかけて社会から消し去る。それは可能だ。私の権限と能力をもってすれば、痕跡一つ残さず実行できるだろう。だが、それは弟のやり方の亜流だ。法の外の手段だ。私がその領域に足を踏み入れてしまえば、彼が私と彼の間に引いた境界線が意味をなさなくなる。それは、彼の覚悟に対する裏切りだ。
私の選ぶべき道は、一つしかない。
英国政府という、私自身が体現するシステムそのものの力を使って、彼を社会的に抹殺する。
法廷という野蛮な舞台ではなく、もっと静かで、冷徹で、完全な方法で。彼の持つ爵位、財産、名誉、人脈、その全てを、音もなく剥奪し、生きたまま社会の墓場へと葬り去る。
それが、システムの番人たる私のやり方であり、兄としての務めだ。
そのための第一歩は、決まっている。
単身、彼の屋敷を訪れ、最後の謁見を行う。
それは交渉のためではない。脅迫のためでもない。ただ、宣告するためだ。ゲームの終わりを。そして、彼がいかに愚かな相手に戦いを挑んでしまったのかを、その骨の髄まで理解させるために。
私は、アイリーン・ノートンという駒の存在を思い出す。彼女は、私の予想を遥かに超える働きを見せた。そして今、彼女は事件の真相に、誰よりも近い場所にいる。彼女の処遇もまた、この清算の一部として考えねばならない。
彼女は危険な女だ。だが、その危険さこそが彼女の価値でもある。彼女は金や地位よりも、「知的な刺激」と「自らの能力を証明する舞台」を求める類いの人間だ。ならば、このゲームの結末を、特等席で見届ける権利を彼女に与えることこそが、最大の報酬であり、最も確実な口封じとなるだろう。
思考の迷路に、終着点が見えた。
私は静かに立ち上がると、執務室のベルを鳴らした。
「外套と杖を。それから、クレイトン公爵邸へ馬車を」
入室した従僕は、私の表情に何を見たのか、わずかに目を見開いたが、すぐに無表情に戻り、恭しく一礼して下がっていった。
窓の外では、ロンドンの街が朝の光の中にその姿を現し始めていた。
これから始まるのは、血の流れない、静かなる戦争だ。
シャーロック、お前はお前の場所で戦え。
兄は、兄の戦場で、このゲームに終止符を打つ。
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