第10章:ライヘンバッハの影(3) ― 静かなる幽閉 ―
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その同じ日の午後、ロンドンの喧騒から遠く離れたケント州の田園地帯は、秋の穏やかな日差しに包まれていた。サー・ロデリック・グレイの屋敷の庭では、色づき始めた木々の葉が、風に吹かれて乾いた音を立てている。
書斎の主であるグレイは、昨夜の告白以来、まるで抜け殻のようになっていた。彼は、食事もろくに喉を通らず、ただ暖炉の前に置かれた肘掛け椅子に座り、消え残った灰を虚ろな目で見つめているだけだった。
長年、彼の魂を苛んできた罪の重荷。それを、あの聖女のような女性――アリス・サマーズにすべて打ち明け、書き記したことで、彼は一種の解放感を感じていた。もちろん、自らが犯した罪が消えるわけではない。だが、少なくとも、神の御前で懺悔を果たしたのだという、倒錯した安堵感が彼を支配していた。
彼女は、自分の告白録を手に、クレイトン公爵という悪魔と戦うと言っていた。彼女こそが、神が遣わした正義の代行者なのだ。自分は、その手助けをしたに過ぎない。これからは、すべてを彼女に委ね、自分はこの静かな田舎で、残りの人生を贖罪に捧げよう。グレイは、そう自分に言い聞かせていた。
不意に、書斎の扉がノックされた。
「旦那様」
老執事の声だった。
「お客様がお見えでございます。政府の方だと…」
「政府だと?」
グレイの心臓が、氷水に浸されたかのように冷たくなった。クレイトン公爵の手が、もう回ったというのか。いや、そんなはずはない。まだ半日も経っていない。
「どなただ?」
かすれた声で問い返すと、執事は少し間を置いてから、告げた。
「マイクロフト・ホームズ様、と」
その名を聞いて、グレイは息を飲んだ。
マイクロフト・ホームズ。英国政府の影の実力者。彼を知る者は、彼を「政府そのもの」と呼んで畏怖する。なぜ、そんな大物が、こんな片田舎の引退した老人の元へ?
「…お通ししろ」
もはや、断るという選択肢はなかった。心臓が警鐘のように鳴り響く中、グレイは震える手で襟元を正した。
数分後、書斎の扉が静かに開き、一人の男が入ってきた。
年齢は四十代半ばだろうか。背が高く、やや恰幅の良い体躯。だが、その肉付きは弛緩したものではなく、内に秘められた強大なエネルギーを辛うじて抑え込んでいるかのような、不思議な威圧感を放っていた。額は広く、知性の光を宿した目は、まるで獲物を品定めする猛禽のように、鋭く、そして冷徹だった。
彼が、マイクロフト・ホームズ。
「サー・ロデリック・グレイ。突然の訪問、失礼する」
彼の声は、抑揚がなく、まるで機械が発しているかのように無機質だった。だが、その響きは部屋の隅々にまで染み渡り、空気を支配した。
「これはこれは、ホームズ卿。一体、どのようなご用件で…」
グレイは、かろうじて立ち上がり、挨拶をしようとした。だが、ホームズはそれを手で制し、まるで自分の書斎であるかのように、躊躇なくグレイの向かいにある椅子に腰を下ろした。
「単刀直入に伺おう、サー・ロデリック」
ホームズは、その冷たい目をグレイに据えたまま、言った。
「今朝方、貴殿の元を一人の女性が訪ねたはずだ。アリス・サマーズと名乗る、黒いヴェールを被った女が」
グレイの全身から、血の気が引いていくのが分かった。彼は、すべてを知っている。
「な、何のことですかな…私は、そのような女性は…」
「嘘は無意味だ」
ホームズの声は、温度を失ったまま、グレイの虚しい抵抗を切り捨てた。
「彼女は、貴殿から『告白録』とでも言うべきものを引き出した。数年前に貴殿が関与した、切り裂きジャック事件の真相。クレイトン公爵による犯人隠避と、捜査妨害の全貌。違いますかな?」
グレイは、言葉を失った。呼吸が浅くなり、指先が冷たくなる。この男は、なぜそこまで知っているのだ。あの女は、彼の差し金だったというのか?
「…貴殿は、あの女を、亡き友サマーズ医師の娘だと信じ込まされたようだ。そして、自らの罪を告白することで、魂が救われるとでも思ったらしい。実に、人間というものは、救いを求めるあまり、かくも容易く騙されるものだ」
ホームズの唇に、氷のような、しかし侮蔑の色を隠さない笑みが浮かんだ。
「残念ながら、サー・ロデリック。彼女はサマーズ医師の娘ではない。彼女の名は、アイリーン・ノートン。かつてはアドラーという姓で知られた、極めて有能な情報屋だ。そして、彼女を貴殿の元へ送り込んだのは、この私だ」
絶望。
グレイの心を満たしたのは、純粋で、底なしの絶望だった。
神の使いだと思っていた聖女は、悪魔の僕だった。懺悔の機会だと思っていたそれは、巧妙に仕組まれた罠だったのだ。彼は、自らの手で、自分の首を絞めるための証拠を、この男に渡してしまった。
「な…ぜ…」
かろうじて、声にならない声が漏れた。
「なぜ、貴殿が…?貴殿は、国家の安寧を守るのが、務めではなかったのか…?」
「その通り」ホームズは、静かに頷いた。「私は、国家の安寧を守る。そのためには、いかなる手段も厭わない。クレイトン公爵のような男が、王室のスキャンダルをネタに脅迫され、結果として犯罪王モリアーティの暗躍を許してしまった。これ以上の国辱はない。そして、その火種は、いまだ燻り続けている」
彼は、ゆっくりと続けた。その言葉の一つ一つが、宣告のようにグレイの鼓膜を打った。
「クレイトン公爵は、排除されねばならない。だが、彼一人の首を差し出しても、この問題は解決しない。貴殿のような『沈黙の証人』が存在する限り、このスキャンダルは、いつか必ず再び浮上する。それは、大英帝国の基盤に埋め込まれた、致命的な爆弾だ。そして、私は、爆弾の存在そのものを許さない」
グレイは、ようやくホームズの真意を理解し、戦慄した。
この男は、正義の裁きを下そうとしているのではない。彼は、ただ、リスクを「除去」しようとしているのだ。クレイトン公爵も、そして自分自身も、彼にとってはチェス盤の上から取り除くべき、危険な駒に過ぎない。
「アイリーン・ノートンが入手した貴殿の告白録は、クレイトン公爵を社会的に抹殺するための、極めて有効な武器となる。だが、その武器を使った後、その武器の存在自体が、新たなリスクとなる。貴殿という『生きた証拠』は、あまりにも危険すぎる」
ホームズは、すっと立ち上がった。その動きには、一切の無駄がなかった。
「貴殿には、二つの道がある」
彼は、暖炉の棚に飾られていた調度品を、まるで価値を鑑定するかのように、指で静かになぞった。
「一つは、不名誉の内に、すべてを公にされ、法の下で裁かれる道。貴殿の名誉、財産、全てを失い、一族は末代まで汚名を着せられることになるだろう。そして、貴殿の証言は、英国中を巻き込む大スキャンダルとなり、私が最も忌避する『混乱』を招く」
彼は、グレイに向き直った。その目は、もはや何の感情も映していなかった。
「そして、もう一つの道。それは、私の『保護』下に入り、この国のための『沈黙の証人』として、余生を送る道だ」
それは、選択肢の提示ではなかった。それは、命令だった。
「保護…だと?」
「そうだ。この屋敷で、これまで通りの生活を送ればいい。ただし、外部との接触は一切断たせてもらう。手紙も、訪問客も、全て私の管理下に置かれる。貴殿の健康と安全は、私が責任をもって保証しよう。貴殿は、誰にも知られず、誰の記憶にも残らず、ただ静かに、ここで生き続けるのだ。生きたまま、歴史の証人として封印される。それが、貴殿が国家に果たせる、最後の貢献だ」
グレイは、崩れるように椅子に座り込んだ。
死よりも残酷な宣告。それは、終わりなき幽閉。生きたまま、墓石の下に埋葬されることに等しかった。
「私は…」グレイの声は、もはや空気の震えに過ぎなかった。「私は、ただ…友を見殺しにした罪を…償いたかっただけだ…」
「ならば、これが貴殿にとっての、永遠の償いだ」
ホームズは、グレイの返事を待つまでもなく、彼に背を向けた。
「賢明な判断を期待する、サー・ロデリック。ああ、それから」
彼は、書斎の扉に手をかけ、振り返った。
「長年仕えてきた執事には、長期の休暇を与えるのがよかろう。明日からは、私が手配した、より『有能』な者が貴殿の世話をすることになる」
そう言い残すと、マイクロフト・ホームズは、まるでこの世の者ではない亡霊のように、音もなく書斎から去っていった。
一人残されたサー・ロデリック・グレイは、動くこともできず、ただそこに座り続けていた。窓の外では、変わらず穏やかな秋の午後が続いていた。だが、彼にとって、その窓はもはや外の世界に通じる出口ではなく、自らが閉じ込められた檻の鉄格子にしか見えなかった。
彼の懺悔は、誰にも届くことなく、この静かな書斎の中で、永遠に響き続けることになったのだ。
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