第10章:ライヘンバッハの影(1) ― 盤上の王、盤外の神 ―
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夜明け前のディオゲネス・クラブは、まるで深海のように静まり返っている。
窓の外では、夜の最後の残滓である濃紺の闇が、ロンドンの煤けた煉瓦を覆い隠し、街の醜悪さと喧騒を一時的に赦しているかのようだった。私の指定席である窓際の安楽椅子は、この沈黙の王国の玉座だ。ここからならば、世界を構成する情報の潮流を、誰にも邪魔されることなく観測できる。
従僕が、音もなく入室を告げたのは、東の空がようやく鉛色に変わり始めた頃だった。彼の捧げ持つ銀盆の上には、封蝋で固く閉じられた、分厚い封筒が一つ。差出人の名はない。だが、その必要もなかった。封筒から微かに漂う、上質な紙とインクの匂いに混じって、かすかな薔薇の香りがしたからだ。アイリーン・ノートン。彼女は、仕事が完了したことを知らせるサインとして、実に彼女らしい、ささやかで演劇的な演出を好む。
「ご苦労」
短い言葉で従僕を下がらせると、私はペーパーナイフで丁寧に封蝋を切り開いた。中から現れたのは、数枚にわたってびっしりと文字が書き連ねられた手紙――サー・ロデリック・グレイの告白録だった。インクの染みや文字の震えが、老人の恐怖と動揺を生々しく伝えている。私は最初の数行に目を通しただけで、アイリーン・ノートンという女の仕事ぶりに、改めて感嘆せざるを得なかった。彼女は、ただ情報を引き出したのではない。彼女は、一人の人間の魂を完全に解体し、その最も暗い秘密を、自らの手で書き記させたのだ。これはもはや尋問ではなく、芸術の域に達している。
私は暖炉に火を入れるよう命じると、告白録の全文を、一語一句たりとも疎かにせず読み始めた。
カンバーランド公爵の愚行。ホワイトチャペルの娼婦との倒錯した関係。それを嗅ぎつけた脅迫者たち。そして、王室のスキャンダルを揉み消すため、「国家の安寧」という大義名分を掲げて暗躍したクレイトン公爵。彼の指示のもと、スコットランドヤードの捜査に圧力をかけ、サマーズ医師を駒として使い、邪魔者を「切り裂きジャック」の犠牲者に見せかけて処理した、恐るべき計画の全貌。
すべては、私が予測した通りの筋書きだった。人間の欲望、恐怖、そして偽善が織りなす、ありふれた、しかし救いようのない悲劇だ。
告白録を読み終えた私は、それをテーブルの上に置くと、目を閉じて思考の海に深く潜った。
私の頭の中には、巨大な情報の宮殿が広がっている。そこには、この数週間で収集した、ありとあらゆるデータが整然と保管されていた。
アイリーンがホワイトチャペルの闇から拾い集めた、被害者たちの囁き。
レストレード警部がもたらした、今回の模倣犯事件の捜査資料。
政府の書庫の奥深くから私が掘り起こした、数年前のジャック事件に関する非公開文書。
そして今、私の手元には、事件の核心を知る当事者の、生々しい証言がある。
ピースは、すべて揃った。
私は脳内で、これらの情報を再構築し始める。それは、巨大なジグソーパズルを組み上げる作業に似ていた。一つ一つのピースを正しい位置にはめ込んでいく。
クレイトン公爵の野心が、事件の「動機」という名の骨格を形成する。
サー・ロデリック・グレイの弱さが、捜査妨害という「手段」の肉付けとなる。
サマーズ医師の良心の呵責が、「口封じ」という名の血を流させる。
そして、今回の模倣犯事件は、過去の罪が引き起こした、遅すぎた「報い」というべき残響だ。
パズルは、ほぼ完成に近づいていた。醜悪だが、論理的に破綻のない、一枚の絵画として。
だが。
完成したはずの絵画を前にして、私の知性は、一つの巨大な「空白」を感知していた。
それは、絵画そのものの瑕疵ではない。むしろ、その絵画を壁に掛けている、見えざる「額縁」の存在。あるいは、その絵画の価値を決定づけている、姿なき「鑑定士」の影。
疑問は単純だ。
なぜ、クレイトン公爵ほどの男が、これほど完璧に情報を統制し、数年もの間、この国家的なスキャンダルを完全に封印し続けることができたのか?
彼は有能な貴族だが、所詮は政府という巨大な機構の中の一つの歯車に過ぎない。彼一人の力で、政敵の嗅覚を欺き、報道機関のペンを封じ、そして何よりも、ロンドンの裏社会に蠢く無数のハイエナたちの口を、永遠に塞ぎ続けることなど、本当に可能だったのだろうか。
不可能だ。
そこには、クレイトン公爵自身の権力を超えた、何か別の、より強大で、より根源的な「力」が作用していたとしか考えられない。この事件の真相そのものを、外部から守るための、見えざる「防壁」が存在したのだ。
私の思考は、猛烈な速度で回転を始めた。過去のあらゆるデータが、私の脳内で明滅し、再結合を繰り返す。
ジャック事件が、まるで嵐が過ぎ去ったかのように、唐突に終息した時期。
その直後から、ロンドンの裏社会の勢力図が、静かに、しかし劇的に塗り替えられていった奇妙な数年間。
そして、その中心に常に存在していた、一つの名前。
数学教授。犯罪界のナポレオン。蜘蛛の巣の中心に座る、静かなる支配者。
ジェームズ・モリアーティ。
その名前にたどり着いた瞬間、私の背筋を、まるで氷の刃でなぞられたかのような悪寒が走った。
脳内の情報の宮殿で、今まで固く閉ざされていた扉が、軋みを立てて開く。
そうだ。あの男だ。
モリアーティは、偶然か、あるいは彼の悪魔的な知性によって意図的にか、切り裂きジャック事件の真相――王室と政府高官が関与した、この国家を根底から揺るがすスキャンダルの核心を、掴んでいたのだ。
私の脳裏に、戦慄すべき仮説が、雷光のごとく閃いた。
モリアーティは、その情報を白日の下に晒すことなどしなかった。そんな野蛮な方法は、彼の美学に反する。彼は、もっと静かで、もっと残酷な方法を選んだ。
彼は、その情報を「切り札」として手中に収め、クレイトン公爵をはじめとする政府の中枢を、裏から脅迫したのだ。
『あなた方の罪は、私が預かっておこう。その代わり、私のビジネスには干渉しないでもらいたい』
それは、声に出されることのない、悪魔との契約。
モリアーティは、英国政府そのものを人質に取ることで、自らの犯罪帝国を築くための、絶対的な「不可侵領域」を手に入れたのだ。クレイトン公爵らが守っていたのは、もはや王室の名誉だけではなかった。彼らは、モリアーティという神に首輪を繋がれた、哀れな番犬として、自らの破滅と国家の崩壊を防ぐために、彼の犯罪に目をつぶるしかなかったのだ。
この仮説が真実だとすれば、すべてが繋がる。
そして、ライヘンバッハの滝で私の弟が成し遂げたことの意味が、根底から覆る。
シャーロックは、ただ一人の犯罪王を社会から取り除いたのではなかった。
彼は、大英帝国という巨大な船倉に仕掛けられた、時限爆弾の起爆スイッチを握っていた男を、滝壺へと突き落としたのだ。
だが、待て。
スイッチを握る男は消えた。しかし、爆弾そのものは?
モリアーティが握っていた「情報」という名の爆弾は、彼の死と共に、霧散したわけではない。それは、彼の巨大な犯罪ネットワーク――彼の残党たちの手に、遺産として引き継がれているはずだ。
私は、暖炉の炎が揺らめくのを、ただ茫然と見つめていた。
弟は、それを知っていたのだ。
ライヘンバッハの崖の上で、彼は、自分が倒した相手の、その本当の恐ろしさを理解したのだ。
だから、彼は死ななければならなかった。
「モリアーティの残党狩り」――世間や、ワトソン君にさえそう信じ込ませて、彼は姿を消した。だが、本当の目的は違う。
彼の真の目的は、この「爆弾」が、残党たちの誰かの手によって、あるいは今回の事件のように、何かのきっかけで暴発することを防ぐこと。クレイトン公爵をはじめとする、このスキャンダルに関わった全ての人間を、盤外から監視し、牽制し、必要とあらば秘密裏に処理すること。
彼は、たった独りで、大英帝国の最も暗い秘密を守るための、名もなき亡霊となる道を選んだのだ。
私の胸の奥深くから、熱い何かがこみ上げてくるのを感じた。
それは、弟の恐るべき洞察力と自己犠牲に対する、兄としての誇り。
そして同時に、そのあまりにも重い宿命を、この私にさえ打ち明けることなく、独りで背負った愚かな弟に対する、どうしようもないほどの、深い怒りと孤独感だった。
「シャーロック…」
私の唇から、無意識にその名が漏れた。
クラブの静寂の中に、その響きは、あまりにも虚しく吸い込まれていった。
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