第9章:沈黙の証人(4) ― 夜明けの告白録 ―
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書斎の時計が、重々しく午前三時を告げた。
暖炉の火はほとんど消え、部屋の中には、窓から差し込む月光と、一本の蝋燭の頼りない光だけが揺らめいている。その薄明りの中で、サー・ロデリック・グレイは、床に膝をついたまま、堰を切ったようにすべてを語り始めた。それは、長年彼の魂を蝕んできた、罪の告白だった。
アイリーンは、彼のそばに静かに座り、その言葉に耳を傾けていた。彼女は、もはやアリス・サマーズでも、聖女でもなかった。彼女は、ただひたすらに真実を求める、冷徹な聴衆だった。時折、相槌を打ち、あるいは短い質問を挟むことで、老人の混乱した記憶の糸を、巧みに手繰り寄せていく。
「すべては…カンバーランド公爵の愚行から始まった…」
グレイの声は、懺悔する罪人のように、低く、かすれていた。
「あの方は、若い頃から素行に問題があり、我々内務省は、その後始末に幾度となく手を焼いてきた。そして、あの時…あの方は、ホワイトチャペルの娼婦に、深くのめり込んでしまわれたのだ」
それは、単なる一夜の戯れではなかった。王家の血を引く男が、身分を隠し、ロンドンの最下層の女と、倒錯した関係を続けていた。やがて、その関係に気づいた女の仲間たちが、公爵を脅迫し始めた。王室を揺るがす、致命的なスキャンダル。
「そこに、クレイトン公爵が現れた」グレイは、その名を口にするだけで、身を震わせた。「彼は、自らを『王室の番犬』と称し、この醜聞を力ずくで揉み消そうとした。彼は私を呼びつけ、こう言ったのだ。『これは国家の危機だ。君の愛国心を見せてくれ』と」
クレイトン公爵は、グレイにスコットランドヤードの捜査を妨害させ、脅迫者たちを切り裂きジャックの犯行に見せかけて処理する計画を立てた。そして、その計画の実行者として、サマーズ医師に白羽の矢を立てた。
「サマーズ医師は、もともとカンバーランド公爵の持病を診ていた、哀れな男だった。公爵の秘密を知りすぎていたがゆえに、断ることができなかったのだ。彼は、クレイトン公爵の命令で、クロラール水和物を使い、邪魔な人間を次々と…」
グレイは、言葉を詰まらせた。
「だが、サマーズ医師の良心は、その罪の重さに耐えきれなかった。彼は私に、すべてを公にすべきだと訴え始めた。クレイトン公爵に、そのことが伝わってしまったのだ…」
「そして、あなた様の兄君は、『事故』に遭われた」
アイリーンが、静かに言葉を継いだ。
「そうだ」グレイは、絶望的な声で頷いた。「テムズ川で見つかった彼の遺体…あれは、クレイトン公爵の仕業だ。口封じだ。私は…私はすべてを知りながら、恐怖のあまり、見て見ぬふりをした。自分の保身のために、友を見殺しにしたのだ!」
老人の嗚咽が、再び静かな書斎に響き渡った。彼は、自らの罪のすべてを吐き出し、虚脱したように床に突っ伏した。
長い沈黙が、部屋を支配した。
やがて、アイリーンが静かに立ち上がった。彼女は、机の上に置かれていた便箋とペンを手に取ると、グレイの前にそっと置いた。
「サー・ロデリック」
彼女の声は、夜の冷気のように、澄み切っていた。
「あなた様の告白は、確かに神の御前に届けられました。ですが、兄の無念を晴らし、この国の正義を取り戻すためには、それだけでは足りません」
グレイは、涙に濡れた顔を上げた。その目には、もはや何の光も宿っていなかった。
「あなた様の言葉を、形に残してください」アイリーンは、ペンを指し示した。「今、お話しくださったことのすべてを、あなた様ご自身の言葉で、ここに書き記していただきたいのです。それは、クレイトン公爵という悪魔と戦うための、唯一の武器となります。そして…あなた様が、ご自身の魂を救うための、最後の務めです」
彼女の言葉は、命令であり、同時に救済の申し出でもあった。
グレイは、しばらくの間、虚ろな目で便箋を見つめていた。だが、やがて、彼はゆっくりと身を起こすと、震える手でペンを取った。もはや、彼に抵抗する力も、意思も残ってはいなかった。彼は、憑かれたように、紙の上にインクを走らせ始めた。
クレイトン公爵の名前、カンバーランド公爵のスキャンダル、サマーズ医師の役割、そして自らが犯した捜査妨害の具体的な手口。真実が、一つ、また一つと、紙の上に刻印されていく。
アイリーンは、その様子を、ただ静かに見守っていた。ヴェールの下の彼女の瞳は、蝋燭の炎を映し、冷たく、そして美しく輝いていた。彼女は、一人の人間の魂が、過去の罪と向き合い、砕け散っていく様を、最高の特等席で鑑賞しているかのようだった。
東の空が、わずかに白み始める頃。
グレイは、数枚にわたる告白録を書き終えた。彼は、署名をし、紋章の指輪で封蝋を施すと、それを力なくアイリーンに差し出した。彼の顔には、すべてのエネルギーを使い果たした深い疲労と、それと同時に、長年の重荷から解放されたかのような、不思議な安堵の色が浮かんでいた。
「ありがとう、ミス・サマーズ…」彼は、かすれた声で言った。「君は…私のための、天使だったのかもしれない…」
アイリーンは、その言葉には答えず、告白録を静かに受け取った。ずしりとした紙の重みが、彼女の手に、確かな勝利の感触を伝えた。
「あなた様の勇気に、感謝いたしますわ、サー・ロデリック」
彼女は、深く一礼すると、音もなく書斎を後にした。
屋敷の外に出ると、夜明け前の冷たい空気が、彼女の火照った頬を撫でた。霧の向こうから、鳥のさえずりが聞こえ始める。
待たせていた馬車に乗り込むと、彼女は、手にした告白録をドレスの胸元にしまい込んだ。それは、マイクロフト・ホームズが求めていた、何よりも強力な「生きた証言」。クレイトン公爵の喉元に突きつける、致命的な刃だ。
馬車が、ロンドンへと向かって走り出す。
アイリーンは、窓の外に広がる、朝焼けに染まるケント州の空を見つめていた。
彼女の唇に、かすかな笑みが浮かんだ。
「最高の舞台でしたわ、サー・ロデリック」
彼女は、誰にともなく呟いた。
「さて、ミスター・ホームズ。次の幕は、いつ上がりましょうか」
ゲームは、最終章へと向けて、静かに、しかし確実に動き始めていた。
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