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マイクロフト ―ディオゲネス・クラブに雨は降る―  作者: 双瞳猫


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第9章:沈黙の証人(3) ― 嵐の前の祈り ―

いつも応援ありがとうございます!双瞳猫です。

本作をお読みいただき、誠にありがとうございます。

 その夜、ウィロウ・クリーク邸は、深い沈黙と闇に包まれていた。

 しかし、屋敷の主、サー・ロデリック・グレイの心の中は、吹き荒れる嵐のようだった。

 アリス・サマーズと名乗る女が去ってから、彼は書斎に閉じこもり、誰とも顔を合わせなかった。家政婦が運んできた夕食にも、一切手をつけなかった。ただ、安楽椅子に身を沈め、消えかけた暖炉の熾火を、虚ろな目で見つめ続けていた。


 あの女…アリス・サマーズ。

 彼女の顔が、声が、言葉が、彼の脳裏に焼き付いて離れない。

 アルフレッド・サマーズの妹。そんな存在は、聞いたこともなかった。だが、彼女が口にした言葉の一つ一つが、彼の記憶の墓標を、乱暴に掘り起こしていく。

『クロラール水和物』

『ホワイトチャペルでの奉仕』

『公爵閣下への忠誠』

 そして、最も彼の心を抉った言葉。

『兄は…誰かの罪を隠すために、「剪定」されたのでしょうか』


 剪定。

 その言葉は、彼が長年、自分自身の行為に対して、密かに使ってきた言葉だったからだ。

 彼は、大英帝国の庭師として、国家という庭の美観を損ねる雑草を抜き、病んだ枝を切り落としてきた。それが、内務官僚としての自分の使命だと信じていた。だが、あの事件は違った。あれは、剪定ではなかった。美しい花を守るために、毒を撒き、土壌そのものを汚染させる行為だった。


 クレイトン公爵からの、あの夜の呼び出し。

 彼の書斎で、アルマニャックの甘い香りに混じって漂っていた、権力者の腐臭。

『サー・ロデリック、君は国を愛しているな?』

 公爵は、そう切り出した。

『王室に連なるお方が、些細な過ちを犯された。ホワイトチャペルの下賤な女との、ほんの戯れだ。だが、その女が、事を嗅ぎつけたハイエナどもに、醜聞を売り渡そうとしている。これが表沙汰になれば、女王陛下のお心をどれほど痛めることになるか…分かるかね?』

 公爵の言葉は、脅迫でありながら、甘い誘惑の響きを帯びていた。国家への忠誠という、抗いがたい美名に包まれていた。

『君の力で、スコットランドヤードの捜査の矛先を、少しだけ逸らしてくれればいい。事は、すぐに収まる。これは、大英帝国の安寧を守るための、必要悪なのだよ』


 必要悪。その言葉に、彼は魂を売った。

 捜査資料に手を加え、有望な捜査線を断ち切らせ、無能な警部に捜査を任せた。そして、公爵の指示通り、サマーズ医師を使って、醜聞の元凶となる人間たちを「処理」させた。すべては、国家のためだと、自分に言い聞かせながら。


 だが、彼の心の中の神は、その言い訳を許してはくれなかった。

 事件が終息し、名誉の爵位と共に田舎へ追いやられた日から、彼の夜は悪夢に苛まれた。ホワイトチャペルの霧の中、助けを求めて叫ぶ女たちの声。そして、テムズ川の冷たい水に沈んでいく、サマーズ医師の絶望した顔。

 彼は、毎朝、薔薇園に出た。棘のある枝を剪定し、美しい花を咲かせることに没頭することで、心の罪悪感から逃れようとした。だが、薔薇の棘が指に刺さるたび、彼は自らの罪の深さを思い知らされるのだった。


 そして今日、あの女が現れた。

 死んだはずの過去からの、使者。

 彼女は、サマーズ医師の妹を名乗っていたが、グレイには分かっていた。彼女は、ただの遺族ではない。彼女の瞳の奥には、すべてを見透かすような、冷たい光が宿っていた。彼女は、自分の罪を知っている。そして、告解を迫っているのだ。


 グレイは、震える手で、書斎の机の引き出しを開けた。

 中には、一丁の古いリボルバーが、鈍い光を放って横たわっている。

 いっそ、これで…。

 この罪の記憶も、恐怖も、すべて終わらせてしまえば…。

 彼の指が、冷たい鋼鉄の銃身に触れた、その時だった。


 コン、コン、コン…


 再び、あの控えめなノックの音が、屋敷の静寂を破った。

 こんな夜更けに?

 グレイの心臓が、大きく跳ね上がった。まさか、公爵の差し金か?口封じのために…?

 恐怖に駆られ、彼はリボルバーを掴み、よろめきながら書斎の扉に駆け寄った。


「誰だ!」

 彼の声は、恐怖でかすれていた。


「夜分に申し訳ございません、サー・ロデリック」

 扉の外から聞こえてきたのは、あの女の声だった。アリス・サマーズ。

「どうしても、お伝えしたいことがございまして…もう一度、お邪魔いたしました」


 なぜ、彼女がここに?

 グレイは混乱しながらも、わずかな安堵を覚えていた。少なくとも、公爵の暗殺者ではなかった。

 彼は、リボルバーをツイードの上着のポケットに隠し、震える手で扉の錠を外した。


 扉を開けると、そこに立っていたのは、昼間とはまるで違う姿のアイリーンだった。

 彼女は、黒いシンプルなドレスをまとい、頭からレースのヴェールを被っていた。その姿は、まるで、夜の教会へ祈りに向かう、敬虔な信者のようだった。手には、一輪の白い薔薇が握られている。彼の庭から摘んだものらしかった。

「あなた様の庭の薔薇、あまりに見事でしたので…つい、一輪だけ、頂いてしまいました。お許しくださいませ」

 彼女は、ヴェールの下から、憂いを帯びた瞳でグレイを見上げた。


「…入りなさい」

 グレイは、まるで夢遊病者のように、彼女を再び書斎へと招き入れた。


 アイリーンは、部屋の中央に立つと、グレイに向き直った。

「サー・ロデリック。わたくしは、あなた様を責めるために、ここへ参ったのではございません」

 彼女の声は、静かで、しかし不思議な力強さを持っていた。

「わたくしは、兄の魂の救済を求めて、参りました。そして…あなた様の魂の救済も」


「私の…魂の救済だと?」グレイは、自嘲気味に呟いた。「私の魂など、とうの昔に地獄に売ってしまったよ」


「いいえ」アイリーンは、きっぱりと首を振った。「神は、悔い改める者に、必ずや赦しをお与えになります。あなた様は、長年、その罪の意識に苦しんでこられた。その苦しみこそが、あなた様の魂が、まだ救われるべきものであることの証です」

 彼女は一歩、グレイに近づいた。

「兄は、あなた様や、公爵閣下のような、力ある方々の命令に逆らえなかった。彼は、弱い人間でした。ですが、その弱さのせいで、彼の魂は、今も安らぎを得られずに、この世を彷徨っているのです」


 アイリーンは、懐から一枚の紙を取り出した。それは、彼女が昨夜、サマーズ医師の筆跡を真似て書いた、偽の手紙だった。

「これは、兄の遺品の中から見つけた、書きかけの手紙です。おそらく、あなた様に出そうとして、出せなかったものでしょう」

 彼女は、その手紙を、グレイの目の前に差し出した。


 グレイは、恐る恐る、その紙片を受け取った。

 そこには、震えるような文字で、こう書かれていた。


『サー・ロデリック・グレイ様

 私は、取り返しのつかない罪を犯しました。神よ、そして、私の手にかかってしまった哀れな魂よ、お許しください。

 公爵閣下は、悪魔です。彼は、国家への忠誠という美名の下に、我々を地獄へと引きずり込みました。

 サー・ロデリック、あなた様は、私とは違う。あなた様には、まだ、真実を語る力があるはずです。どうか、これ以上、悪魔の言いなりにならないでください。どうか、神の御前に、正しい道をお選びください。

 あなたの良心に、最後の望みを託します。

 アルフレッド・サマーズ』


 手紙を読み終えたグレイの目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。

 それは、偽りの手紙だった。だが、そこに書かれた言葉は、彼が長年、サマーズ医師から聞きたかった言葉、そして、自分自身に言い聞かせたかった言葉、そのものだった。

「ああ…サマーズ…すまなかった…すまなかった…!」

 彼は、その場に崩れ落ち、老いた子供のように声を上げて泣きじゃくった。偽りの遺書を、まるで聖遺物のように、胸に強く抱きしめながら。


 アイリーンは、泣き崩れる老人を、静かに見下ろしていた。

 彼女のヴェールの下の表情は、誰にも読み取ることはできない。そこにあるのは、聖母のような慈愛か、それとも、完璧な演技を終えた女優の、冷たい満足感か。

 彼女は、そっと膝を折り、グレイの肩に手を置いた。

「さあ、サー・ロデリック。すべてを、お話しください。あなた様の告解を、神に代わって、わたくしがお聞き届けいたします」

 その声は、嵐の去った後の静寂のように、書斎の隅々まで、優しく響き渡った。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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